Focus On
染谷剛史
株式会社HataLuck and Person  
代表取締役CEO
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orつながる誰かの存在が、いつの時代も人生を彩り豊かにしてくれる。
「つながりを科学する」をミッションに掲げ、web3時代の新しいコミュニティの在り方を社会に提示していく株式会社ナナメウエ。同社が運営する好きでつながるバーチャルワールド「Yay!(イェイ)」は、サービス開始から3年で登録者数650万人、累計コミュニティ数7万5千*を突破(*2023年1月時点)。サステナブルなトークンエコノミーの実現に向け、2022年には国内最大級の暗号資産取引所である bitFlyer社と、国内初のIEO実現を見据えた契約提携を発表した。
代表取締役である石濵嵩博は、大学在学中に米国サンフランシスコへ留学し、Concept Art House社にてBizDevとして従事。帰国後、2013年に株式会社ナナメウエを共同創業した。同氏が語る「つながりの価値」とは。
目次
誰かの何気ない一言が、誰かの人生をすっかり変えてしまう道しるべになることがある。気の合う仲間と過ごした日々が、一生心に残るかけがえのない記憶になることも、たわいもない遊びややり取りから、社会を動かすイノベーションのきっかけが生まれることだってある。属するコミュニティが違うだけで、その人にとって全く異なる価値観形成や未来が待っている。
人とのつながりは、いつの時代も人生を導くほどの力を持っている。その価値の普遍性を、石濱は信じている。
「僕たちは人間にとって1番重要なものは周りの環境やコミュニティだと思っていて。そこに対してできることは何だろうかと考えたとき、つながりというものをきちんと噛み砕いて科学することによって、より良いつながりを一つでも多く作ることが、我々の存在意義だと思ったんです」
ナナメウエでは、人と人が出会うそのカタチに着目する。心通じ合うより良い人間関係や、性別・年齢・住む場所などの物理的制約を超えた出会い、ありのままの自分をさらけ出し尊重しあえる居場所と呼べるコミュニティ。それらの価値をあらゆる人に提供可能な新しいSNSの在り方を、web3により実現しようとしている。
そもそもweb3とは何なのか。私たちの生活に、そして社会にどんな意味をもたらす存在なのか。石濱は「インターネット」という技術と比較し、その本質について語る。
「僕たちはインターネットって過去数十年間で人類にとって最も偉大なイノベーションだと思っているんですよ。だって世の中がすごく便利になったじゃないですか。でも、インターネットってすごく価値があるにもかかわらず、それ自体に価格はつけられないですよね。一方でweb3、なかでも『イーサリアム』というシステムは、誰もがエコシステム付きのアプリをグローバルに公開できるようになる仕組みなんですが、誰もが使えてほぼインターネットに近い存在でありながらトークン*という形で値段をつけられるという特徴があるんです。つまり、今までものすごく価値があるだろうと思われていたけれど価格がつけられなかったものに対して価格をつけられるようになる。これがブロックチェーンやトークンという仕組みがもたらす意味であり、大革命なんですよ(*暗号資産や仮想通貨を指す)」
価格づけは人々や企業を駆り立てるインセンティブとして機能する。それこそが、ブロックチェーンやweb3が秘めている可能性にほかならない。
たとえば、似たようなムーブメントとして「CO2排出権取引」の仕組みが挙げられる。地球温暖化や環境保護の観点から、世界的にCO2削減の必要性が叫ばれて久しい。単なる社会的意義や共感以上の関心が集まったのは、そこに価格がつけられビジネスになるという認知が広がったからでもある。
「結局僕たちのように人生ってつながりが全てだよねと思う人は、おそらく世の中に五万といるんですよ。でも、それをビジネスにするとなると難しい。なぜかというと、それってお金儲かるの?どれだけの技術投資が必要なの?という話になると『食べていけない』という結論になってしまうから」
誰もが価値があると信じていても、ビジネスにはなりづらかった対象にフォーカスし、ビジネスとして成り立たせる。ナナメウエの場合、それは「人とのつながり」にほかならない。
