Focus On
中田寿
株式会社和久環組  
取締役COO/CFO
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or視野を広げようと努めた先の世界にこそ、自分のミッションは見つかる。
「データで日本を観光立国する」というミッションを掲げ、宿泊・観光領域から日本経済へのインパクトを創出していく京都発スタートアップである株式会社AZOO。グローバルな開発組織を有する同社が提供するAll in OneホテルDXシステム「WASMIL(ワシミル)」は、中小ホテルや旅館の経営を効率化し、一元管理可能なデータの力で宿泊体験やマーケティング活動をアップデートする。ホテルのDX推進に向けたコンサルティング事業も手掛ける同社では、データを活用した地域づくりをも進めている。
代表取締役の横田裕子は、京都大学工学部を卒業後、株式会社毎日放送へ入社。のち、インドネシア政府のダルマシスワ奨学生に選定され、現地の大学に留学。帰国後は環境省やJETRO、JICAで日本の中小企業の海外展開支援、海外需要の取り込みと地域経済活性化などに従事したのち、2020年1月に株式会社AZOOを設立した。同氏が語る「人生の軸」とは。
目次
たった一つの旅を通じて人や国に対するイメージがガラッと変わることがあるように、旅行という体験は全ての人に新しい視野をもたらしてくれる。国や人種を越えて交流したり、そこにしかないローカルな魅力を体感したり、数々の豊かな体験の起点となるものが「宿」である。
旅に欠かせない宿泊施設の支援を通じて、日本へ社会的インパクトを生んでいきたいと横田は語る。
「2023年度のインバウンド消費が年間約5兆3,000億円ありまして、そのうち最も多い3分の1ほどを占めるのが宿泊費なんです。ホテルを支援することで宿泊単価を上げていくと、地方の経済が回る。AZOOはホテルという文脈から経済を回していきたい、そのサポートをしていきたいと思っています」
同社が提供するホテルDXシステム「WASIMIL(ワシミル)」には、ホテルや旅館運営の効率化と収益拡大に必要な機能が揃っている。オンライン直販予約エンジンからホテル管理システム(PMS)、オンラインチェックイン機能、会計管理やCRMマーケティング機能など、必要なオペレーションを網羅したオールインワンサービスであることが大きな特徴だ。
「今のホテル業界は二極化が進んでいて、完全に無人化してオペレーションを回すことで人手不足を解消する流れが一つ。それからやはりサービス業界なので、人が介在するところに生まれる価値を大切にする流れの2種類があって、『WASIMIL』ではどちらも対応できるのですが、どちらかというと後者を支援することを得意としています」
たとえば、米国から家族で旅行に来た宿泊客は何泊することが多いのか、「WASIMIL」上に蓄積されるデータから国や人数、旅行シーンに応じた消費傾向を割り出す。そこから新たな宿泊プランの設計やCRM施策に繋げたり、ただ泊まるだけで終わらない特別な体験をセットにしたり、「WASIMIL」はより深いサービスをより低コストで提供することを可能にする。
「これまではホテルのマーケティングマネージャーやレベニューマネージャーと言われる役職の方々が、基本的にエクセルやGoogleシートを使って手動で管理・分析していたんです。それを自動で見える化することで、よりテーラーメイドなプランを作ったり、プラスαなサービスを提供してもらうために使っていただきたいと思っています」
お子さんの名前からアレルギーの有無、その日どんな会話をしたかなど、どんな情報も属人化させずに仕組みとして蓄積・管理できるようする。お客様との強固な信頼関係づくりやリピーター増加に寄与していくだけでなく、その先には宿という単位を超えた施策を見据えているという。
