Focus On
丹原健翔
アマトリウム株式会社  
代表取締役社長
メールアドレスで登録
orまずは小さくても圧倒的1位になる。そこから道は広がっていく。
才能を持つあらゆる人に新たな活躍の機会を届けるべく、エンタメ×IT領域で事業を展開するBIJIN&Co.(ビジンアンドカンパニー)。同社が提供する日本最大級のデジタル・キャスティングサービス「CLOUDCASTING(クラウドキャスティング)」は、従来アナログだったエンタメ業界の商習慣に新たな選択肢を創出し、業界全体の透明化と発展に貢献。大手芸能プロダクションや広告代理店、出版社などを裏から支える知られざるサービスだ。
代表取締役の田中慎也は19歳で起業し、札幌を拠点として多角的な事業経営に成功してきた経歴を持つ。2010年、「美人時計」の事業を買収し、現職に就任。日本全国の美人を起用してきたネットワークと蓄積したキャスティング関連データを基に、2016年、時代の変化に則した新事業として「CLOUDCASTING」をリリースした。同氏が語る「リスクの小さい挑戦の始め方」とは。
目次
華やかに見えるエンタメ業界も、その裏側は煩雑な事務作業に支えられている。予算や案件内容の精査から与信管理、請求書発行に反社チェックまで、アナログな人の繋がりが大切にされてきた領域だからこそ、これまであまりデジタル化が進んでこなかった。
しかし今、新型コロナウイルスの感染拡大による社会の変革を経て、急速に風向きが変わりつつあると田中は語る。
「コロナ前にリリースして営業をして、30社ぐらいは契約できていたのですが、こういったデジタル系には興味がありませんということでかなり断られていたんです。それがコロナで芸能界のお仕事が一斉になくなって、今もその流れでテレビ局に行って対面の営業をすることはできなくなっていたりするなかで、今度は一気に問い合わせが来るようになって」
BIJIN&Co.が提供するデジタル・キャスティングサービス「CLOUDCASTING(以下、「クラウドキャスティング」)」は、仕事をオファーしたい事業会社や広告代理店と、オファーを受けたいタレント・インフルエンサーをオンラインでマッチングする。現在登録キャストは3万7千人以上、提携する芸能プロダクションは大手をはじめ約350社にも上るという*(*2023年12月現在)。
「今まで芸能界では、口約束で『肖像権は1年契約です』という契約をしたり、それでマネージャーが辞めてしまったら当時どういう話をしたか分からなくなったりと、そういう業界だったんですよ。『クラウドキャスティング』では既存の契約関係だけでなく、インボイス制度や源泉徴収、マイナンバーなども含めて全てシステム上で一元管理できるようにしています」
検索から発注・契約・支払までをワンストップで担う。一見すると純粋なマッチングサービスのようでありながら、同サービスの真価は芸能事務所のDXに近いものである。
「たとえば、芸人の『さらば青春の光』さんなどは今すごく人気があると思うのですが、事務所やYouTubeチャンネルの概要欄のお問い合わせは、全て一旦『クラウドキャスティング』からお願いしますということになっていて、僕たちが一次請けしているんですよ。吉本興業さんで中堅の芸人さんの出演依頼もそうで、僕たちが情報を整理整頓して、一定の条件をクリアするものだけがマネージャーさんの管理画面に届くようになっていたりするんです」
「クラウドキャスティング」サービスサイトより
2023年には、業界初の「キャスティング報酬シミュレーター」機能をリリース。インターネット上の一般公開データと、年間1万件を超える「クラウドキャスティング」上での取引実績を参照し、依頼したい人と内容を入力するだけで現在の報酬相場が算出される仕組みとなっている。