ナナメウエが運営するweb3時代のSNS「Yay!(イェイ)」では、好きなことについて気軽に投稿したり、趣味趣向が合う人とつながり通話やチャットができる。今後の構想として重要になるのは、コミュニティ上にトークンエコノミーを形成する点にある。
誰もが素を出せる心の拠り所であり、なおかつ多様で寛容な自律的コミュニティ。中央集権的にルールが決められ運営されるのではなく、ユーザー自身がコミュニティごとのルールを定め、治安が維持され成長していく。そのインセンティブとしてトークンがある。そんなバーチャルワールドの姿を「メタバース」と呼ぶと石濱は語る。
「メタバースって通常はアバターとかVRとか、そういったものを思い浮かべると思うのですが、僕たちはコミュニティを作るための手段だと思っているんですよ。本命はコミュニティそのものであって、VRとかリアルな3Dグラフィックスなどは手段に過ぎないと思っていて。さらに、僕たちはそこにプラスして重要な要素は『経済圏』だと思っているんです」
たとえば、好きなコミュニティがあり一日のうち多くの時間をそこで過ごすユーザーがいるとする。とはいえ生きていくうえでは、お金を稼ぐため働きに行く必要があった。対して今後トークンエコノミーが実装される「Yay!」では、他者への思いやりや優しさといったコミュニティへの貢献に対しトークンが付与される、すなわちお金を稼ぐことができるということだ。
自分の生活そのものがバーチャルなコミュニティで成立し、ユーザーにとってもう一つの世界になる。そこにメタバースの真意がある。
「毎日ユーザーが滞在するコミュニティこそが本質だと思っていて、その本質と経済圏を掛け合わせてメタバースを作っていくことが、僕たちが今描いている構想です」
「Yay!」コンセプトムービー
好きでつながるバーチャルワールド「Yay!」は、「すべての人に居場所を」というコンセプトを掲げる。そこに込められているのは、既存のSNSにおいては失われつつある自由や他者への寛容さを取り戻したいという思いだ。
「今のSNSって『インフルエンサー・オリエンテッド』と僕たちは呼んでいるのですが、声が大きい人の投稿を見るだけの場所になっている。YouTubeもTikTokもそう、FacebookやTwitterですらそうなっているという風に思っていて」
タイムラインに流れてくる情報を、ただ惰性で眺めるだけ。そんな風にSNSが「メディア化」している人も多いのではないだろうか。インプレッションを稼ぐ少数のインフルエンサーと、それを見るだけの多数の人々、今後ますますその隔たりは顕著になっていくだろうと石濱は考える。
「もともとSNSの投稿ってポエムだったじゃないですか。Twitterも『暇なう』とか気兼ねなくつぶやいていたけれど、今は他人の目が気になってしまって難しい。でも、本来それが楽しかったはずなんですよね。ここからピークが過ぎたタイミングで、一気に揺り戻しが来ると思っていて。高品質なコンテンツを、美人な人とかかっこいい人が牽引して発信していくSNSから、昔のように雑多なコンテンツをみんなが投稿して楽しむようなポジションのサービスがまた来るだろうと思い、作ったものが今の『Yay!』なんです」
誰しも守るべき日常や社会的地位があると同時に、「コンテンツはハイクオリティでなければならない」という思い込みのようなものにも縛られる。本来個人が自由に発信できる場であったはずのSNSは、いつの間にか人目や反応を気にせざるを得ない息苦しいものへと変わってしまった。
自分らしさを表現し、人とのつながりを育むSNSというサービス。その本来的な価値を今web3なら実現できる。
「人とのつながりをきちんと僕たちは価値にしていきたい。そのためにまずは『Yay!』のユーザーがトークン自体を使えるようにしなければいけないので、その準備を進めていきます」
2022年8月、ナナメウエは国内最大級の暗号資産取引所を運営する株式会社bitFlyerとIEO*実施に向けた契約を締結。2023年中のIEOに向け、安全なサービス設計や整備をはじめとする多方面の準備が進められている(*IEO(Initial Exchange Offering)は、企業やプロジェクト等がトークンを活用した資金調達を行う仕組みであるICO(Initial Coin Offering)の中でも、暗号資産取引所が主体となってプロジェクト審査およびトークンの販売を行う仕組みのこと)。