「今後は地域づくりや、地域全体を観光で元気にするというところまでやりたいと思っています。弊社のシステムが入ることで宿泊旅行客のデータが溜まってくると、地域ごとによく訪れる人の国や傾向が分かってくるので、地域のプロモーションや魅力を伝えるコンテンツ作りに活かしていただける。同じようにその先は、日本単位でインパクトを生む事業にしていきたいと思っています」
日本の観光・宿泊業にある魅力は、データドリブンな経営でさらに開花する。AZOOが構築するプラットフォームにより、宿から地域、地域から国へと新たな価値づくりの輪は広まっていく。
ホテルDXシステム「WASIMIL」
生まれてから高校時代までを過ごした兵庫県たつの市は、県内でも西部に位置する。あちこちに田んぼが広がるような田舎だが、「揖保乃糸(いぼのいと)」のブランドで知られる手延べそうめんや、ヒガシマル醤油の工場などがある。
田んぼで転げまわったり、タガメやカエルをつかまえたり、子どもの頃の娯楽と言えば、何よりのどかな自然の中で友だちと遊ぶこと。それから、親から与えてもらった本があったと横田は振り返る。
「母が国語の教師だったのですごく本を買い与えられていて、兄と私の名前の一部を取った『ハルヒロ文庫』という小さい本を読める場所が家の中にあったんです。だから、小さい頃から寝る前に本を読む習慣があって。いろいろなジャンルの本を読んでいたのですが、当時はストーリーのあるものが好きでしたね」
日常から離れた物語は、新鮮なエンターテイメントとして映ったのかもしれない。小学校の宿題でも、自分でストーリーを考えたりするものが好きだった。
自分の想像力やアイデア次第で、世界が広がる。その感覚に夢中になり、普段遊ぶなかでも少し変わった工夫を取り入れてみて遊ぶことに夢中になっていた。
「秘密基地みたいなものと一緒にシチュエーションを作ってみんなで遊ぶとか、たとえば一輪車に乗るときも普通に乗るんじゃなくて、傘の柄と柄を引っかけてサーカスみたいに回るとか。家でずっとゲームをしたりと決まったパターンの中で遊ぶというより、自分でアイデアを出して新しいものを作っていくことが好きだったように思います」
やりたいことを思いつけば、自然と友だちを巻き込んでいる。自分の意思で何かする方が、人に言われたことをそのままやるより面白かった。
「両親からは『ありがとうをきちんと言いなさい』とか基本的なしつけ以外では、『勉強しなさい』とかそういうことは一切言われたことがなくて、どこか自分の意思で人生を決めていいという土台はあった気がしますね。基本的に子どもの選択には干渉しないスタンスで、やりたいという意思は尊重してくれていました」
小学校も後半になると、兄が中学受験に向けて塾に通う姿を見て、自分も行きたいと毎週土曜日だけ塾に通わせてもらった。しかし、やはり友だちと遊ぶこと以上に楽しいことはない。毎回ギリギリまで宿題には手をつけていなかった。
「基本、塾の宿題もせずに友だちと遊んで、金曜日の夜になって私の宿題を母や兄を中心に家族全員が手伝ってくれるという優しい家族だったと思います(笑)。当時は努力して成果を出すというよりは、短期集中で要領よく乗り越えているような感じでしたね」
大好きな友だちがいて、のびのびやらせてくれる家族がいる。学校もいじめなどの心配事はない。たとえば、USJやディズニーランドに遊びに行くような刺激的なイベントがあるわけではないものの、そこにはたしかに素朴で平穏な一つの幸せの形があった。
「小学校の頃は本当に遊んでいた記憶しかなくて。近くの田んぼで友だちときゃあきゃあ言いながら遊ぶみたいな、その瞬間がすごく幸せだったなと思うんです。結局今でもそれがすごく自分の中に残っていて、自分の幸せってなんだろうと思った時に、自然の中で親しい人と幸せに生きたいという思いが一つの原動力になっていて。その原体験が小学校時代にある気がしています」
天気のいい日に歩くあぜ道の匂いや、雨上がりの澄んだ空気、夜に鳴き出す虫の声。お金をより多く持つことや、名誉ある立場を追い求めることよりも、誰の心にもやすらぎをもたらす原風景のようなものが田舎にはあるのかもしれない。