対象キャストは「クラウドキャスティング」登録の有無とは関係がなく、Wikipediaにページさえあればいい。まさに依頼主と受け手双方の円滑な取引をサポートし、従来のキャスティング報酬の在り方を変えていくサービスだ。
「これまで報酬面はブラックボックスにされがちだったのですが、『おそらく高いから発注できないだろう』とか、機会損失が生まれる余地は大きかったと思っていて。そもそも発注できることを知らないとか、問い合わせる術がなかったという場合もあり、そういった部分も『クラウドキャスティング』が担っていくことができれば、業界全体が透明化した状態でさらに仕事が増えるという状況を作れる可能性があると思っています」
今後、同社ではより複雑だと思われているキャスティング領域にも対応していく構想を描いている。人気アニメキャラクターのIPや海外タレントなどは依頼が難しいと思われがちだが、意外とハードルは高くないのだと田中は語る。特に、一昔前のアニメなどは一定層の誰もが知っているIPでありながら、費用感も高くなく原作者にも利益が入るため歓迎される場合がある。
だからこそ、エンタメ業界の可能性を広げるために、一次請けの窓口を整備することは急務だと言える。
昨今、社会全体で過去の成功モデルが見直され、透明性の観点などさまざまな問題が表出しつつある。もちろんエンタメ業界や芸能界も例外ではない。普遍的な価値あるものは残しつつ、それらがさらに未来に向けて磨かれるよう、「クラウドキャスティング」は新たなスタンダードになるべく時代の潮流を掴んでいく。
「キャスティング報酬シミュレーター」の画面
北海道十勝の南に位置する大樹町(たいきちょう)が、「宇宙のまちづくり」を掲げたのは約40年前のことだった。
青々と広がる空に、雄大な緑の大地、太平洋に面した人口5,400名ほどの小さな町である。将来は堀江貴文氏が出資する民間ロケットベンチャーが本社を構えたり、JAXAや大学など多くの航空宇宙事業が誘致されてくるとはまだ誰も知る由もない。
生まれ育った町が、いつか宇宙基地になる。ただそんな未来に心躍らせていた当時、田中はまだ小学生だったと振り返る。
「小学校3年生の時に、冬休みの宿題で『未来の大樹町』という絵を描いたんですよ。そしたらその絵をNASAの先生が欲しいということで大樹町に来て、今あるISSっていう国際宇宙ステーションのパース*みたいなものを引き換えにもらって。それが新聞に載ったんですよね(*建物の外観などを立体的な絵として表現したもの)」
将来は町に高層ビルが建ち、人は上空を行き来して移動しているかもしれない。子どもなりに想像力を巡らせて、描いた未来予想図だった。それが権威ある米国の教授の目に留まるとは、まさか思いもしなかった。とにかく町中に誇れる出来事だ。特に、両親はなおさらだっただろう。
「父親は町役場で働く唯一の一級建築士で、町の病院や小学校を設計していて。母親は保育園で最終的に50年近く勤めたと思うのですが、小さい町なのでだいたい僕の10歳上ぐらいの人までみんなに『マチコ先生』と認識されていて、人気者っぽくも見えたので、僕がおかしな感じだと困るだろうなという意識はなんとなくあったのかなと思います。弟が2人いて僕が長男だったこともありますが、比較的しっかりしなくちゃいけないなと」
幼少期から自由にやりたいことをやらせてもらえる家庭環境があり、学校でも率先して前に立ってきた。
生徒会長を務めたり、野球部のキャプテンを務めたり。(今の時代ならまずないだろうが)小学校の学芸会では1年生から6年生まで毎年主役をやったりもした。
「とにかくリーダーシップを発揮していた節は確実にあったと思いますね。かと言って、ものすごく勉強が1番だったとか、スポーツも断トツ1番だったわけではないのですが、なんとなく自分がやるべきことなのかなという思いがあって」
幼少期、弟と
能力に関わらず、どんな場面でも進んでリーダーシップを取っていく。すると、思ったよりも自分はいろいろなことができると分かってくる。それを繰り返すほど自分への自信や肯定感に繋がって、さらに積極的に行動できるようになっていくようだった。