web3が社会実装される未来に先駆けて、ナナメウエはつながりの経済圏を創りあげ、人の優しさがつながり連鎖する世界を生み出していく。
外国人従業員の方が日本人より多く、多様性を重んじるナナメウエ
名古屋から車を30分ほど走らせて、南へ下った郊外に生まれた町はある。愛知県東海市、今でこそコンビニやカフェすら立ち並ぶ住宅街も、ほんの2、30年前には田んぼや川など田園風景が広がっていた。自然豊かな環境のなか、友だちと遊びまわる普通の少年だったと石濱は幼少期を振り返る。
「やんちゃだったと思います。勉強はできたと思うんですよ、小学校の頃だけですが(笑)。あまり覚えていないのですが、その時は公文をやっていたので学校の勉強が簡単になっていたのかな。でも、真面目に勉強した記憶はあまりない。やんちゃでわいわい騒ぐ系で、兄弟の中でもしっかりというよりいわゆる次男っぽい感じ、自由だったと思います」
4人兄弟の3番目、次男として石濱は生まれた。小さい頃はしばしば身近な兄や姉の背中に影響されて、同じ習い事を始めたりすることが多かったという。
「エレクトーンとか習字とか油絵、水彩画とか柔道とか、やりたいと言ったものはだいたい全部やらせてもらえたんですよ。習い事で週のほとんどが埋まっていて。ただ、両親について印象に残っていることとして、一度始めたことを簡単には辞めさせないスタンスでしたね。それが今何に活きているのかと聞かれると、僕は嫌だったら辞めてしまってもいいんじゃないのと思うタイプなので分からないのですが……」
自らやりたいと言い出したはずの習い事も、たいてい時間が経つと当初の熱量は失われてくる。自分が心から楽しめるものでなければ、長く続ける気持ちというものは湧いてこない。辞めたいときは自らコーチや先生に伝えるよう両親からは言われていたからこそ、余計にその差は浮き彫りになっていたのかもしれない。
興味の赴くままにいろいろな習い事を経験し、心奪われたまま楽しみつづけたものといえば、何と言っても小学2年生から始めた野球だった。
「野球をやること自体がまず楽しかったです。バッティングセンターも楽しいし、ピッチング練習も楽しいし。そんなに強いチームでもなかったので、試合の勝敗というより試合をやることそのものを楽しんでいて。友だち同士でやっていたので、みんなで集まるだけで楽しかったですね」
中学時代、野球部にて
気の合う友だちに囲まれていると、時間はあっという間に過ぎていく。小学校を卒業し、中学は愛知県にある南山大学の附属中学に入学してもなお、変わらず野球部が生活の中心だった。
姉の背中を追いかけた私立受験をはじめとし、当時は自分なりの強い意思がある方ではなかったという。
「当時は結構周りに合わせていたかなと思っていて、意識していたこともあまりないんですよね。人生がどうとかもおそらく全然考えていなくて。野球、友だち、学校をそつなくこなして繰り返して日々を過ごす。ただコミュニティの中で少し上とか上位4分の1くらいのポジションを常にキープしていました」
勝ち負けよりも、コミュニティそのものを楽しんでいたのかもしれない。中学からは野球部の仲間内で流行る遊びの数々に、何より熱量を注いでいくようになる。
「野球のカードゲームが流行ったらみんなでカードゲームをやるし、競馬のメダルゲームが流行ったら競馬のメダルゲームをやるし、テスト期間になったら勉強するし。なぜか誰かが新しいものを持ち込んで、それがコミュニティの中で流行って、みんなでそれをやって1番になろうとする。熱中したものに関しては、1番にはなれなくても少なくとも上位にはなれたんです」
特に当時夢中になったものは、ゲームセンターで遊べる競馬のメダルゲームだった。
「土日はゲーセンがオープンする前から並んで席を取って、何時間も遊んで夕方に帰ったり。誰が1番メダルを増やしたかというバトルをしていて、攻略サイトを読みあさって馬の血統を分析したり、ありとあらゆる作戦を立てたりして。今振り返っても、熱量が圧倒的でしたね(笑)」
