Focus On
山敷守
株式会社DROBE  
代表取締役CEO
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or起業は、なりたい自分を実現させ、あなたの人生を豊かにさせる。
国内外のスタートアップへお金ではなく、技術の投資を行う株式会社TECHFUND。ブロックチェーンアプリケーションの開発支援サービス「ACCEL BaaS」や、国内初のICO/STOプロジェクトを対象にしたアクセラレータープログラム「ACCEL PROGRAM」などを展開し、新時代の起業家支援エコシステムの構築を目指す同社。
2018年7月には、野村ホールディングスのコーポレート・ベンチャーキャピタルファンド、ユナイテッド、インフォテリア、西川 潔氏、竹内 秀行氏ほかから総額1億2000万円の資金調達を実施した。18歳で起業して以来、クリエイティブディレクター、連続起業家、トレイルランナー、アーティストなど多方面で活動してきた、同社共同創業者でありCEO兼CCOを務める川原 ぴいすけが語る「起業によってなりたい自分を実現させる方法」とは。
木々の間から差し込む光が、道なき道を照らし出している。
自分と地球、世界はそれだけだ。辺りは森の樹木のにおいに満ちていて、水のせせらぎの音は川が近いことを教えてくれる。どこかで鳥の鳴く声がする。彼らが何を伝えようとしているのかは知る由もない。
静寂は心の中にある。ここにはスマートフォンの電波も届かない。もちろん自分以外の誰かの声も。
自然が創り出した景色の美しさ、小さな生物たちの生と死を物語る残酷さ。そこにある生命の営みは、ある種の輝きをもって迫って来る。でも、だからこそ自分の心の震える瞬間が手に取るようにわかる。
自分を取り巻く世界を観察し、そこに自分だけの存在証明を残してきた。子供の遊び、人を動かすデザイン、そして起業。すべてはつながっている。誰かが決めたルールに従うよりも、ただ自分の手で歩む道を決めたいと思っていただけ。
そのためには、かすかな違和感も見逃せない。
遠くの山は青く霞んで見える。近づいてよくよく手に取って見なければ、自分の心の本当の色はわからない。
“自分らしくいられる”生き方を自ら創造してきた、川原 ぴいすけの人生に迫る。
きっと目に入る世界すべてが新しく輝いていた赤ん坊の頃、そのとき浮かんだ感情を、いまでも覚えている人がいるだろうか。
1、2歳の頃の記憶はほとんど覚えていない。長崎出身の両親がいて、2個上の兄がいる。生まれた土地は長崎だが、サラリーマンだった父の仕事の転勤で、3歳の頃には兵庫県加古川市へと引っ越した。以来、そこで育ってきた。
まわりには海や山こそないものの、田んぼや竹やぶに囲まれた住宅地。子供にとっての遊び場は十分にそろっていた。田舎過ぎず、都会過ぎず。普通の家族が暮らしている、どこにでもある日本の平和な場所だ。
後には6歳下の弟が生まれたので、兄弟は男3人になった。3兄弟の統率を取るのは、もちろん長男である兄だった。
3兄弟は基本的に仲は良かったがそこは男3兄弟、けんかをすれば両親から怒られた。
「両親は厳しかったですね。二人とも学歴が良くて、母が教育熱心だったので、テストの点数を取れだとか。どちらかと言うと母はマイクロマネジメント系で、帰る時間が遅いとか、ちょっと何かあると言ってくる。父はあまり有無を言わない人で、でも怒る時はしっかり怒ってくれた。」
怒られるところでは怒られる。決して甘やかされて育ったことはない。その証拠に、貧しい家ではなかったがあれもこれも与えてもらえる環境ではなかった。
たとえば、友達がゲームを持っていたからといって、自分も買ってもらえるわけではない。「うちはうち、よそはよそ」。よくある理論だ。
大人からすれば筋が通っている理屈でも、子供が納得できるとは限らない。楽しい遊びがしたい。それは、子供にとっては死活問題だ。当時は兄と二人で必死になって考えた。
家の中にはトランプのカード、外には公園の遊具や自然があった。遠くにある木まで走って、先にタッチした方が勝ち。一度目は楽しい。でも、二度目からは飽きてくる。求めているものはこれじゃない。もっと心がたまらなく沸き立って、時間があっという間に過ぎていくような楽しい遊び。理屈じゃなく、とにかくそんな感覚を欲していた。
「兄と一緒によくゲームを考えていました。全体のストーリーテリングは兄がして、実験しながら二人でルールを作って。カードゲームとか、秘密基地を勝手に作ったり。その場で何か遊びを作ることが多かったですね。作ってる過程が面白くて。」
もっと、もっと楽しくすることはできないか…。二人で追求していくうちに、遊びは進化していった。単純な勝ち負けを競うものから、より複雑な過程や徐々に難易度が変わっていく遊びなど。いろいろな仕掛けを作ってみると、どんどんとゲーム性が生まれてきて、いつしか時を忘れて遊んでいた。
辺りはもう暗くなっている。消えかけの夕陽に照らされながら、心の中には一つの想いが強く浮かんでくる。次はどんな新しいゲームをしようか。そう、創り出すことはこんなにも楽しいものだった。
気づけば、世界は違って見えていた。
見渡してみれば、自分を取り巻くどれもが遊びの道具になり得るものばかり。ゲーム機は持っていなくても、想像力があれば自ら楽しい遊びを考え出すことはできる。必要なのは、勝敗や勝敗を決めるためのルールだけだった。
今日はどんな風に遊ぼうか。いつしか創り出すことに夢中になっていた。
記憶に鮮明に残っているのは兄と毎晩のように一緒にやった「脳内RPG」のこと。アイテムを選んで使うか、もしくはアクションを選択するか……。視界の端には選択肢が浮かんでいる。「起き上がる」を選んで、体を起こす。「目の前のドアを開けてください」、「10歩先を右に曲がってください」。聞こえてくるナレーションに従う自分は、RPGゲームの主人公だ。
見たもの聞いたもの、誰かと交わした会話、すべてを記憶していってRPGゲームにしてしまう。キャラクターをイメージして、能力も考える。頭の中では自分だけのオリジナルゲームが展開される。
そこには、親の想像力も届かない。自分の手で、自由に創造できる世界や物語があった。
当時のことを振り返りぴいすけは語る。
「そういう遊びが生まれるのはごく自然のことだったように思います。例えは極端ですが、原始人は火がないから火を起こしたように、”あえて”与えられなかった環境だったからこそ生み出された能力みたいなものが物心ついた頃くらいからあって、今思うと起業家の素質はこの原体験から生まれたんじゃないかと思えるほどです。」
誰かが作ったもので遊ぶより、ゼロから何かを作りだす過程こそが楽しい。今でもそうだ。
横断歩道の白いライン。地面に落ちた小石や木の枝。昨日とは違っている、ささいな町の風景。素材はどこにでもある。道具がなかったとしても何も嘆く必要はない。自分を取り巻くもの全てに目を向ければ、それが何より楽しい遊びにつながると知っていた。