「小学校の卒業式に担任の先生から貰った色紙があって。『夢』というタイトルで、先生が一人ひとりにメッセージをくれたんです。そこで僕は『俺がやらねば誰がやる』という言葉をいただいて。これは今も何かあったら結構思い出す部分がありますね」
先生からもらった言葉の通り、そもそもリーダーが嫌いではなかったし、目立ちたいという思いもあったのだろう。誰とも等しく接する性格だったこともあり、大人数が集まる場となれば自然と仕切り役を買って出る。
進んで段取りをして、みんなを楽しませたい。いつからかそんな思いが心にあった。
「今もそうですが、じゃあみんなでキャンプに行こうとか、このお店に行こうとなれば、ほとんど自分が決めていますね。もし自分が初めて行く場所であれば一応下見に行きますし、本当に美味しいか食べてみたり。同じ店でも席によって盛り上がり方も変わるじゃないですか。最善な席を見てから予約したり。そういうことが好きですし、やっぱりそれはエンターテイメントという今の仕事にも繋がっていると思います」
みんなを楽しませたいからこそ、リーダーシップを取って物事を動かしていく。小中と続けた野球でもキャプテンを務め、ポジションは全員を見渡してサインを出すキャッチャーだった。
特別体が大きかったわけでも、ずば抜けて打てる選手だったわけでもない。しかし、それがリーダーをやれない理由にはならないと経験から知っていた。
「中学校の卒業文集に『将来社長になります』と書いてあったから、ある程度自信を持って生活していたと思うんですよ。その延長にサラリーマンをやっているイメージがあまりなくて、基本は社長のようなことをやっているんだろうなと思ったんでしょうね」
おそらくテレビか何かで知ったイメージで、「リーダー=社長」くらいに思っていたのだろう。それがどんなことをする仕事かも、当時はあまり分かっていなかった。
まず、自信を持ってみんなの前に立つ。それからあとは、全体のためを思って行動していけばいい。その方が自分も面白く、みんなが楽しくなる方向へと導いていくことができる。同時に、それこそ自分がやるべきことだとも信じてきた。
小学校の卒業式の日、担任の先生にいただいた色紙
大樹町からバスに揺られること1時間以上、進学先となる帯広工業高校は家から60kmも離れた都会の学校だった。熱を注いで野球に打ち込んだ結果、野球推薦で入れることになったのだ。
「受験しなくても行けるということと、大樹町から見ると都会の帯広市に出てみたいという気持ちもあって。やっぱり60kmも離れていると通えないので下宿生活になるのですが、親元を離れてアルバイトをしたりとか、今振り返ると高校時代から独り立ちを経験できたことは結構大きかったのかなと思います」
野球推薦だったので、すぐに野球部での練習が始まった。甲子園への出場歴もある帯広工業高校の野球部は規模も大きく、どうやら上手い人が集まっている。所詮自分は小さな町のキャプテンなのだと思い知らされるようでもあった。
なんとか1年目からピッチャーとして試合には出させてもらえたが、重要な試合で何本もホームランを打たれてしまうなど、なかなか結果は振るわなかった。
「都会に行ってみると上手い人はたくさんいるし、自分はキャプテンにもなれないんだなと思って。1年から試合に出させてもらってはいたのですが、なんとなく納得いかない感じになって、半年ぐらいで辞めてしまいましたね。あと、帯広で一人暮らしというのも楽しいじゃないですか(笑)。坊主頭で野球やってる場合じゃないとなり」
せっかく親元を離れて一人暮らしをしているからには、都会の生活も満喫したい。ちょうど社会人で年上の彼女と付き合いはじめたこともあり、負けじとお金を持ちたいと思うようになっていた。
レストランで働いてみたり、夜間のコンビニで働いてみたり。いくつものアルバイトを掛け持ちしながら、初めて仕事というものに身を投じていった。