誰かがコミュニティに新たな遊びを持ち込むと、友だちの薦めるものだからこそ自然とみんなも興味を持ってやり始める。感情を共有できるからこそ楽しくのめり込んでいき、熱狂の渦の中心に身を置いていたくなる。気づけば白熱した闘いが繰り広げられ、ときに異様なほどの盛り上がりが生まれている。
あとになって振り返れば、それが人の本質なのかもしれないとも思えた。
仲間と競い合ったり、そこで生まれる感情や時間を共有できること。それ自体が何より楽しくかけがえのないものであることは、たしかに心に残りつづけていた。
中高一貫の私立だったので、高校生活は受験もなく変わらない日々の延長線上にあった。将来を考えるようになるきっかけは、多くの学生と同様に大学受験だった。
「高校2年の後半くらいから、そろそろ受験勉強しないといけないという気持ちになって。周りの友だちもきちんと勉強しはじめたので、僕もやるかと。だから、それまでハマっていたものはエンターテイメントに過ぎないとは思っていたのかもしれません」
受験といっても何ら前情報は持っていなかったが、どうやら予備校は河合塾がいいらしいと友だちから聞いたので迷わず河合塾に申し込む。進路選択に関しても、実際あまり迷う余地はなかった。
「結局僕たちの高校とかだと名古屋大学に行くことが正義だったんですよ。もっと言うと、卒業後はトヨタに勤めることが勝ち確の人生のような空気感がまずベースに存在していて。じゃあ、それをみんなで目指しましょうと。特に僕は理系だったのでなおさらそうで、当たり前に名古屋大学が1番の目標としてありました」
理想の人生像のようなものは土地柄色濃くある。中にいるときは往々にして気づかないが、あとになって外から見れば自分がいかに盲目だったかと気づかされることがある。それほど属するコミュニティは、人の内面に影響を与えるのだろう。当時がまさにそうだった。
「受験のあとにものすごく手応えがあって。苦手だった英語は全然できなかったんですが、数学とかそれ以外はかなりできた感覚があったので、満点やなとめちゃめちゃ調子に乗っていたんですよね。親に入学式で着るからとタケオキクチでスーツまで買ってもらって。合格発表を見に行くじゃないですか、落ちてるんですよ(笑)」
思わず採点ミスも疑ってしまう。それほど自信があったはずだった。あとから大学に得点の開示請求をしてみると、どうやらわずか10点差で合格ラインに届いていなかった。科目ごとの点数内訳までは分からないが、明らかに英語で落ちたという感覚だった。
ひとまず想定とは違う未来ではあるが、第一志望は諦めて東京の青山学院大学へと進学することにした。
「入学後はたまたまESSという英語でディベートしたりディスカッションするサークルがあって、そこに勧誘されたんです。後付けかもしれないですが、ちょうど英語はやりたかったしなと思い、ESSに入って。そこでも僕はコミュニティの中で上位を目指すという性格があるので、入ったからには上位を目指そうとしてハマっていって。最終的に全国大会で2位になるまでやりました」
大学から上京したことは、想像以上に大きな環境変化となりつつあった。
何しろ東京に来て、気づいた大きな事実が1つある。ここでは名古屋と違い、トヨタに就職することが王道だと考える人は周りに誰もいなかった。むしろ歴史ある製造業などよりも、時代はこれからITだという空気感が漂っている。
ITといえば、中高生の時に遊んだGREEやモバゲーくらいしか分からない。けれど、そこでは人生で初めてネット上のコミュニティというものに触れ、初めて学外で同年代の友だちができたという楽しく印象深い記憶が残っていた。
自分も将来はIT業界に、なかでも特に勢いのありそうな企業というイメージのあるソフトバンクに就職したい。そんな漠然とした憧れを持つようになっていった。
「大学3年で情報系のゼミに入った時に、ナナメウエの共同創業者である瀧嶋篤志と出会ったんですが、彼はものすごくプログラミングができたんですよ。同じゼミだったことで仲良くなって、一緒に勉強させてもらっていくうちに僕もプログラミングにハマっていきました」
もともと持っていたITへの漠然とした憧れと、学校の課題で簡単なオセロゲームを作った時の面白さ、よきプログラミング仲間に恵まれたこと。幸運にも恵まれて、のめり込むまで時間はかからなかった。