日常の些細な幸せを享受しながら、親しい人と自由にのびのびと生きる。あの頃感じていた何気ない幸福の瞬間瞬間が、大人になった今なお心の中に残りつづけている。
2-2. 苦手を克服するほど人生は開ける
中学の受験先は家から通える距離にあり、できるだけ偏差値が高い中高一貫の学校を選択した。あまり深く考えずに選んだので、それまでの自由気ままな生活とは一転、急激な環境変化に戸惑うことになる。
「もう自分には本当に合わなくて。管理型で靴下を三つ折りにせず伸ばすと怒られるとか、学校帰りに立ち寄っていいのは本屋だけとか、あとは進学校だったので先生たちも成績重視で何人東大に行けるかという、そういうカルチャーだったんですね。すごく自由度がない環境に変わったので、中高の6年間は結構苦しさがありました」
ちょうど入学した年から共学化したばかりの環境で、180人ほどいる学年全体でも女子は30人ほどしかいなかった。狭い人間関係の中では、やりづらさも生まれてくる。思春期の悩みも重なり、成績は思うように上がらなくなってくる。次第にどこか、現状への不満のようなものが募っていった。
「なんか悔しいなという思いがずっとあって、やっぱり努力しないと結果が出ないんだなと思ったんです。それまでは要領よくやって成績を出していたのですが、中高ではきちんと日々積み重ねないと結果って出せなくなるし、それを露骨に評価するカルチャーだったので。当時は過剰に外からの評価を気にしていて苦しかったのですが、逆にすごく努力して成果を出すという行動には繋がりましたね」
分かりやすい成績という評価を得たくて、きちんと勉強と向き合うようになる。しかし、それだけでは満足できず、そもそも自分を根本的に変えたいという欲求にも駆られていた。
「15歳ぐらいで思春期だったこともあって、少し体重が増えたり、逆に痩せすぎたり、いろいろな外部環境も重なって、自分自身をそれほど好きになれなかったんです。その時に何かこう自分を変えたいなと思って、ランニングを始めたんですよね」
昔から走ることは好きだった。部活も陸上部を選んでいたが、得意としていたのはもっぱら短距離だ。小学校時代のマラソン大会では途中で体力が尽きてしまい、走っては歩くを繰り返してなんとかゴールした思い出がある。長距離には苦手意識があったからこそ、それを克服できれば何かが変わるのではないかと考えたのだ。
「朝学校に行って授業が始まる前に30分だけ走るとか、帰ってきて一人で近くの公園に行って走るとか、とにかく最初は毎日30分走ろうと思って。正直30分でも苦しかったのですが、その時はずっと『自分は絶対にできる』と思いながらやっていて、走りきれたら『できた!』という風に、小さいマイルストーンを置いて積み重ねていくということをやっていました」
はじめは抵抗を感じたが、現状へのいら立ちの方が大きかったのかもしれない。できない自分が悔しいからこそ変わりたい。ほかの誰でもなく、自分自身に対して「自分はできる」と証明したかった。
実際、毎日走りつづけているうちに、体と心の変化を実感できるようになってきた。あとから知ったことだが、ランニングは科学的にも証明されているように身体に良い影響をもたらす。いつしか気持ちが前向きになってきて、「長距離でも走れる」という自信もついてきた。
「昔は自分が長距離を走れるようになるとは思えていなかったので、それは成功体験でした。今でもそうですが、苦手としていることがあれば挑戦して、克服できれば人生が変わるんじゃないかと思っていますね」
苦手なことは避けて通るのではなく、あえて立ち向かい克服する。そうすれば、過去の自分では想像もし得なかった人生へと繋がっていくのではないか。なんとなくそんな気がして、以降もいろいろなことに挑戦していくようになった。