「なかでも結婚式の片付けをするアルバイトがあったのですが、これがすごく割が良くて。1個目の結婚式が終わった後、全部反転させて次の式に向けてもう1回セットするというもので。30分か1時間ぐらいで片付けは終わるし、待っている間もいい時給がもらえるし。いろいろな仕事をやってみて、効率のいい仕事と悪い仕事ってものすごくあるんだなと気づきましたね」
ただ働くのではなく、どうすればもっと効率よく稼げるか。考えはじめれば、工夫の余地はいろいろあるように思われた。
たとえば、ポスティングのアルバイトで指定地域に段ボール1箱を配り終えたら1万円という報酬が設定されているとする。それなら同じようなアルバイトの面接に2、3個同時に合格し、チラシをセットにして後輩に1万円で配ってもらう。後輩は面接に行かなくても報酬を得ることができ、自分は残りの報酬を手にできるというやり方を考えたりもした。
「なんとなくその頃からアルバイトに受かるということは、仕事を受注している感覚と一緒だなとだんだん気づいたんですよ。なのでこれを社長だと考えると、自分が仕事を取ってきて、それを下請けとか社員に任せるというのは、こういう構造なんだなという風に気づいたんですよね」
考えはじめると、何事もただ決められた通りにやる必要はないのだと分かってくる。むしろ自分なりに思考して進めた方が、うまくいくこともある。ちょうど仲間と始めていたバンド活動もそうだった。ほとんどの人は好きなアーティストのコピーバンドから始めるが、もっとみんなが楽しめるよう考えて、当時の人気曲トップ10から順に選曲していくとライブも盛況になった。
自分次第、やり方次第で可能性は広がっていく。自信になり、こうして行動範囲を広げていけばいいのだと学んだ時期だった。
高校時代、バンドの仲間と
高校卒業後はさらなる都会に行きたかったので、学校から札幌の求人を紹介してもらった。何社か面接を受け、そのなかにあった金物製品メーカーの工場職に内定を得る。社員寮付きで手取りは10万ほど、工場で溶接などをする仕事に就くことにした。
「溶接とか組み立てとか、自分に合ってないことはもう最初から分かっていたのですが、まず札幌に行かないことには始まらないと思っていたので、札幌に行けて寮がある就職先ということで選ぶことにしたんです」
手取りは10万だが、それまでアルバイトで稼いできた蓄えもある。同時に、札幌でもアルバイトを掛け持ちしていたので余裕はあり、生活に必要な車も買った。
1年ほどが経ち、ピザ屋のアルバイトで札幌の地理はおおよそ把握できたので、そろそろやっていけそうだと一人暮らしの家を借り、工場は退職することにする。しかしそんな折、新生活への期待と興奮を、丸ごと吹き飛ばすような事件が起きる。
「当時新車で買った車があったのですが、辞めてこれからいろいろやっていこうとなった時に、それが放火に遭って燃やされたんですよ。友だちの家に泊まっていたら、夜中の4時くらいに親から電話が来て、警察から車が燃えていると連絡があったと」
急いで現場に向かうも、そこには丸焦げになった愛車があるばかり。さらに悪いことに当時は若かったので車両保険に入っていなかった。結局犯人は見つからず、残されたのは車のローンと、煤だらけになったマンション外壁の修繕費、合わせて4、500万円ほどの借金だった。
「5年ローンだったので、車もないのに毎月返済で嫌な思いをするじゃないですか。それが嫌で、なるべく早く返したいと思ったんですよ。車もなくなって一旦安い車を買ったので、もう家を引き払って、トランクに荷物を入れて車で生活しようと思って」
自分で自分に気合いを入れるため、思い切って家を手放すことにした。仕事は当時探したなかで1番給料が高かった携帯電話販売の営業で、初任給が30万。当時にしては高い方だろう。