「その後は簡単なゲームを作ったりしていましたね。当時プログラミングができる友だちなんていなかったので、それをFacebookとかに書き込むと、みんなが『すごい、すごい』と言ってくれたので嬉しくなって。自分に向いている実感もすごくあったので楽しくて、朝から晩までこれも相当な熱量でやっていました」
プログラミングはパズルのように問題を解いていく感覚が面白く、作ったもので人を喜ばせることだってできる。東京に来なければ、きっと知らないままでいたであろう世界が大きく目の前に広がっている。
時代はITだ、プログラミングだ。その素晴らしさが今なら実感とともに分かる。心の中で燃える炎に従って、来る日も来る日も夢中でパソコンの画面を追っていた。
英語を本格的に磨きたいと思い立ったのは、大学後半だった。大学4年になるタイミングで1年間の休学を選択し、海外留学に行くことにした。
「当時ESSに所属はしていたんですが、日本語英語だったんですよ。映画とかドラマを観ても全然聞き取れなかったんですよね。英語部で全国何位なのに聞き取れないって恥ずかしいじゃないですか。それで留学を決めたんです」
留学先を紹介してもらえるエージェントに相談すると、治安が良く温暖なエリアを選んでくれた。米国の西海岸サンフランシスコにある語学学校だという。薦められるがままサンフランシスコについて調べてみると、どうやらGoogleやApple本社(当時)のあるシリコンバレーにも近いらしいと知る。
プログラミングには変わらず熱量を注いでおり、受託開発で稼げるようにもなっていた。どうせサンフランシスコへ行くのなら現地企業で働いてみたいと、働き口を探した結果、日本とゆかりのある企業が見つかった。
「当時GREEやモバゲーが海外進出に対して積極的に投資していたタイミングで、イラスト作成などをアウトソーシングで受けていた現地のデザイン会社になんとか受け入れていただいて。会社で日本人は僕1人だったので、日本の取引先と話すことが僕の役割で、それを社内のPMの人に渡すBizDev兼PMのようなポジションでした」
午前中は語学学校で英語を学びながら、午後からは会社で働いてビジネスを学ぶ。夜は自分のプログラミングの時間に充てていた。実際に現地企業の中に入ってみると、想像以上に全てが刺激的で貴重な経験だった。
「途中で日本に出張する機会もあって、東京ゲームショーとかに行ってサンフランシスコから来たメンバーを案内したり、お客様とつなげてミーティングして僕が翻訳したりして。ビジネスってこんな風に回るんだ、お金を稼ぐってこういう感じなんだということを学んだように思います」
大学時代、留学先の語学学校の卒業式にて
もともと留学に来る前から日本ではチームで受託開発を請けていた。のちにナナメウエという会社を立ち上げることになるメンバーでもある。
「日本から僕宛てに『これを作ってほしい』という依頼は結構あったんですよ。留学中も彼らは池袋あたりにオフィスを借りていて、僕も帰国したらそこに加わるつもりでやっていました」
とはいえ、新卒で就職するという選択肢についても考えてみたかった。ちょうど留学中ボストンで開催されていた日英バイリンガルのための就職イベント「ボストンキャリアフォーラム」に参加したことがある。当日は各社の人事と面談し、1日で内定が出るというイベントで、ITやコンサル系を中心に5社ほどの内定をもらうことができた。
考えてみれば自然なことで、サンフランシスコで働いていて英語を話すことができ、すでにチームでアプリを作って稼いでいる経験を持つ大学生なんて、新卒の就活市場になかなか存在しないのだ。自身がただ楽しくて夢中でやってきたなか獲得した市場価値を実感しつつ、同時に、所属するコミュニティに左右される人生というものを思った。
「僕は大学生活で人生が変わった感覚がすごくあって。英語で全国何位とか、プログラミングで仕事をもらって会社をやりましょうとか、米国に行くとか、それが自分でもできそうだと思うようなレベル感になるなんて中高では想像もできなかったんですよ。大学で東京に出てきて良かったなと思いますし、属したコミュニティが良かったんだろうなと思っています」
大学の選択は言わずもがな、起業か就職かという選択も分岐点の一つだった。
内定をもらった会社はどこも魅力的な環境があった。しかし、既に起業のアイデアは固まっていた。人とのつながりやコミュニティが、誰かの人生を良い方向に導いていく。そのきっかけをつくることにこそ、価値があると明確に信じている。挑戦してみたいと思える自分がいることも、良きコミュニティとの出会いがあったからだった。