世界はいつも、そんなアイディアの原石で満ちていた。
今日は何をして遊ぼうか。小学校の帰り道、みんなで道端を歩いている。
「●●の家でゲームをしよう!」。小学生にもなると、友達同士楽しめるゲーム機の魅力は抗いがたいものとなっていた。
人気のテレビゲームがある子の家には、自然とみんなが集まる。最新のゲームソフトを持っている友達。それだけで、子供にとっては一種のステータスと言えた。普段の遊びも、誰かの誕生日会も、すべてその子の家で開催されるようになる。
人気のテレビゲームよりも、もっと楽しいコンテンツを創り出せないか。友達の家には楽しいコンテンツがある。それでみんなが楽しめるならそれを超えるようなコンテンツを自分が創り出せばいい。日常のあらゆるものを目に映しては、いつも遊びの種を探していた。次第に子供ながらに『コンテンツメーカーになりたい!』と思うようになっていった。
ある日の学校の帰り道、何気ない変化が目に留まる。家の近所の工事現場だ。少し前まではただ建物が立っているだけの土地だった。何やら新しい家だかビルを建てているようだった。
見上げると、組まれた足場は高いところまで続いている。どうやったらあそこまで登れるだろう。コンテンツメーカーの思考は回転を速めていく。複雑だが、シュミレーションしていけば不可能ではなさそうだった。軽々と足場を飛んでいく自分の姿をイメージする。ちょうどテレビで放送されていた人気番組「SASUKE」みたいだ。あんなことができたら面白いし、何より絶対にかっこいい。
誰もいない工事現場に入り込んでいく。勝手に動かして、新しい足場の組み合わせを作ってみる。ただ登るだけでなく時には下をくぐり抜ける。最終的には3階ほどの高さまで登っていくコースを考えた。
いま考えると危険な遊びだ。でも、むしろ少しくらいの危険や冒険があった方が、心惹かれてしまうような年頃だった。
結果として、オリジナルのSASUKEは仲間たちに大絶賛と共に迎え入れられた。どんどん友達が集まり、最後は近所に住んでいる友達全員が夢中になった。総勢15人ほどはいただろうか。テレビゲームよりも圧倒的な人気を博した。そんなゲームを自分で創り出せたことが誇らしかった。
「危ないところにもゲームメイクしてみんなを巻き込んでしまうのが僕の性格で。大人だったら危ないことがわかるけど、こっちは楽しくて、みんなが喜んでるからいいと思っていたんです。仲間たちからはすごく賞賛されてました」
小学生の頃、友人たちと共に。
しかし、当然ながらそんな遊びを大人たちが見逃すはずがない。見つかった時は、こっぴどく怒られた。「誰がやろうと言い出したんだ!」と問われれば、みんなが無言で自分を指し示す。あんなに一緒に楽しんでいたじゃないかと心の中だけで言い返すも、あとの祭りだ。
けが人が出なかっただけまだましだっただろう。たいていそういう時、一番怒られるのは、発案者である自分をおいて他にいなかった。
決められたものは面白くないからと、意図して違うことをやってきた。ルールにないことを自然と考えて、勝手にやってしまう。子供たちのヒーローにはなれても、大人からすればただの悪い子だ。それも、圧倒的な悪い子と言われてきた子供時代だった。
どうやら自分は人とは違う発想をしているようだ。物心ついた頃に気がついた。
たしかにいつも人と違うことをしていた自分がいる。当時はもう、誰かが作ったルールの中で遊ぶだけでは満足できなくなっていた。自ら遊びを創り出す。その楽しさを誰より早く知っていた。
一つのゲームをみんなで試してみれば、より面白くするために必要なことが見えてくる。それを元にして、次はもっと楽しいものを考える。人を巻き込み、どうだったかと検証を重ねるところまでが面白かった。
「自分で遊びを考えてルールを決める、そこに人を巻き込む、巻き込んだあとは1位2位3位を評価する。評価して、次の遊びを考える。思い返せば、このサイクルを小中高ずっと回していましたね。」
家庭内から学校へ、遊びの舞台が移ってもすることは変わらない。変わったとすれば、より多くの友達を巻き込んでいくようになったことだけ。自分が考えたゲームにみんなが驚き、楽しんでくれる。すごいと褒めてくれる。大人になんと言われようともかまわない。それが嬉しくて仕方なかった。
小学校の行き帰り、いつもの通学路をいかに楽しくするか。当時は、ゲームや遊びを作り続けるうちに毎日が過ぎていた。学校では幼馴染や近所の友達が、家に帰れば兄が遊び相手になる。当時見ていた景色はぼんやりとしか浮かんでこない。ただ、楽しい時間を過ごしたという記憶のかけらが胸にある。
兄は良き遊び仲間であり、同時に勉強のライバルでもあった。ライバルと言っても、こちらが追いつこうと必死に勉強していただけだ。兄は秀才だった。
「両親が厳しくて、小学校の頃は詰め込み型の教育を受けていたんですが、僕は学年でもちょうど真ん中くらいで、だいたい350人中160番台。兄はいつも学年1位か2位で、2位だと『どうしたの?』と言われるくらい。神がかった頭の良さだったんですよ。」
点数に厳しい両親からは、テストの点数や通信簿の成績をことあるごとに比較されていた。何せ兄とは2歳しか違わない。「去年の兄の成績はこうだった」。定量的に比較されると、改めて自分でもその差を認識するものだ。
次のテストでは挽回しよう。机にかじりつき、必死に差を埋めようと勉強した。これだけやればきっと大丈夫だ。試験当日は苦労もしたが、前回よりは手ごたえがある。何より自分なりにベストは尽くしたはずだった。
数日後、緊張に包まれた教室でテストが返される。先生が順番に名前を読み上げる。答案用紙が返却される瞬間はいつも期待と不安が入り混じる。
──自分の番だ。テストを手渡され、受け取った。成果はどうだろう。机に戻り待ち切れずに裏返す。一瞬の後、脱力。赤いペンで書かれた数字は100点には遠く届かない。もちろん、兄の成績にもほど遠いことを知っていた。
どんなに努力したつもりでも、何回テストを繰り返しても変わらない。結局、一向にその差は縮まらなかった。
小学校時代、そんな状況を冷静に見ていた自分もいる。それほど、兄との差は大きなものだった。兄に対して何か負の感情が生まれるわけでもない。生まれるとすれば、「何かが自分は違うようだ」というささやかな感慨だけだった。
当時の勉強机。
はじめは小さな違和感のようなものだった。
学校で机を並べる同級生ならば、いくらでも環境の違いがあるだろう。数え出せばきりがない。家庭の状況が違えば、通信簿の成績も単純比較はできないはずだった。
しかし、兄はどうだろう。同じ家に生まれ、同じ家庭という組織マネジメントを受けて育った。同じものを食べ、同じくらい勉強してきた。年齢も2歳しか違わない。環境はまったく同じだ。なのに、これだけの差が生まれるのは一体なぜだろう。