昼は最新機種を手に持って、新規で企業に飛び込んでは契約を取ってくる。加えて夜はコンビニのバイトを掛け持ちし、食事は消費期限切れの廃棄弁当にすれば食費もかからない。合わせて月に50万ほど返済できる計算だった。
「だいたい6か月くらい車で生活したと思いますね。そろそろこれは返済の目途も立ってきたと思えた頃に、もう1回家を借りて。部屋に置くものは何もなかったのですが、最初に足を伸ばして寝た時は、まぁまぁ感動しましたね」
18歳、放火にあった新車のセドリックと
営業の仕事自体は初めてだったが、意外にも向いていたのかもしれない。飛び込み特有の過酷さも、確率論だと思えば100件200件断られたところで気にならない。事実、借金を抱えていた分、周りとは意気込みが違ったとも言える。
「だいたい営業が50人くらいいる会社だったのですが、1か月くらいでナンバーワン級になったんですよ。その時初めて、自分って営業できるんだと思って」
ひたすら売上数字を追いかける日々のなか、ふと1件あたりの契約で会社はいくらの売上になるのかと気になった。先輩に聞いてみると、3万円ほどではないかという。
それなら100件契約すれば、サラリーマンとしての収入よりはるかに稼げる計算になる。営業で稼ぐことにも自信がついてきた。もっと効率よく稼げるのではないかと考えて、4、5人の先輩を誘って独立することにした。
売るものも売り方も変わらない。当時で言う有限会社を作り、日々携帯電話で売上を立てていく。1、2年ほど経った頃、転機が訪れた。
「もともとの『ツーカー』というブランドから『Jフォン』に変わった頃、ここから半年間で1万件、毎月何千件ペースで売れたら、札幌市中央区のこういう場所にオフィシャルショップを出させてあげるよと仕入れ先の商社から言われたんです」
オフィシャルショップと言えば、ただ新規で携帯を販売しつづけるのとはわけが違う。機種変更やプラン変更の手続きだけでもお金が入ってくるし、諸々の条件も格段と良くなってくる。業界的にもオフィシャルショップを持つことができれば安泰と言われるほど、魅力的な価値があることだった。
「ただ、それなりに高い目標をぶら下げられたので、これはどうしようかなと。ちょうど当時は『スカイメール』という1対Nに情報を送れるショートメッセージができたばかりで、これで何かできるだろうと考えていて。偶然パチンコ屋の前を通った時に、毎日すごく人が並んでいるけれど、その人たちに有益な情報を送ることができれば契約者が増えるんじゃないかなと閃いたんです」
月額で店頭キャンペーンをやらせてもらえれば、その場で携帯電話を契約したお客さんを対象に、毎週月曜に玉が出る台の番号を送れる特典が付く。そんな企画を思いつき、パチンコ屋に提案しに行ってみる。パチンコ屋からすれば集客に繋がるし、そもそも玉が出る台は限られているから損失もない。思った通り、返ってきたのは好反応だった。
結局、企画は大当たり。しかも、来店するユーザーは高齢者が多かったので、若者ほど機種にはこだわらず、通常なかなか売れない機種でも飛ぶように売れる。売上も順調に伸び、目標を達成したことで、念願のオフィシャルショップを持つことができた。22歳ぐらいの頃だった。
「周りのショップの社長は4、50代だったので当時最年少で。そんな若い子に個人情報を渡して大丈夫なのかとか、だったら俺たちにやらせろとかいろいろな声があったのですが、それを覆すくらい北海道でも断トツで売っていったんですよ」
どんな逆境でも、はるかに高い目標でも、考え方次第で打開する道はある。見えている範囲からできることをやり尽くし、少しずつ領域を広げていけば手が届く。経験からそう信じてきた。
オフィシャルショップの恩恵で安定的に売上が立つようになり、会社としてはより新しい領域へと挑んでいけるようにもなりつつあった。