どんなコミュニティに属するかで、人生の景色は色を変えていく。
就職はいつでもできる。たとえ失敗したとしても、良い経験だったと笑えると思えるだろう。だから、起業する方を選ぶことにした。
ナナメウエ取締役であるJesdakorn Samittiauttakornと、サンフランシスコにて
サンフランシスコではビザが切れるギリギリまで働いたあと日本に帰国。2013年の春、2度目の4年生として大学に復学しつつ、早速起業する。
当時は動画が来るという予感があった。毎日使われて人のコミュニケーションを促進するような動画系のサービスを作りたいと考えて、まずは動画のスライドショーを簡単に作れるアプリ「SlideStory(スライドストーリー)」を開発した。
「これが世に出してすぐにApp Storeのグローバルフィーチャーに選ばれて、1週間で世界中40万人ぐらいの人が使ってくれたんですよ。それを見て、以前IVSのイベントでスタッフをした時に会っていた投資家の方から連絡をいただいて、会って話した次の日に3,000万円出資してもらったんです」
出資してもらった資金はありがたく使わせてもらうことにして、サービスの拡大を急ぐことにする。しかし、徐々にアプリとしての限界も見えてきた。
「簡単に言うと、動画のスライドショーは週末しか使われなかったんですよ。ユーザーは土日で何かイベントがあって、それを楽しんだあとに使うだけだったんですよね。毎日使ってもらえるサービスでなければビジネス的に難しいという判断から、今度はそれをSNS化しようという動きにつながっていきました」
気に入ったユーザーをフォローしたり、タイムラインで投稿を追ったりする機能は「SlideStory」には用意されていなかった。ソーシャルなプラットフォームとなる動画SNSアプリ「Lily(リリー)」をリリースしたのは、2014年のことだった。
現在のTikTokやかつてのVineに近いサービスで、動画でカジュアルに日常世界を伝え合おうという文脈のもと開発したものだ。1つ目のサービスを生み出した熱量も冷めやらぬなか、満を持して世に送り出した新サービスだったが、これが全く伸びなかった。
どうしてもデイリーのアクティブユーザーが1,000人ほどしか集まらない。資金もみるみる減っていき、銀行口座の残高が0に近づいていく足音が聞こえてくるようだった。
「僕は起業してからその頃まで、よく経営者の本に出てくるようなつらい体験をしてこなかったんです。仲間内でワイワイやってサービスを作って、それに対して世の中から反応をもらって、ただ楽しいだけで。うまくいかなかった動画サービスも、それをやっていること自体が楽しかったんですよね」
日に日に減っていた会社の資金はついに底を尽き、共同創業者としてともに歩んできた瀧嶋が会社を離れることになる。それに伴い、CEOを引き継ぐことになった。
お金もサービスの未来も見えない。あるのはCEOという肩書きだけ。その瞬間、「ついに来た!」という感慨に包まれていた。
「2015年の5月ぐらいだったんですが、当時銀行口座の残高が数十万円になっていて、とにかくひと月分も支払いができない状態で代表を引き継ぎました。その時に、テンションがものすごく上がったんですよ。本で読んでいたハードシングスっぽいものが、ついに来たと。これこそスタートアップ企業の醍醐味だ!と(笑)」
このまま会社の未来を諦めようとは微塵も思わなかった。なぜかその状況に高揚感すら覚えつつ、とにもかくにも当面の資金がないので投資家に会いに行く。
何を話したのかは全く覚えていない。とにかく初対面の投資家に現状を話しつつ、「なんとかなります」と言い切ったのだろう。そのうち何人かが「面白いからこれで頑張りな」と、300万円ずつ出資してくれることになった。
早速再始動をかけ、サービスと向き合う。改めて振り返ってみれば、SNSとは究極どれも同じだと気がついた。投稿ができて、フォローしたりフォローされたりする。いいねやコメントができ、ブロックや通報などの機能がついている。FacebookもTwitterもInstagramも、因数分解してみればシステムはほとんど同じである。唯一違うものがあるとすれば、それはコンセプトだった。