親からの評価は、家庭内での相対評価だ。その対象は学校ではなく、同じ評価システム内にいる兄に向けられていた。
「いまだから笑って話せますが、昔は単純な違和感でしたね。学年の順位という定量的な数字だけで言うと、兄は僕の80倍くらい頭がいいわけで。こんな”ギャップ”が、同じ家庭内から出るってありえなくない?と思っていたんです。」
違和感は、越えられない壁を目の前に次第に大きくなっていく。
単純に興味があった。その正体を掴みたくて、数年間考え続けていた。朝起きる時間や、お風呂に入る時間の違いだろうか?その差はどこにあるのだろう。
小学校を卒業し、いつしか兄弟は中学生になった。二人とも地元の中学校に進学した。
中学校に入っても勉強は相変わらずだった。面白くはないが、仕方なく義務感から勉強は続けていた。兄は優秀、自分は平凡。言い訳がきかないほど自分は何かが違うようだった。兄との差も考え尽くしたが、答えはまだ出ていなかった。
「いくら条件を精査してもわからなくて、最後にもう兄に聞いてみたんです。そしたら兄はどうやら勉強に興味を持っていた、勉強が楽しいと感じていたらしくて。僕は勉強に愛がない。その時に、物事への興味の差なんだなと悟ったんです。”好きこそものの上手なれ”と言う言葉がありますよね、まさにそれを体現していたのが兄だったんです。」
人は何かに興味を持つからこそ、行動が生まれる。お腹が空けば、お腹が空いたことに興味があるからこそご飯を食べる。眠くなれば、眠いことに興味があるからこそ寝ようとする。考えてみれば簡単なことだ。何もかもそうだった。
「愛情の反対は無関心」だと、マザー・テレサは語った。相手に興味を持つからこそ、人は誰かを好きになる。興味がなければ、愛情どころか何の感情も湧かないのだ。
自分は勉強を楽しいと感じたことはない。ただ義務感から勉強していただけだ。大好きな遊びのことはいくらでも自発的に考えられる。けれどそれが勉強になると、まるで誰かに決められた窮屈なレールに乗せられているような感覚がした。
勉強への興味の有無が、兄と自分の差を結果に映し出していた。それでは成就しないわけだ。興味がなければいくら勉強しても兄に追いつくことはできない。ましてやその存在を超えられる日など到底来ないだろう。子供心にその事実に気づいてしまった。
「その経験から、いまでも机が1mmでもずれていたら気になるくらい、差にものすごく敏感になったんです。考えてみれば、物事はすべて差や違いで成り立っているんですよね。資本主義も、お金持ちの人がいる一方でお金を持っていない人がいるからこそ経済が成り立っているわけですし。」
小学生の頃から誰よりも「差」に目を向けてきた。たどり着いた答えはある意味残酷なものだった。
──時間は変わらず過ぎていく。朝日が昇るのが少しずつ早くなる季節だ。春、中学2年生を迎えようとしていた時期だった。兄はちょうど高校受験のタイミングだ。それは何か特別な意味を持っているような気がしていた。
だから一つの賭けをすることにした。兄がもし地元一の進学校に合格したら自分は勉強を辞めよう。もしも兄が不合格だったら自分が勉強してその学校に入ろう。誰かに言われたわけではない、自分でそう決めたのだ。
結果兄は合格。これが人生というものかと思い知らされる。でも小学校高学年の頃からうすうす気づいていたのも事実だ。親から点数を比較されるたび、自分の努力でカバーできる問題ではないように感じていた。
未練はない。勉強の道はあきらめることにした。14歳の時だった。
(性質として)自分は勉強には向いていない。小学校1年から中学2年までの8年間、自分なりに検証した結果導き出された答えだ。逃げるというよりは、むしろ信念に基づいた選択だった。
このまま勉強を続けても兄に勝てる日は来ない。ここで何かを変えなければ、自分の人生が自分のものではなくなってしまう気もしていた。勉強は辞める。けれど、自分にもプライドはある。別の何かで兄に勝てる自分にならなくてはと決意した。
しかしその何かとはどこにあるのだろう。道を照らしてくれる光はなく、未来は何一つ見えはしなかった。
中学2年生の時、勉強をリタイアした。それまでも真面目な生徒とは言えなかったが、勉強も頑張っていて、部活にも熱心に取り組んでいた。
それでも親の期待や、自分のプライドがある。いろいろなものが邪魔をして勉強で兄に勝てない自分を認められなかった。中学2年生の時、はじめてそれを違いとして受け止めることにした。
勉強を辞めて、何に向かって努力をするのか。大人であれば、自分には合わないものがあったとしても代わりの選択肢はいろいろある。しかし、当時はそうではなかった。勉強するかどうかは生きるか死ぬかの問題だ。テストは赤点ギリギリで、どの高校にも進学はできなさそうだった。意味したものは「死」でしかない。
考えた末の決断だったが、未来は見えない。まさに人生お先真っ暗とはこの事だ。しかし、どこかそれすらどうでもいいような気がしていたのだ。特に熱心に打ち込めることもなく、不良仲間とつるむ毎日が始まった。
──転機はふいに訪れた。高校受験が迫りくる、中学2年生の11月。担任との面談で、進路指導があった。
「進路指導はもはや僕の場合は生活指導にもなっていたんですが、担任の先生に『なんで勉強しないんだ?』と聞かれて、勉強をすること自体に意味が見い出せないというこれまでのプロセスについてがっつり話したんです。」
先生は静かに話を聞いていた。真っ直ぐにこちらを見つめている。確かにお前に勉強は向いていないかもしれないと先生も言う。でも、不良になる他にも勉強以外の道はあるのだと。おもむろに一冊の学校案内を出してきた。「兵庫工業高校デザイン科」。紹介してくれたのは、デザイン専門コースのある工業高校だった。
デザインとは何だ。聞いたことはあるが、まったくの未知の世界だった。当時はインターネットやスマートフォンも手元にない。進学校に行けなければ、人生がそこで決まってしまうと本気で思っていた。いわゆる国数英の勉強と部活動の選抜入学以外にも、将来へつながる道があるなんて思いもしなかった。
それでも、言われて考えてみれば思いかえす原体験もあった。昔からオリジナルの遊びやゲームをつくる時、鉛筆をサイコロ代わりにしたり、ボードゲームを作ったりしていたものだった。また、ゲームそのもののルールを設計したり、自ら遊びの名前を考えたり、チームのロゴをデザインすることを楽しんでいる自分がいた。
ひどかった頃の学校の成績も、2や3が並ぶ通信簿のなかで、唯一美術だけは5の成績を取れていたことを、先生は見ていてくれたようだった。
それまで将来の夢なんて具体的に描いたこともなかった。勉強ができなければ未来はないと思っていた。ただ面白いゲームを作り、みんなを楽しませるムードメーカーでありコンテンツメーカー。それが今では不良と時間を浪費する日々。いつも笑い合う友達はたくさんいるが、ひそかに抱えていた勉強への違和感を話すようなこともなかった。