生徒会に入り、体育委員長として運動会の企画運営を担ったり、大学受験ではあえて理転して苦手な理系科目に挑んだ。どれも「自分にはできない」と思えていたことだが、自分改革の一環として何かをより良く変えたいと、今以上に充実した日々を追い求めていた。
理系に進むなら将来何をしようかと改めて考えいてた頃、頭に浮かんだのは一冊の本だった。米国の生物学者レイチェル・カーソンが1960年代に著した『沈黙の春』である。人類が産業革命をはじめ技術を獲得して以来、その代償として脅かされている地球環境について、世界で初めて警鐘を鳴らしたその本は日本でも話題を呼んでいた。
中高生だった当時、2000年代初頭にはいわゆる環境ビジネスが広まりつつあった。環境にまつわる勉強をしておけば、将来何かに繋がるのではないか。そう思い、京都大学工学部で環境工学を学ぶことにした。
「あまり一貫性のない人生なのですが、大学に入ったら基本的に陸上部の思い出しかなくて、4年間フィールドにいた記憶しかないんです。ただ、その時に理系だったので大学3年で研究室を選ぶタイミングがあって。ほとんどの研究室が山の手にある遠いキャンパスにあったのですが、一つだけ陸上部のフィールドがあるキャンパスに残れる研究室があって、陸上ありきで選んだら、それはそれで面白かったんですよね」
廃棄物、いわゆるごみの研究を行うというユニークさもさることながら、そこでは研究自体も少し変わった内容で面白く、すぐに夢中になった。
環境意識を高めるイベントを百貨店で開催したり、「エコウォーキング」と題したウォーキングイベントを企画したり、ごみの多さが問題になっていた祇園の清掃活動を行ったりと、研究室に閉じこもって何かするよりもフィールドに出て学んでいく活動が多かった。
「その時に自分はセオリーでやるより、新しくアイデアを出して社会に実装していく方が好きだなと思いましたね。その方が人生としても面白いなと思っていて。ちょっと普通と違うことをやって面白い人生にしたいという思いは、自分の軸として当時からあったのかなと思います」
日々陸上の練習に時間を捧げながらも、中高時代はあまり強くない部活だったこともあり、大学ではインカレに出るような選手もいる環境の中で、その差を思い知らされる瞬間も多かった。4年間背中を追いかけ奮闘していた一方で、できない自分でいつづけることはやはり悔しい。
そんな時、研究室で垣間見た世界は新鮮さに満ちていた。自分に自信を持てるような何かがそこにありそうだと、就職活動もその延長線上で考えていく。
「『環境が大事だ』とそのまま言っても人は動かないと思うので、それを企画で面白くしてみんなに伝えたり、セオリー通りやるのではなくクリエイティビティやアイデアで勝負する世界が楽しかったし、自分の強みがあるんじゃないかと思って。そんな仕事がしたいと思って、マスコミやエンタメ業界に行きたいと思ったんですよ」
たとえば、日頃コンビニで目にするクリームパンも、体重管理をしなければならない陸上選手としては大きすぎて食べられないが、もっとミニサイズにした商品があれば食べたいし売れるのではないか。そう考えて、メーカーのお問い合わせ窓口宛てに一消費者としての意見を送ってみたり、気づけばアイデアを考えることを楽しんでいる自分がいた。
幼い頃、普通の遊びに少しの工夫を加えることにより、もっと楽しめるものへと変えていたように、ゼロから何かを作っていく時間には何より心躍るものがある。大学後半ではマスコミ系の就活塾に足を運んだり、学内のサークルに参加してみたりもした。
「ありがたいことに最初に内定をいただいたテレビ局に入社することにしました。マスコミ業界の就活は面接でも架空の企画を立てて、そのコンセプトを説明したりするものがあって楽しかったですね」
お題は無色透明だ。それに対し、自身のクリエイティビティを活かして自由に色を足していく。少しおかしく笑えるものにしてみたり、多くの人に意外な驚きをもたらし興味を惹きつけたり。そんな風に人生も、少しの非凡さを加えていくことで豊かになっていくのではないかと思えていた。