「携帯電話の販売って、はっきり言って誰でも売れるんですよ。コミュニケーション能力があって顔が広かったり、ガッツがあれば。当時営業は2、30人くらいいたのですが、毎日携帯を売るって飽きるじゃないですか。もう何年も勤めて、毎日毎日同じようなことをして1件2件契約取って帰ってくることの繰り返しになってしまう。それなら面接に来る人の前職を活かした方がいいなと思いはじめて」
たとえば、広告代理店で働いていたという人がいる。転職理由は人それぞれだが、業界を離れたいということは、前職ではあまり結果を残せなかった人も多いだろう。
それなら前職での売上目標の半分でいい、携帯電話を売りながらうちで広告代理店部門を立ち上げてみませんかと提案する。本人から「できます」と答えがあれば、積極的に任せていった。
「やっぱり第一人者になると頑張るんですよね。目標も今までの半分でいいのかと思ったら、できそうじゃないですか。うちからすると携帯販売とは別に広告代理店の業務もやっていた方が幅が広がって、ただ飛び込みだけやるよりも売れる場合がある。そういう掛け算で、どんどん採用していったんです」
採用面接にはさまざまな業界出身者が集まってくる。広告代理店だけでなく、車の買い取り、出版などの事業が立ち上がった。どれも携帯販売との相乗効果を見込んでいるから、やみくもに多角化しているわけじゃない。ほかにも美容室や寿司屋など、能力の高い現場の人材との縁もあり、店舗経営にも踏み出していった。
「周りから見るとチャレンジャーだと言われることもあるのですが、僕的には相当慎重な態度を取っていて。ある程度小さい商圏から始めるのが好きなんですよ。特にリスクのないビジネス、携帯電話の販売も契約書を交わしたら3万円もらえるというだけだったら別に資本金もいらないし、すぐできるじゃないですか。そういうビジネスを見つけるのが得意かもしれないですね」
一気に全国区に進出したり、途方もないビジネスを始めるよりは、リスクのないビジネスを見つけて、それを起点に広げていく。まずは「1件も逃さない」と言えるくらい、網羅できる領域から始めることで、事業を拡大・多角化していった。
20代、札幌で経営するビューティーサロンのメンバーと
札幌を拠点に事業を展開し、10年以上が経った。ちょうど当時はiPhoneが登場し、新しいトレンドが世に生まれつつある頃だった。そんななかテレビ局で働く知り合いから、とあるスマホアプリについての相談が舞い込んだ。
「『美人時計』というアプリが話題になりつつある時で、偶然その社長から『北海道版の美人時計をフランチャイズのような形で作りたいので、誰か札幌でそういうことに向いている社長を知りませんか』と言われたようで。それでおそらく僕の名前が出てきたんでしょうね。話を聞いたら面白そうだし、ソフトバンクショップとしても話題になればより売れるかもしれない。『やってみます』と引き受けたことが最初のきっかけでした」
2009年にリリースされた「美人時計」は、時刻を手描きしたボードを持つ女性の写真が1分毎に切り替わり、時間を知らせるサービスだ。シンプルながら斬新な発想が多くの人の心を掴み、テレビにも取り上げられるほど話題を呼んでいた。
当時は1ダウンロードあたり350円という価格設定だったため、単純に1万件ダウンロードされれば350万円の売上になるビジネスだった。
「やってみて分かったことですが、僕たちは営業会社だったのでとにかくアウトバウンドの経験しかなかったんです。でも、『美人時計』は話題性があったので、結構大手企業からも『コラボできませんか』と、会社にいろいろな問い合わせが来るようになって。特にこれだけの女性、今で言うインフルエンサーの走りのような読者モデル系の人たちを参加させられる。これはもう絶対ビジネスになるなと思ったんですよ」
2010年、東京にいる本家サービスの社長から打診を受け、「美人時計」を買収する。スマートフォンの登場により間違いなく世の中に何かが起こるという確信と、20代を札幌でやりきって、30代は東京に出て自分を試してみたいという気持ちが重なったタイミングでもあった。