先生が提示してくれた道は未来へとつながって見えた。デザインと出会い、将来はデザイナーになるという目標ができた。道さえ見えれば何でもひたむきに取り組む性格だ。親にも新しい決意を伝え、そこからデザインの勉強に没頭する日々が始まった。
今思えば、それが道のはじまりだった。混沌としたジャングルの中に見つけた、小さな道しるべ。現在へとつながる場所に、その時確かに立っていた。
デザインの高校を受験する。一般の入学試験を受けるなら、いわゆる5教科の勉強でこと足りる。しかし、推薦試験を受けるためにはデッサンなど専門的な勉強が必要だった。
もちろん興味がある分野だ。もう迷うことはない。推薦合格を目指して、進路指導を受けた中学2年生の11月から、自主的に勉強を始めていた。
「当時はビジュアルデザインで、とにかくかっこいいものを創りたいと思っていて。ビジョンのある状態と無い状態で、ここまで差が生まれてくるのかというくらい水を得た魚のように、デザインを真剣に勉強したんです。」
次から次へ、ただ与えられる課題をこなすような以前の勉強は退屈だった。あんなにも嫌いだった勉強。それがデザインとなれば全く苦ではなかった。もともと絵が得意だったこともあるが、何よりそこには”デザイナーになる”という明確な目標があった。
そんな努力が実ったのだろう。数か月後、ぴいすけは志望する高校の合格をつかんでいた。
2004年4月、気持ちも晴れやかに本格的なデザインの勉強が始まった。ここには未来が待っている。入ってからわかったことだが、その高校はレベルの高い専門的な授業が行われていることで有名な学校だった。ビジュアルデザインだけでなく、建築の模型から服飾のデザインまで幅広い授業や実習が行われる。
何かを自分で創造していくこと。日常の中から、遊びを考え出していたあの頃と同じだと思えた。目に映る日々の色彩が戻ってきたようだった。まさに自分が求めていた環境はこれだと確信していた。
たとえば、タイポグラフィーの授業で文字が与える印象やその使い分けを学ぶと、ポスターなどの文字を使ったビジュアルデザインに役立った。配色理論の授業内容は、作る服の布の色を組み合わせる際に役立った。
2次方程式を覚えたとしても日々の生活に何ら影響はないだろう。でもデザインの勉強は、座学で得た技術がすぐに実技に活きてくる。理論と実践がセットであり、アウトプットできる実感があるからこそ面白さを感じた。
「習ったものがすぐに実習で使えて表現の幅が広がる、そんなクリエイティブサイクルがしっかりしていたので楽しかったんです。社会人の勉強もそうですよね。アウトプットの場や目的が見えてるからこそ頑張れると思うんです。」
来る日も来る日も作業服を着てデザインに没頭した。アウトプット先は授業だけでは物足りなかった。当時は高校の友人と趣味でバンド活動をはじめ、ライブで配るフライヤーを作る時にも学んだ知識は活きていた。
もちろんバンド名も自分で考える。「LIONNO17(ライオンナンバー17*)」、17歳の時に作ったバンドだった(*LION株式会社のロゴの「LION」を逆さまにして見ると「NO17」に見えることに由来する)。
日中はデザイナー志望の学生で、学校が終わればスタジオに直行してこもり続けるバンドマン。将来音楽を仕事にするつもりは無かったが、どちらの生活も自分にとって大切で夢中になれるものだった。
そうやってデザインを追求していくうちに次第に関心は広がっていった。ITやWebの勉強を始めたのを機に、実際にしたらば掲示板上に「ura県工チャンネル」と言う学校掲示板を立ち上げたり、アフィリエイトサイトを運営していたこともある。先輩の仕事を手伝ったり、フリーランスとして自ら仕事を請けることもあった。
デザインとWebと音楽の理論を吸収しそれを実践する。検証を重ねることでより良いクリエイティブを追求する。その創造のプロセスが何よりも楽しかった。
バンドマンとして活動していた頃。
高校3年間デザインに溺れていたおかげで、デザインはもう生活の一部になっていた。
ただ街中を歩きふらっとカフェに入る。それだけで見るものすべてがデザインの構成要素として目に映る。一つ一つの差に自然と目が向いていく。なぜそのフォントを選んだのか。なぜその置物をそこに置いたのか。そこにある制作者の意図を理解できるようになっていた。
一つの領域を追求し、インプットとアウトプットを誰よりも重ねてきた。領域内でできることはすべてやってきたとも思えるほどだった。外部の仕事も請けている。しかしどこかルーティンにはまり込んでいるような気もしていた。高校2年生の時だった。
「デザイナーはそもそもビジュアルだけの制作屋さんなのかなと。言われた通りに何かを制作する制作者とか職人というイメージで、思った以上に社会的インパクトが無いのでは?と思いはじめていたんです。」
かすかな違和感は見逃せない。自分が進むべき道は本当にこのままでいいのだろうか。いつからか、心のどこかでくすぶっていた想いがふつふつと大きくなりつつあった。
ある日、家のテレビをつけるとドキュメンタリー番組がやっていた。その番組は、いろいろな業界のプロフェッショナルを紹介し、その仕事や生き方に焦点を当てる番組だった。その日の回は、博報堂から独立した有名なアートディレクター佐藤 可士和氏の仕事を特集するものだった。デザイナーの仕事とは何なのか。その根底を揺るがされた。
ただ依頼されたものを作って終わりではない。企業ロゴを制作するにしてももっと上流の経営レベルから構想に入る。コーポレートアイデンティティの観点から課題を抽出し、解決していく”問題解決型のデザイン”を形にしていた。
佐藤氏は、デザインというものをビジュアルや制作と言う範囲ではなくもっと広義なものとしてとらえていた。それを見た時自分の中で何かが開花したような気がした。
「言われて作って終わり。それ以上とは何か?を死ぬ気で考えた結果、新しい概念が生まれることを漫画ワンピースの『能力の覚醒』にちなんで、『職業の覚醒』と呼んでいます。なんとなくやってきた仕事がテクノロジーの進化や考え方次第で変わることです。ことデザイナーの覚醒と言うのは、マネージャークラスや経営者の”視覚の整理”だけじゃない上流のデザイン。情報をデザインしたり、コミュニケーションをデザインしたり、文化そのものをデザインしたり……といったありとあらゆるものやことを設計できる人(デザイナー)になるということですね。」
たとえば、ただ言われた通りの仕事をしていた美容師がヘアメイクアーティストと呼ばれるようになる。さらにその先には、美容全体のトータルプロデュースを手掛けるような職業への進化がある。デザイナーの影響力も、ただの制作に留まるものではない。目指していた職業は、こんなにも世の中にインパクトを与えることができるのだと衝撃を受けた。
驚きと感動に心が打ちふるえる。気づいた時にはデザイナーとしての流儀が変わっていた。