入社後はまず東京の編成局に配属された。視聴率を上げるべく、どの番組をどの枠に入れるべきかと考えたり、企画を選んだりする仕事を経験したのち、3年目からは大阪で制作に携わることになった。
「いわゆるADとして働かせていただいて。よく覚えているのは、夏の特番で外国人の方を集めて和太鼓を披露するイベントがあったのですが、その準備で調達するものがすごくたくさんあって、買い忘れて怒られたりとか。買ったものに関しても、ペンは袋を破いて出しておくとか、そういう先に先に考えて準備しておくことの大切さは結構今でも活きているなと思います」
未熟ながら番組作りの現場で揉まれ、何度も怒られつつ多くを学ぶ。そのうちある時、企画の立ち上げを任せてもらえる機会が巡ってきた。
「一つ企画自体はその後10年くらい続くものになったのですが、作る過程でチームにいる優秀なディレクターさんやカメラマンさんの先輩方に『ちょっと編集もしてみろ』と言われて。映像編集をやってみるのですが、この才能がないんですよね。何をどう構成したら面白くなるかといったことが全く分からなくて」
当時イメージしていたキャリアは、クリエイターとしてコンテンツを作るスキルがあれば将来的にも生き残っていけるだろうということだった。フリーランスとして働く人も多い業界だ。しかし、その才能があまりにもないという事実に直面し、危機感が湧いてくる。
業界の特性上、身についたスキルは汎用性があるものではなく転職もそうそう考えづらい。悩んだが自分の中で改めてキャリアの軸を考え直す必要性があるという結論に至り、約4年お世話になったテレビ局を退職することにした。
「おそらく今後職に困らないスキルとして、IT、語学力、会計のどこかの軸でキャリアを築けば何かしらで生きていけるだろうと思ったんです。なかでも語学にしようと思った時に、世の中には米国でMBAを取ったりする優秀な人が有り余るほどいるなかで、差別化できなければ激しい競争になってしまう。調べていくと、インドネシアという国は超親日国で、経済としても伸びている。インドネシア語も世界一簡単だと言われていて、短期間でニッチなスキルを身につける環境として良さそうだと思い、インドネシアに留学することにしたんです」
インドネシア留学中に暮らしていた部屋
どうやら調べていくと、インドネシア政府が主催する奨学金プログラムがあったので申し込む。さらに、合否が出る半年ほど前から現地にある日系のリクルート会社でインターンをさせてもらうことにした。月給は5万円ほどだが十分生活できる。
「インドネシア語は全くできなかったので、インドネシアの首都であるジャカルタにある日系の会社で仕事をさせていただきながら、マネージャーの家にホームステイさせていただいて。朝仕事に行く前に勉強して、日中は喋って学ぶという結構サバイバルな感じで言葉を覚えていきました」
ほどなく無事に奨学生としての合格通知が届いたため、留学生として大学で学びはじめる。学校は午前中しかないのだが、おおらかな国民性もあってか、先生は授業に来たり来なかったりする。クラスで年長だったため自然と先生との連絡役を担うようになり、毎回授業前には電話して、今日は授業があるのかと確認することが日常になっていた。
「すごく自由でしたね。今日は勉強する日にしようとか、暇だから英語もやろうとか、インドネシア人の友だちと一緒に住んでいたので今日は遊びに行こうとか、1日のやるべきことを自分で組み立てられることがすごく幸せだなと感じて。家賃も6,000円くらいのすごく小さな家で、ネズミも出るようなローカルな生活だったのですが、その自由さがすごく幸せでした」
インドネシアには、幼い頃の自由な生活を彷彿とさせる毎日があった。ブログを書くのも自由、アプリを作ってみるのも自由。自由を謳歌できることの幸せを噛みしめながら、1年間かけて言語を学んでいった。
「インドネシア語も中級レベルくらいまでは習得することができて。理想はビジネスレベルまでスキルアップしたかったのですが、それ以上自己資金でやるのも大変だしということで就職することにしたんです」