「たとえば、Twitterのカジュアルな日常だったりとか、TikTokは動画でダンスをしたり、Instagramはインスタ映えで、Facebookは友達同士というように、覇権を取っているSNSにはどれもコンセプトがある。そこから僕たちは思いつく限りのコンセプトでSNSを試行錯誤しながら作っていくことになって、生まれたものが学生専用SNS『ひま部』でした」
その後、「ひま部」は2019年まで数年間提供されたのちサービス終了。代わりにナナメウエの主軸サービスとしてリリースされたものが、「すべての人に居場所を」をコンセプトとするバーチャルワールドコミュニティ「Yay!(イェイ)」だった。
「コンセプトの移行はビジネス的な要因が大きくて、『ひま部』は学生限定というブランディングをし過ぎてしまったんですよ。Facebookの場合、もともと大学生専用SNSだったものが途中から全年代に向けてブランドを毀損せずうまく移行していましたが、僕たちはそこができなかった。もともと学生に特化したい理由もなかったので、新たに『Yay!』を立ち上げました」
ナナメウエが世に出そうとするサービスに通底する思いは、創業時から一貫している。人とのつながりの価値である。
「結局今になって振り返ってみても、僕の人生を決めたものは全部周りの環境なんです。僕自身で決めていることってあまりなくて、そのコミュニティにたまたま属して、そのコミュニティの中で上位を目指すという行動をずっと続けていたら今の自分になっていた。たまたま良いコミュニティにいられたことが人生を形作ったと思っているんです」
しばしば引用される経営コンサルタント・大前研一氏の言葉でも、人間を変える方法は3つしかないと語られる。時間配分を変えること、住む場所を変えること、付き合う人を変えること。3つ目の方法の通り、周囲の環境やコミュニティは人生を変える力を持っている。
「結局、僕自身『人生は周りのコミュニティが全てでした、以上』という人生だったので。僕たちが『つながりを科学する』というミッションを掲げるようになったのは、それが全てだという認識を創業当初からずっと持っていたからでした」
良いつながりや、良い人生という絶対的なフォーマットはない。多様な価値観があり、多様なコミュニティがある現在は、それぞれに違った良さがあるはずだ。
少なくとも過去の自分を振り返り、現在と比較してより良くなっていると思えること。より多くの趣味趣向を持つ人が、それぞれに合うコミュニティを見つけられる場所。年代を問わず、自分が素でいられるコミュニティ「Yay!」が社会に存在する限り、新しい「つながり」の形が今日も多くの人の心を救うのだろう。
web2.0からweb3へ。時代は変化の波に乗り、企業もまた新たな局面へと向かおうとする。昨今、新進気鋭のスタートアップ企業だけでなく、大企業もweb3やメタバース系のサービスへ参入する例は少しずつ増えている。
しかし、表面上のトレンドを追うだけでは本質は掴めない。実際にweb3領域でサービスを開発・展開していくうえで、押さえておくべき視点はあるのだろうか。
「全く違う点として挙げられることは、まずweb3はみんなのものなんですよ」
これまでビジネスにおいて知的財産権は独占するものだった。それを守るからこそお金が生み出されるという常識は、web3においては通用しなくなる。むしろ全く正反対の価値観に依拠する世界が拓かれつつあるという。
「web2.0はどちらかと言うと参入障壁を上げていって、自分たちにしかできないよう技術優位性を作っていく。商標やライセンスのようなもので儲けていくビジネスモデルが基本なんですが、web3ではみんなでこれ使おうよとか、みんなで作った方が全体としてのパイが大きくなる。全体としてのパイが大きくなったら、僕たちの経済圏が大きくなる。僕たちの経済圏が大きくなったら、僕たちのトークンが値上がりしてみんなハッピーだよねという考え方なんです」
経済圏にかかわるみんなにとって有益になるようサービスの方針を考える。ナナメウエが運営するコミュニティでももちろんそうだ。
コミュニティはユーザーのために存在するべきであり、各ユーザーの自律分散的な努力によりコミュニティはより良い空間になっていく。だからこそ、トークンも値上がりし、多くの人が集まるサステナブルなサービスになるという。