コカ・コーラの缶を見たとする。以前はそのデザインに注目するだけだった。それが今では、コカ・コーラという会社のコーポレートブランディングを考えている。会社の名前やロゴ、オフィスやHPに名刺、社内のルールデザインもそうだ。考えてみれば、会社を作るという行為は、他にないくらい多種多様なクリエイティブを包括するものだった。
──会社を丸ごとデザインしてみたい。自分の手で、社会にインパクトを与えるようなクリエイティブを生み出してみたい。デザイナーになりたいという夢はいつしか、起業家になりたいというビジョンへと変化していた。
それは自然な事のようにも思えた。だって昔から大好きだったじゃないか。自分の目で見える世界、そこに楽しいもしくは正しいと思うルールを作り出し周囲を巻き込んでいく。人とは発想が違うこと。それらを最大限に活かすことができるフィールドこそが起業だったのだ。
18歳で高校を卒業し待ち切れないとばかりに社会へ飛び出した。
同時に初めての起業を経験する。デザインの専門学校への入学と同時期に、知り合いのSEO会社の共同設立に参画したのだ。当時はまだ「学生起業家」という言葉は耳慣れない時代。反対や冷やかしの声も聞こえてくる。でも、そんなことはどうだってよかった。自分の人生をデザインするのは他人ではなく、自分自身であるべきだと断固として信じていたからだ。
20歳からは上京し活動の拠点を東京へ移した。関西にあった最初の会社と兼務しながら東京のデザイン事務所で働いた。ITとクリエイティブ、そして起業家としての自分、まさに高校生の時に夢見た望んだ通りの生活だ。
でもまだまだ足りない。どこからか湧いてくる渇望が常に自分を突き動かしていた。
── そこからの日々は突風のように過ぎていく。たしかに物語はあるが、色も音も無かった。映画を見ながら早送りのボタンを押すように、普通の人の何倍もの速度で駆け抜けた。
21歳の時起業した会社は、受託制作やアフィリエイト、システム運用、サービス開発などを手掛けるIT企業だった。知り合いの会社に執行役員として参画し、多い時では5つ以上の会社を兼任している時期もあった。その後ビジネスとしては小さな成功を収めた。
確かにお金は稼げるが、一つ一つにコンセプトがあったわけではない。数字を追いかけているようで、その実何かに追い立てられているようでもあった。
── 仕事に没頭するうち、意図して手放した何かがあって、気づけば手の中にあったものがある。その逆もそうだ。失ったものと得たものをいちいち数えている暇はない。『失くしたものは要らないもの 本物は手に残る』CHARCOAL FILTERもそう言っている。
「良くも悪くも仕事をしまくっていて、いかにお金を稼ぐか?事業を伸ばすか?競合を倒すか?EXITするか?しか考えてなかったです。もちろんそれは今でも同じなんですけど、昔の僕はそれ”しか”知らなかった。」
ありとあらゆるビジネスを見てきた。大きく華やかな案件を手掛けた時は誇らしく、自分の能力の限界を突き付けられた時は、空っぽの自分が闇に落ちていくような心地がする。
気づけば100を超えるプロジェクトに携わっていた。
そのうち、起業にも様々な違いがあることがわかってくる。ただ稼ぐだけが起業じゃない。違和感を覚えれば目線が広がる。当時渋谷界隈には、ビジョンを掲げて社会を変えようとするスタートアップ企業が集まりつつあった。そこで働く人々のモチベーションは、お金とは別のところにあるという。
”社会起業家”という言葉に目覚めたのは、23歳の頃だった。
自分の会社を半分ほど清算して、渋谷のスタートアップ企業にハーフコミットしはじめた。そのスタートアップはまだまだ創業期ということで、コンビニでアルバイトするほどの給料しか受け取らなかったが、同じスタートアップの一員として貴重な経験を得ることができた。自分が生み出すサービスやプロダクトで、社会にインパクトを残すことができる。なんて素晴らしい世界なんだろうか。
しかし、壮大なビジョンを描くそのスタートアップも現実的な課題をいくつも抱えていた。プロダクト開発よりも優先する目先のビジネス。意思決定の遅れ。定着しない人材。サービスをリリースするまでの道のりは困難を極めた。
前人未到の領域へ踏み込む組織に対して、適切なアドバイスをしてくれる存在はいないのだろうか…。お金だけを投資したり助言だけを残すVCや大企業のメンターとは違って、スピード感を持ってビジネスをスケールさせるには、プロダクトのオーナーシップを持ち、リードしてくれる第三者機関の存在が重要になると感じていた。
それまで自身も連続起業家としていくつもの会社を創業する中で、このスタートアップのような光景を多く目にしてきた経験がある。スタートアップの成長を阻む壁はいろいろあるが、能力、特に技術が課題となる場面をその中で多く見てきたのだ。
「スタートアップはプロダクトを作るためにエンジニアを雇いたい。そしてエンジニアを採用するために資金を調達したい。そこでスタートアップがVCに投資を頼むと、『じゃあプロダクト作ってきてね』と言われてしまい鶏卵状態になってしまうんです。」
お金がないからプロダクトが作れない、それなのにプロダクトがないと資金調達ができない。世界初の技術投資ファンド「TECHFUND」の構想は、そんな業界内の負を目の当たりにする中で生まれた。
その構想とは、エンジェルラウンドよりも前の事業の助走期間を「トライアルラウンド」と呼び、技術の壁にぶつかるスタートアップに開発力を提供する見返りとして、そのスタートアップのエクイティを引き受けるというものだ。
9歳からコードを書いてきた天才、共同代表の松山 雄太と出会ったのは20歳の時だ。当時はスタートアップブームの真っ只中だった。いかに社会にインパクトのあるプロダクトやサービスを作り、GoogleやFacebookのような影響力ある会社を作るか?!同じ夢を抱く二人はすぐに意気投合した。
社会に大きな足跡を残すような新しいビジネスアイディアを考えては、会うたびにその熱量をぶつけ合い意見を交わし、意見を交わすよりも多くのハッカソン*の時間を共有した(*その場でサービスアイデアを考えてその日中にプロトタイプを実装すること)。
技術力を必要とするスタートアップ企業、その成長に貢献するアクセラレーターを一緒に作ろう。信頼できる仲間と共に走り出す。目指す世界を共有するまでに時間はかからなかった。
お金の代わりに、技術を投資してスタートアップが描く未来に向けて伴走する。2014年10月9日。「テックの日」にちなんだその日、「起業家をメジャーな職業にする!」と言うビジョンの元、株式会社TECHFUNDは産声を上げた。
どこかの手狭なマンションの一室で、今この瞬間にも、世界を変えるようなアイディアが生まれている。
スタートアップの創業期、起業家たちは必ず頭を悩ませる。己の情熱と信念を頼りに、答えのない難問を解決しながら前に進んでいく。しかし、どんなに素晴らしいアイディアも、形にするには技術が必要になる。それがないため世に出ることなく消えていった事業が、これまでどれほどあったことだろう。