「社会貢献をしたいとかそういうことは一旦度外視して、儲かりそうだからとか、自分が今のタイミングで稼げて、かつ1番効率がいいものは何かと考えて選んだら、思ったように当たったという感じの20代があって。やっぱり30代は東京でもっと大きな仕事ができるのか、やってみたいなという思いがありました」
「美人時計」を買収した頃
まずは最低限売上を作るべく、全国にあるテレビ局にフランチャイズ化してもらうことを目指した。キー局への提案は反応が芳しくなかったため、地方のローカル局から営業して回ることにする。
1年間で120回ほど飛行機に乗り、文字通り全国を飛び回った結果、20局ほどのネットワークを構築することに成功し、資金調達にも繋がった。買収の元を取れるほど、サービスは順調に拡大していった。
「東京に出て5年ぐらい、ナショナルスポンサーとのコラボとかいろいろなことをやったのですが、社内にもそれをやるために結構人数が必要だったんですね。じゃあこのイベントに100人を手配してくださいという場合でも、いろいろな段取りをしないといけない。人件費はもちろんそのコストはスポンサーの金額に跳ね返していかないといけないので、それなりの金額をもらわないと企画を作れないということもあったんです」
出演者への連絡やクライアント対応、報酬支払いの手続きまで、手作業でやらなければならない業務が多く、どうしても煩雑になってしまう。そこでコミュニケーションなどを効率化する社内ツールを作ることにした。
数年かけて少しずつ機能を広げ、キャスティング自体のマッチング機能も問題なく使える状態になったので、2016年に「クラウドキャスティング」としてサービス化。「美人時計」から軸足を移していった。
「『美人時計』はアクセス数や話題性もあったのですが、やっぱりどうしても賞味期限が来るものだし、美人というネーミングもこの時代背景に合わなくなりつつあることは分かっていて。それよりももともと『美人時計』を買った時から、データベースの事業をやりたいという思いがあったので、『クラウドキャスティング』は理想形だと思いましたね」
20代女性が1万人以上登録するプラットフォームも、そうそうない。彼女たちのプロフィールをデータベース化して、ビジネスにしたいという構想は買収当初からあったものだった。
特に、マッチング系のサービスは、人が登録されなければクライアントに案件を登録してもらえず、案件がなければ人の登録も集まらないというジレンマに陥りやすい。けれど、もともと「美人時計」として集めたプロフィールデータがベースとなり、立ち上がりの登録数は順調に推移していった。
大手芸能プロダクションもある程度網羅しつつある。ここから先は、自分がやりきれるかどうか。時代背景としても透明性が求められ、まさに今やるべき時が来たと思えるタイミングだ。BIJIN&Co.の挑戦は、未来に向けて広がっていく。
東京・芝公園にあるBIJIN&Co.オフィス
札幌と東京それぞれで10年以上、経営者として第一線のビジネスに触れてきた。その間、ビジネスにおける価値観、成功確率、そして幸福度などさまざまな面で違いを感じてきたと田中は語る。
「ビジネスとしては地方の方が楽しいし、おそらく簡単だなと思いました。東京ってたしかに大きいお金が動いているし、人もすごく能力が高くてスキルもあるし、夜中まで仕事してものすごく努力もしていると思うんですね。札幌だと18時にはみんなだいたい帰りますし、ネットリテラシーも相当低い。だけど、なんであんなに東京より稼げる人がたくさんいるのかと考えると、度胸はあるのかなと思うんです」
リスクを恐れず、まずやってみる。そんな度胸が、地方で起業する人にはある。背景には、相対的にプレッシャーの少ない環境があると田中は考える。