ちょうどその頃、JICA(国際協力機構)で働いていた友人から、インドネシア科で人を募集していると聞く。帰国するか現地で働くかで迷っていたのだが、せっかくなのでインドネシアに関連する仕事ができればと面接を受け、働きはじめることになった。
環境省時代、出張先のインドで見た風景
「当時担当していた仕事は、たとえばインドネシアの田舎に灌漑施設を作るプロジェクトがありまして、そのプロジェクトのために円借款と言って日本政府がお金を貸し付ける業務の審査をやったり。あとは、京都のチョコレート屋さんがインドネシアのスラウェシ島というところでカカオ生産を行っていて、現地の人の生活も潤う形でビジネスをするということをやっていらっしゃって、そういったプロジェクトに出資したりする事業の裏方をやっていました」
仕事を通じて社会に貢献したり、国の発展に貢献している。そんな実感を得ながら働く経験は、初めてのことだった。
「それまでは結構自分軸だった気がするんです。自分のキャリアをどうするかとか、生き残るにはとか、自分のスキルをどう上げればお金をよりもらえる仕事ができるかとか、学生時代の陸上もそうですがとにかく自分という目線で努力していたところから、JICA以降のキャリアでは自分以外という目線を持つようになっていたと思います」
自分がやりたい仕事をやっているという自覚を強く持ちながら、同時に今までにない意義を感じるようになる。
その後も環境省やJETRO(日本貿易振興機構)などの機関で非常勤職員や専門嘱託として働きながら、日本の中小ビジネスの海外展開支援や海外政府との渉外、Webマーケティングのコンサルティングなど、国と国の架け橋となるような仕事に携わっていく。アジアや中東、オセアニアなど数多くの国へと出張する機会にも恵まれ、視野が広がっている実感があった。
「今でも覚えているのですが、一番仕事に対して意義を感じた瞬間があって。インドネシアって世界一ごみで汚れている川があるのですが、日本の高精度の環境処理システムで川をきれいにする事業の支援をさせていただいたんです。少しでも私がその一助になれて、また5年後10年後ここに戻ってきた時にすごくきれいになっていたら、すごく自分の仕事への意義を感じるなと思いまして。そういう形で国や人々が潤ったりと、仕事の先にある社会的インパクトを考えることのやりがいに気づかせていただいた体験でした」
国際協力や国交の強化といった文脈で仕事をしていると、しばしば「日本への裨益(ひえき)」という用語が使われる。裨益とは、簡単に言えばメリットのことである。一つひとつのプロジェクトや意思決定の背景には、日本経済にどのようなメリットを与えられるかという外向的な思惑が必ずある。
そこで仕事をするということは、常に日本経済へのインパクトを考えることが習慣化するということでもあった。
「仕事を通じて日本に社会的・経済的インパクトを起こしたいと思った時に、大手企業さんは余力があるのでグローバルに展開していけるけれど、私が生まれ育ったような超田舎町の醤油屋さんとか小さな駄菓子屋さんは今後生き残ることが難しくなる。やはりインバウンドで日本に来ていただける観光客が増えているなかで、ローカルの経済をもっと動かせる仕組みを作りたいなという思いが、AZOOの事業に繋がりました」
起業の後押しとなったのは、起業経験を持つ共同創業者の勧めだった。2020年1月、株式会社AZOOを設立。不動産・宿泊業界でキャリアを積み、海外のホテルシステムにも精通していた共同創業者とともに、プロダクトを作りあげていった。
日本のホテル・旅館向けに作られた基幹システムは、まだ存在していなかった。今後も日本経済に大きなインパクトを与えていくと考えられるインバウンド産業に対し、新しく必要とされる機能を実装する。AZOOの事業は、その礎となるべく発展していく。
AZOO京町屋オフィスの様子