株式会社TECHFUNDは、お金ではなく技術を投資する「技術投資*」によってスタートアップを支援するテクノロジーアクセラレーターだ。(*お金の代わりに技術を投資し、その見返りとしてエクイティを引き受ける投資手法。海外では"スウェットエクイティ"と呼ばれている。)
「起業家をメジャーな職業にする!」というビジョンを掲げ、これまで総計250チーム以上のメンタリング及びデューディリジェンスに携わり、6社への技術投資を実行してきた。
同社はスタートアップへの技術投資事業だけでなく、大企業向けに社内新規事業を支援するプログラム「ACCEL PROGRAM(旧:SUNRISE PROGRAM) for BIZ」を提供し、30社以上のイノベーション創出にも貢献している。
2018年6月には、API の呼び出しだけでブロックチェーンアプリケーションの開発が可能になる「ACCEL BaaS(Blockchain as a Service)」のβ版をリリース。さらに同年10月には、国内初のICO/STOアクセラレータープログラム「ACCEL PROGRAM for ICO/STO」の一般募集を開始した。
同プログラムに参加・採択されたスタートアップは、暗号資産の発行による資金調達支援だけでなく、リーガルチェック、海外法人の設立、開発支援、マーケティング支援を受けることができる。
「TECHFUNDはVCというよりアクセラレーターとしての役割が強く、お金を投資してキャピタルゲインを得ることだけが目的ではなく、ポテンシャルの高い起業家を採択し、その起業家と一緒に事業を成長させ共に歩んでいくことを目的としています。」
日本で起業家といえば、「困難でリスクの高い職業」というイメージがいまだに根強い。
しかし、普通の仕事の選択肢として起業家という職業が挙げられる。そんな未来を作ることができれば、もっと多くの人々がスタートアップし、社会により多くの価値を創造していくことができるだろう。
そのためにTECHFUNDは、起業家のためのエコシステムを構築し起業家という職業のイメージを刷新する。
設立5年目にして起業家の支援数は300チームを超える。
起業家をメジャーな職業にする。そのためには、全ての起業家たちを成功に導かなければならない。とにかく事業をスケールさせ売上を稼ぐために奔走する。上場やEXITを目指し、スタートアップの成長競争をひた走る。そんな起業家たちの姿は、18歳から10年以上に渡り起業家として活動してきた過去の自分と重なっていた。
プレッシャーの中で、微かな疑問が芽生えはじめていたのも事実だ。
夢があって会社を立ち上げたはずなのに、いつしか目の前の数字を追いかけ、それをスタートアップにも強要してきた。社会が求めていることや、自分たちが本来やりたかったことよりも、稼げることや失敗しない方法を優先していたのだ。何かの歯車がおかしくなっている。その事実に気づきながらも見て見ぬふりをしてきた。
自分の創造性を最大限発揮できる起業という営み。起業し、収益の最大化のために走り続ける。自分が本来やりたかったことは、こんなことだったのだろうか。
TECHFUNDを設立する時はもっと心に従い、自分が大切にしたいもののために起業することにしていた。
起業家に対して技術力を提供し見返りとしてエクイティを引き受ける「技術投資」という事業モデルは、多くのお金を稼ぐことができるようなものではない。それでもビジョンに共感し、資金を出資してくださった投資家がいた。
金儲けのための起業ではなく、社会にとって意味があると信じることを成し遂げるための起業だ。しかし、違和感の正体はまだ掴めていなかったことも事実であった。
運命的な出会いが訪れたのは、TECHFUNDを創業して間もない2015年3月のことだった。それはあたかも何かの啓示のようだった。
「僕がアクセンチュアを辞めた理由」と題した一つのブログ記事。山下 悠一氏のその投稿は、当時インターネット上で話題になっていたものだった。
「創業当時、資本主義的なこのブログ記事のような激務を毎日こなす中で、本当の豊かさひいては幸せってなんなんだろうってことにすごい疑問を持ちはじめて……。この記事と出会ったのは、それらの事について真剣に考えていた時期だったんです。結果、オルタナティブ経済っていう資本主義に対するカウンターカルチャーがあるということを初めて知って。」
そこに書かれていた考え方は、まさに自分の心の違和感に形を与えてくれるものだった。上場やEXITに全速力で向かっていくだけが起業ではない。もっと好きなことをやるための起業があっていいはずだ。メンタリングを重ねていた投資先の中でも、そう考える起業家たちを多く目にしてきた。
たとえば、DogHuggy(ドッグハギー https://doghuggy.com)という投資先がある。代表の長塚氏は当時高校生の17歳の時に起業して、「犬が好き」という人生観を持っている。その中で「犬がもっと幸せであるべき」という哲学を、事業を通して体現しようとしている。
「彼は今23歳くらいなんですけど、すでにシリーズA 2回目の調達も完了していて、彼は事業やユーザーやステークホルダーや”犬”から多くのことを学んで、人としても大きく成長しているんです。彼のそういう姿を見ていると、なんと言うか昔みたいに、ビジネスがどうこうとか、より会社としてガバナンスをとかいう世界観ではなく、人生観や哲学の強さみたいなものに気づかされるんです。そしてこれがまさに最近の僕の傾向なんです。」
ただこのプロダクトが好きだから。ただ好きで守りたいものがあるから。そこには、自分らしい起業があるだけ。そんな起業の在り方だって、かけがえのない誰かの人生だ。
「もちろん出資を受けた以上は各ステークホルダーや社会への責任を全うすることは前提なのですが、いまのスタートアップにはそういう外的要因を気にしてるうちに、自分自身のアイデンティティが無くなってしまっている人が多いように感じます。『僕がアクセンチュアを辞めた理由』を読んだ時に思ったことは、人は何かに飼いならされてはいけないということと、自分らしく有機的に生きることの重要性で、DogHuggyにはあって当時の僕にはなかったことは”ピュアさ”だということに気づかされたんです。」
ハードな闘いを越えた先0.01%の勝者だけが上場できる。そんな生存競争のレースを走り抜け、結果的に報われないという起業家も多い。起業の在り方をもっと俯瞰的に考えるならば、そのプロセス自体に意味を求めていかなければ、EXITだけが評価される社会になってしまう。