家賃や人件費など、東京では何をするにもある程度の資金が必要になる一方で、地方都市であれば比べ物にならないほどコストが安くなる。加えて、東京では新しいことを始めようにもレッドオーシャンの中で闘う状況に陥りやすく、背負うものが多い。
まずは身軽にできることから始めようとするならば、かなりハードルは低くなる。だから地方には、挑戦したい人に適した環境があるということだ。
「もちろん東京の方が夢も大きいと思うんですよ。世界を目指そうとか、東京で成功するということは日本全国で1位になるようなものじゃないですか。だけど、その目線が逆に高すぎて、足元が見えないまま終わっていく会社や起業家の人たちがものすごくたくさんいるなと思うんです」
たとえば、1万部のフリーペーパーを発行するとする。東京で1万部といえば箸にも棒にもかからないが、1万世帯の地方都市で配れば全体を網羅できることになる。印刷代はほぼ変わらない、ライターを雇うとすれば東京よりも安くなる。雑誌の広告単価は下がるとはいえ、それなりに食べていくくらいの広告収入は得られるだろう。
同じ規模だとしても、地方都市一つ「全てを担っている」と言えるポジションで仕事をすれば、そこから連鎖して別のビジネスに繋がる話が舞い込んできやすくもなる。
「どんな領域もそうですが、その中で圧倒的1位になれば必然的にいろいろなことが前に進んでいくんですよ。やっぱりそこをまず1個経験しないと、何もできていないのにいきなり世界を目指そうとしても、よく分からなくなってしまうということは言えるかなと思います」
今、地方都市には大きなチャンスが眠っていると田中は考える。
網羅しているからこそ生まれる価値や、需要がある。だからこそ、まずは小さく始め、それを起点に事業を大きくしていくという視点が再考されてもいいのかもしれない。
2023.12.14
文・引田有佳/Focus On編集部
リスクのないビジネスを見つけ、小さく始めることが得意だと田中氏は語る。
目標とは必ずしも壮大である必要はない。むしろ確実にその領域を網羅して、圧倒的1位というポジションを取る気概さえあれば、あとは実績に対する信頼や期待から自然とチャンスが舞い込んでくる。次なるチャンスを逃さず繋いでいくことで、結果として挑戦のスケールは大きくできるということだ。
現在、エンタメ業界の新たなスタンダードになることを目指す「クラウドキャスティング」。はじまりは札幌版「美人時計」を引き受けたことか、あるいは携帯電話のオフィシャルショップを持ったことか。どちらにせよ当初は想像もつかなかったであろう大きな挑戦へと向かう今がある。
きっと人生も同じだろう。目の前にある挑戦を確実にやり遂げる覚悟があるのなら、最初の一歩の小ささを嘆く必要はない。
文・Focus On編集部
BIJIN&Co.株式会社(ビジンアンドカンパニー) 田中慎也
代表取締役
1977年生まれ。北海道出身。1999年に株式会社ビーコミュニケーションズを設立。ソフトバンクショップの運営やビューティーサロンの経営、広告代理業、出版事業など、札幌を中心にさまざまな事業を手がける。2010年、美人時計の事業を買収し現職。従来のエンタメ系事務所とは異なるデビューのきっかけを提供し、地方に潜在するモデル・タレント等の志望者を顕在化。2016年、エンタメ業界に特化したデジタル・キャスティングサービス「CLOUDCASTING」をリリース。これまで属人的だった業務をシステム化することでキャスティングにイノベーションを起こすべく、全国のキャスト(タレント・モデル・インフルエンサー・実演家等)には“活躍の機会”を、依頼者となるクライアントには“新たな才能との出会いと付加価値”を提供。これまで属人的で不透明だった報酬の参考水準を、オファーを受けるキャスト本人の実績やプロフィール情報、市場での平均相場など独自DBからAIが自動的に算出。エンタメ業界で活躍する個人事業主や芸能プロダクションに対してマッチングの効率化、報酬の最適化等を図っている。