国家や外交というものに関わる仕事をしていると学ぶ概念の一つに、地政学の根本にある「戦略の階層」がある。
「戦略の階層」とは、戦略にはヒエラルキーがあり、その最上位に位置するものはミッションやビジョンであるという考え方だ。国を主語として考える際に使われる概念だが、一方で同様のことが個人の人生にも当てはまるのではないかと横田は考える。
「国が戦争や外交を自分たちに利があるよう進めたいとしたときに、一番上にあるのは国家観とか世界観、この国がどうありたいかという部分になるんですよね。たとえば、中国で言うと『一帯一路戦略』のようなものがあって、巨大な経済圏を実現するためにというところから意思決定がなされていく。それを学んで以来、自分の小さい人生の中でもミッションやビジョンが最初にあるべきで、それを実現するために何をやっていくかという風に考えていくべきだと思っています」
たとえば、海外から廃棄物を回収し、希少なレアメタルを集める仕事があったとして、それが日本の国力を上げるというミッションに基づくという前提があるだけで、仕事の意義は個人を越えて国単位で感じられるようになる。
向き合い方が変われば、結果が変わる。だから、何のためにそれをやるか、自分にとって大切な価値観は何なのか。そんな自問自答を繰り返していくことが、生き方を考えたり選択する上で糧になると信じてきた。
「私の好きな本に『夜と霧』という本があるのですが、英語版のタイトルは『人は生きる意味を探している』というものなんです。本のタイトルの通り、人間って生きる目的や意味をずっと探しつづけているし、それを必要としているんだと思うんですよね」
もしミッションが分からなければ、自分なりの幸福の形を見出すことからでもいいのかもしれない。
仕事においてもそうだ。小さくても任された仕事に対し、自分なりに楽しく充足感を感じながら取り組める部分はないか。どんな部分に意義を感じ、何に心動かされ、追い求めたいと思うのか。日々を見つめ直してみることで、既に習慣としてそこにある価値観の重さを再発見できる可能性がある。
生きる意味を教えてくれる人はいない。答えはきっと、自分の視野を通じて見つけるものなのだろう。
2024.10.24
文・引田有佳/Focus On編集部
人が打ちひしがれるのは、避けがたい状況に対して選択肢が少ないと感じているときなのかもしれない。八方ふさがりという言葉があるように、人は新たな選択肢さえ発見することができれば活路や希望を見出せる。
自分を変えたいという思春期の葛藤に対し、苦手を克服することを横田氏は選んだ。なんでもいいから自分を変えたいが、どうすればいいか分からない。そんなとき、小さくても自分が苦手なものを1つだけ克服してみる。避けてきた道だけに、きっとそこを通れば発見は多いだろう。
苦手を克服することは自信にもつながる。むしろ、その自信が心の持ちようを変え、世界の見え方を変えるのではないだろうか。
AZOOが軸足を置く日本の宿泊・観光産業も、長い年月をかけ積み上げてきた歴史や伝統を有する一方で、データドリブンな経営や地域づくりなどまだまだ新たな選択肢や可能性を残している。取り得る選択肢の多さによって、AZOOは希望を示していく存在となる。
文・Focus On編集部
株式会社AZOO 横田裕子
代表取締役
1985年生まれ。兵庫県出身。京都大学工学部卒業後、株式会社毎日放送へ入社。のち、インドネシア政府のダルマシスワ奨学生に選定され、現地の大学に留学。帰国後は環境省やJETRO、JICAで日本の中小企業の海外展開支援、海外需要の取り込みと地域経済活性化などに従事。イラン、クウェート、マレーシア、フィリピン、インドネシア、タイ、インド、オーストラリア政府および国連環境計画(年次総会)との渉外経験やWebマーケティング・コンサルティングなどの経験を積む。2020年1月、株式会社AZOOを設立。2021年、第9回京都女性起業家賞(アントレプレナー賞)京都府知事賞最優秀賞を受賞。