もちろん投資を受ける以上EXITを目指してキャピタルゲインという形でリターンを返すために頑張るのは当然だ。しかし、もっと起業のプロセス自体が注目され賞賛が集まるような社会でも良いのではないか。スタートアップの世界でも、たとえ儲からなかったとしても社会に貢献しているようなビジネスが認められてもいいのではないか。「起業家をメジャーな職業にする!」というビジョンを実現するにあたっては、そんな社会基盤が必要であると考えるようになっていた。
出会いは連鎖し、人生観を急速に変えるきっかけとなる。
ソーシャルヒッピーの鯉谷 ヨシヒロ氏からは、資本主義経済の人間は生きること以外の無駄な行為に時間を使いすぎている、ということを学んだ。現在WIRED日本版編集長を務める松島 倫明氏には、禅やマインドフルネスの世界やエクスポネンシャル思考(シンギュラリティ)、そして人が野生に戻ることの大切さを学んだ。
3人との出会いを経て想いは確信に変わった。ハードな冒険だけではない、自然体の自分でいる時間が人生をもっと豊かにしてくれるはずだ。連続起業家がたどり着いた、資本主義の先にある生き方だった。
平日はCEOとして目標達成に向けてひた走る。自分を追い込み、知識を広げ技術を磨く。グローバルの情報に常にアンテナを立て、圧倒的な速さでタスクをこなしていく。反対に土日は自然に帰る。趣味であるトレイルランニングを通じて、電波も天候も不安定なトレイルの中を駆け抜ける。大自然の中で得られる”ただただ自分は生きている”という実感が、人生の幸福度を高めてくれるのだ。
「資本主義の側面からオルタナティブを見たり、オルタナティブの側面から資本主義を見たり、A面とB面を行ったり来たりする中で、お互いの良いところと悪いところを選択してる最中です。」
生きることの本質と向き合うと、自分らしく生きる方法が見えてきた。25歳より前の「闘う起業」から、「自分らしい起業」の在り方へ。起業によって「身体的」「精神的」「社会的」に良好な状態を手に入れる。「Entre Well-being(アントレウェルビーイング)」、それは人生を自分の手に取り戻すための道しるべとなる。
経済や哲学を俯瞰し、デジタルとネイチャーの狭間を行き来する。そんな生活を数年続け、個人として大切にしたい価値観が次第に鮮明になってきた。
2018年12月22日、自身の30歳の誕生日を迎えるタイミングで改めて整理した想いがある。
「BE AN ENTREPRENEUR “起業家たれ”」。
起業家になることを強制するわけではない。まして事業を興して会社を上場させることや、起業家として社会に貢献するといった難しい話でもない。そこには誰もがより良く生きるためのシンプルなメッセージが込められている。
このBE AN ENTREPRENEURという哲学を語る上で「DIY(Do It Yourself)」、「PSF(Problem Solution Fit)」、「QOL(Quality of Life)」という3つのキーワードは必要不可欠だ。
「1つ目のDIY(Do It Yourself)は、自分の仕事ひいては人生をあなたなりにデザインしようという話です。決められた家具を買うんじゃなくて自分にフィットしたものをDIYするように。起業という行為は仕事や人生をDIYできる。本当に自分たちにフィットしている仕事を作ることができる。もちろん広い視野で見た時、いまだ解決されていない社会課題に対してもフィットした事業を作ることできる、それが起業と言う行為なんです。」
たとえば投資先のDogHuggy(ドッグハギー)では、ペットホテルの劣悪な環境に置かれる愛犬のストレスを減らすため、犬版のAirbnbサービスを展開している。ペットホテルという既存産業に対して、自分たちの価値観を反映する新たな仕事をDIYするという発想だ。
自分に合う会社や仕事を探すのではなく、たった一度の自分の人生を自分のものにする。そしてその行為によってしっかり社会にも貢献して、「社会的」にも良好な状態を手に入れる。それを可能にするのが起業という選択肢なのである。
「2つ目のPSF(Problem Solution Fit)は、問題解決の能力を身に付けることですね。起業していると、本当に様々な問題にぶつかります。それを解決することでビジネスが回っていくので、問題解決能力が起業によって身に付きます。逆に言えばこのPSFの能力が身に付いていないほとんどの起業家は失敗します。僕は、これは起業家以外のありとあらゆる人にとっても大事な能力だと思っています。」
3つ目として挙げられるQOL(Quality of Life)、つまり「質の高い人生を送ること」については語るまでもない。なぜなら人生の質を決めるのは、個人の価値観に依るところが大きいからだ。
本当に質の高い人生とは、その人自身が決めるものである。しかし私たちが手にする未来にはそんなQOLを左右するかもしれない大きな波が押し寄せている。
指数関数的に高度化する人工知能が人々の仕事を代替するようになるシンギュラリティ(技術的特異点)。ブロックチェーン技術により作られる非中央集権的な分散型社会、そこでは自分の好みに合わせた小さな経済圏の中だけで生きていくことが可能になるだろう。
ベーシックインカムは、働かなくてもいい実験的な世界だ。お金が稼げる仕事にしか需要が集まらない資本主義から、お金が稼げないボランティアにも仕事としての価値が生まれるかもしれない。しかも先程のブロックチェーン技術上に構築されるトークンエコノミーと言うおまけつきで。
そんな未来と向き合うためにも、「BE AN ENTREPRENEUR」が大切になる。
「シンギュラリティが起きても人工知能に代替されない自分らしい仕事を作り出す力、資本主義が分裂したとしても自分の経済圏(エコノミー)を作れるリーダーシップ力、ベーシックインカムが主流になった時代でも自分自身の『働く意味』を考える力、これらの『自分の人生の質を高める力』は、すべて起業家精神によって作られるんです。」
ぴいすけにとって起業は、ライフスタイルの一部だ。自分らしい生き方を探し求めた結果、自然と行きついた答えだった。起業によって人は自分のなりたい姿になることができる。
精神的なハードルを感じたことはない。18歳で社会に出た時から起業という世界で生きてきた。そして今、起業家は最高にクールな職業で、そんな起業家が世界を変えると信じ、アクセラレーターとして世界を舞台に活動している。
人とは違う自分らしさを開花させ、人生という冒険を楽しむ。起業はあなたにたった一度の人生を豊かに生きる力を授けてくれるだろう。
2019.04.24
文・引田有佳/Focus On編集部
興味のあることを仕事にする。
働き方や生き方についての個人の価値観が多様化し、より個人が生きる道を尊重すること。それにより組織や事業を創り出すことへの関心や声が高まっている。
従来の組織を達成型の組織と呼び、対比として本来のありのままの自分を求める「ティール組織」や、組織の指示命令系統を備えずに主体的な意思決定を求める「ホラクラシー組織」など。ビジネスや市場の変化のスピードが加速する現代、組織運営を効率的に進めるため、個を前提とした手法の選択が広がっている。