「根幹にはそういった雰囲気の違いがあるものの、1番の違いは繰り返しになりますが、資本主義の中では評価されなかったものが価値になることなんですよね。ものすごく偉大な発明だけど価値がない、(その筆頭がインターネットそのものですが)そういった重要なものがブロックチェーンの力を借りて本当の意味で価値を持つようになる」
情報のインターネットから、いわゆる価値のインターネットの時代が到来する。そこではナナメウエが「つながり」を価値にしていこうとするように、これまでの常識では考えられなかったものに価値がつけられていく可能性が秘められている。
「それって何だろうと考えてもらうと、おそらくみなさん気づいているとは思うのですが、すぐには思い浮かばないと思います。でも、新しくweb3に参入しようとする人のなかでピンと来るものがあるのなら、それはweb3の世界では大きな価値になるかもしれない。本当に価値だと思ってくれるような人を集めることができれば経済圏になるし、その経済圏が多くの人を巻き込めばムーブメントを作ることができる。その可能性がありそうなものを見つけていくといいと思います」
2023年現在、web3はいまだ爆発的な普及を果たすまでには至っていない。それどころか業界大手企業の突然の破綻など、ネガティブなイメージが伴うこともある。けれど、案ずることはなく、web3もかつてのインターネットと同じ軌跡をたどっているに過ぎないと石濱は考える。
「まさにITバブルの頓挫と似ていて。2001年くらいのニュース記事を見ると、『ソフトバンクの株価が100分の1になった』とか『インターネットは終わった』とか、ものすごく書かれているんですよ。当時はこんな雰囲気だったんだと思うと、まさにブロックチェーンも似たような状況で。この風潮は明確に変わる。web3は明らかなイノベーションなので、これからです。もう少し落ち着いた頃に、とんでもないことが起こると確信しています」
日本でインターネットの活用が加速しはじめたのが2000年前後。LINEの登場が2011年で、2012~3年頃にはTwitterやFacebookといったSNSを多くの人が使いこなすようになっていた。その間、約12年。それだけの歳月をかけ、インターネットは一般化していった。
web3はその道を4倍速で進んでいく、それだけの強いインパクトがあると石濱は語る。各々が信じる、人生において重要なもの。それらが本質的な価値を持つようになる社会。
同じ船に一緒に乗ろうとする人に、その世界は既に開かれている。
2023.5.16
文・引田有佳/Focus On編集部
良きコミュニティに属したことで、思ってもみなかった「今」があると石濱氏は語る。
ときに誘われるがまま未開の領域へと踏み出すことになったり、大切にする価値の優先順位が変わったりと、人とのつながりは人生を導いていくほどの力を持つ。
時代とともに人と人がつながる手段は変化しているが、コミュニティという存在自体は変わらず常にある。それはつまり、喜びも悲しみも感動も熱狂も、人生で生じるさまざまな感情を誰かと分かち合うことを、私たちが本能的に求めていることの証左かもしれない。
リアルで相対する出会いからインターネット、そして今やweb3やメタバースへと可能性は開かれている。ナナメウエが描く「Yay!」は、web3時代のSNSとして社会に先駆けて場をつくる。誰よりつながりの価値を信じる石濱氏だからこそ、作ることのできる居場所がきっとある。
文・Focus On編集部
株式会社ナナメウエ 石濵嵩博
代表取締役
1990年生まれ。愛知県出身。青山学院大学社会情報学部在学中にサンフランシスコへ留学し、米Concept Art House社にてBizDev(事業開発)を担当。帰国後の2013年5月、株式会社ナナメウエを創業しSNS領域に従事する。2016年2月にはタイにてDataWow社を設立し、大量のコミュニケーションデータを基盤に企業のAI活用を支援。2020年1月、「すべての人に居場所を」というコンセプトに、誰もが素を出せるバーチャルワールド「Yay!(イェイ)」をリリース。トークンエコノミーの形成によりweb3時代の新しい居場所を生み出し、日本のソーシャルの民主化を牽引する。