一方で、「置かれた場所で咲く」という文脈に語られるように、興味に従い、逃げ出すことへの疑義としてのメッセージが語られることも少なくはない。
確かに、興味や好奇心とは言葉だけひきとると、どうも移ろいやすいことは確かであるように思える。興味や好奇心に惹かれ続けることで、私たちは「我慢」の状態が失われ、社会への価値転換ができる状態までの到達を見出さずに、それまでの過程をゼロベースにして、次の選択に向かう。社会不適合という言葉が時にはそこに当てはめられる。確かにそのようになることもあるだろう。かつて重厚長大のビジネスが展開された時代を振り返ると、移ろう興味に個人が従うことで社会に向けた花を咲かすことは難しかったのだろう。
社会において価値が発揮されない状態のまま次に向かうことは許されぬ。だから先人達は、その場所に我慢していつづけ、努力することに意味があるとか、その我慢の過程自体に意味があるとかに論理をおいて、その人の人生や成長にとってもその過程が重要であるという論理のもと個人の興味に目を向けることを許さぬ状況を生み出してきた。
時代の流れの前提を抜きにしても、人間の本質は果たしてそうなのだろうか。
「なんでこれ勉強するの?将来意味あるの?」と、幼い頃に思った疑問を思い返しても、意味があるのかを問われ人生の意味の正当性を見出し理解して取り組もうと試みた人よりも、純粋にその学習そのものを楽しみ、次を知りたい、なんとなく知りたい、と誰から何も言われず、自然状態でそれを手にする人の方が勉強はできていたように思える。
先人達の更にその先にいる、フロンティアでの開拓者、世の中の道を切り開いてきた人々は、初心の頃に本当にそれが、人生に意味あると思っていたから作れた道であったと言えるのだろうか。
ここに興味や好奇心を下記のように分類し、その分類別で学習への効果・定着度を調査する研究を見てみたい。
【好奇心】 ・新しいものが好きであるという拡散的好奇心 ・理解できないとどうも落ち着かないという特殊的好奇心 【興味】 ・その対象自体が好きか嫌いかという感情的価値の興味 ・自分にとってそれは重要かどうかという認知的価値の興味 ・その対象についてどう学習するかなどがわかるという興味対象関連の知識そのもの |
本研究では,授業内容の定着に及ぼす知的好奇心と学習内容に対する興味の関係を検討した.次のような結果が得られた.1つめは,特殊的好奇心と興味対象関連の知識が授業内容の定着と関連した.2つめは,特殊的好奇心と学習内容定着の関係で,興味対象関連の知識に調整効果が見られた.―山口大学教育学部准教授 沖林 洋平
理解できないとどうも落ち着かないという特殊的好奇心や、その対象についてどう学習するかなどがわかるという興味対象関連の知識そのものこそが、学習内容の定着に効果を表すという。
純粋に、個人としてそれが興味があることであり、自然状態でどうしても知りたい意欲にかられるか。知らないといけないか、その次どうすればいいかを知っていることこそが重要であり、自分の人生にとってそれは重要かどうかという論点の興味や、感情的に好きか嫌いかの興味での学習の定着度は関連性が低い。
ぴいすけ氏は、向き合ってきたからこそ分かっている。周囲がどう言おうが、人と世の中に生まれる「差」に注視し、苦悩の時も経てきた。大人が言うから意味があるらしい、と自らを騙すことなくひとつひとつの道を選択してきた。だからこそ、本当の意味で自分が本当に興味のあることはなんなのか。自分が理解できないと落ち着かない状態の興味対象がなんであるかを探し出会うことができ、自らにも社会にも意味をもたらす生き方を手にすることができたのだろう。
理解しなければ落ち着かない。だから、探求するし、その過程はより自らに定着するものとなる。受動的に意味を成すのではく、主体的に意味のあるものになる。心の声をひとつひとつ結晶化させて純度の高いもの、高次のものへと転換し続け人生を豊かにしている。それはいつしか社会のための姿へと転換を遂げている。
ぴいすけ氏は自らの生き方を発信し、文化として醸成することへ挑戦をする。キャピタルゲインを得ることだけが目的なのではない、新しい形の投資により社会への実装を実現している。起業家がアイデンティティを守り、質の高い人生を成し遂げることのできる社会を創り出すことで社会発展を根底から促進していく。
起業家が興味あることへ行動することに純である。その状態を守りながら投資し、支援する。だからこそ、その興味の結晶はリアリティのある社会課題であり、そこに向かい合うことにより生まれる社会的価値への転換は社会にとっても新たな意味を持つ。「今」生まれている興味により導かれる、先人たちが誰しも見いだしたことのない「今」の社会を変えていく道筋となる。
今を生きる先人としてのぴいすけ氏の背中は、私たちの見えている世界の見方すら変えていく。
文・石川翔太/Focus On編集部
※参考
沖林洋平(2017)「知的好奇心と授業に対する興味と学習内容の定着の関係」,『日本教育工学会論文誌』41(Suppl.),pp.133-136,日本教育工学会,< https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjet/41/Suppl./41_S41076/_pdf/-char/ja >(参照2019-4-23).
川原ぴいすけ (Peaske.Kawahara)
ぴいすけ (英)Peaske 1988年12月22日生まれ。A型。は渋谷区在住の連続社会起業家、技術投資家、エコシステムデザイナー、トレイルランナー、アーティスト(VENAFUとして活動)、株式会社TECHFUND共同最高経営責任者兼最高クリエイティブ責任者。18歳で起業を経験し、過去100件以上のプロジェクトに携わる。当時の仕事に、dynabook(東芝)WEBサイト、SEIKO、JVC、ウイニングイレブンパッケージデザイン、エキからエコキャンペーン、味の素キャンペーンなどがある。
21歳からは広告業界からIT業界に転身し、複数の会社を同時経営(経営参画含む)。受託制作、アフィリエイト、システム運用、サービス開発、大学向けデジタルサイネージ事業などを展開。
2012年、渋谷のスタートアップベンチャーに参画。クリエイティブディレクションを軸とした独自の手法で、開発現場のチームマネジメントなどの業務に携わる。
2014年、Airbnb Japanの立ち上げにエヴァンジェリスト・ホストとして参画した後、2015年株式会社TECHFUNDを共同創業。共同最高経営責任者兼最高クリエイティブ責任者に就任。同社においてブロックチェーンアズアサービス「ACCEL BaaS」の開発や、ブロックチェーン開発及びICO/STOによる資金調達をサポートする「ACCEL PROGRAM」の事業推進に従事。