Focus On
野呂寛之
X Mile株式会社  
代表取締役CEO
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or失敗しても後悔しても、他人任せではない自分なりの意思決定が1番楽しい。
「すべての人がポジティブに意思決定し、自分を楽しめる世界」を実現すべく、パーソナルスタイリングサービス「DROBE」を展開している株式会社DROBE。会員数15万人以上(*2023年6月現在)を誇る同サービスは、プロのスタイリストと独自の「スタイリングAI」が協働することで、既存のファッション小売・D2C・ECを変革する新たな市場を築きつつある。
代表取締役の山敷守は、東京大学在学中に学生向けSNS事業の立ち上げに参画し、新卒でディー・エヌ・エー(DeNA)に入社。複数のプロジェクト責任者として新規事業開発などに従事する。2016年からはBCG Digital Ventures日本拠点に立ち上げから参画したのち、2019年、三越伊勢丹ホールディングスとの共同事業として株式会社DROBEを設立した。同氏が語る「自分にとって誇れる仕事」とは。
目次
気軽に楽しむにしては選択肢が膨大で、ときに失敗もある。同じ年齢、同じ性別だとしても体型や好みは千差万別なうえ、トレンドもめまぐるしく変わりゆく。それがいわゆる「ファッション」であり、ただ機能を果たすだけの「衣料品」とは区別されることもある。
一言で形容するならば、「難しい」「分からない」といったイメージが先行することに、「ファッション」あるいは「ファッションと衣料品の中間」を扱う業界の課題があると山敷は語る。
「自分に似合う服を探したいと思っても、適切な手段がない。それってつまり業界自体がデザインされていないということだと思っていて、お客さまと洋服の出会い方をより良いものにしていこうという思いで、DROBEのミッションは掲げられています」
DROBEが行った市場調査によると、約7割の女性が「ファッションは好きであるが、自信はない」と回答した。
これまで一貫し、ユーザーのニーズをとらえサービスをつくってきた山敷は、これだけ多くの人が悩みを抱えているにもかかわらず、それが放置されてきたことに違和感を抱いたという。
「僕自身もファッションは難しいなと思っていたし、分からないという気持ちも共感するなかで、じゃあなんで今業界としてそうなっているのかというと、やっぱり接点としての店舗やECに必要な機能、装置、構造が足りていない。正確に言うと、足りなくなってきていると思っているんです」
ファッションという領域には、どうしても情報の非対称性が存在する。ふと何気なく立ち寄った店舗で、店員に自分の要望を完璧に伝えることは難しく、店舗側としても顧客情報がないためクオリティが高い接客を実現することは難しい。一方のECも、単純に「衣料品」を購入する場合はさておいて、ファッションアイテムの購入体験としては、自らが自分に合ったアイテムを探しにいく必要があり、使いこなすことが難しい。
約30年前の日本であれば、ファッションの市場規模は15兆円ほどあった。それが7、8兆円にまで半減した現在は、DCブランドなどかつての高級ファッションブームも落ち着いている。当時、洋服といえば百貨店で買うものという常識があり、消費者を取り巻く環境として充足されていた部分がある。だが、今ではそれがない。
ほかにも人口動態の変化やデジタル化など、変化はあちこちで起きている。だからこそ、現代社会に則した人と洋服の接点を、誰かがデザインし直す必要があると山敷は考えてきた。
「どうデザインし直すか。一言で言うと、店舗とECのいいとこどりさえすればなんとかなると思っています」
オンラインで完結するパーソナルスタイリングサービス「DROBE(ドローブ)」では、ファッション誌や芸能人のスタイリング、店頭販売などを手掛けるプロのスタイリストと独自の「スタイリングAI」が、お客さまの嗜好や体型、予算に応じた商品(洋服、靴、ファッション雑貨)を協働でスタイリングし、セレクトした商品を定期的に届けてくれる。到着後は試着して、最終的に自分が気に入った商品のみを購入できるという仕組みだ。
理想的な店舗体験にある「顔なじみの店員さん」からの提案(もちろんこちらのクローゼット事情もトレンドも熟知してくれている)、そしてECにある店頭在庫に縛られない豊富な品揃えと配送の利便性。それらがストレスフリーかつシームレスな形で融合されている。
「『パーソナル(1to1)』と『セレンディピティ(偶然の発見)』、最後に『シームレス(ストレスフリー)』というこれら3要素が成り立つ洋服の買い方、接点というものをDROBEでは提供しています」
店舗やECに次ぐ第3の選択肢「パーソナルコマース」を、DROBEは市場として確立していく。その未来には、どんな社会を描くのか。
「まずはファッションにおける当たり前の選択肢を自分たちの手でつくっていくということ。そのうえで、たとえば今だと『白いTシャツ』と検索すれば商品がヒットするけれど、『私に似合う春服』と検索しても出てこないように、そういったものを届けられるようになっていきたいと思います。さらに言うと、我々のアプローチで変えていけるものってファッションにとどまらないので、インテリアや美術品など嗜好品的な領域にも徐々に広げていけるといいなと思っています」
そもそもファッションとは、極端に言えばなくても困らないものだ。必要最低限で生きていくならば、毎日同じ服を着てもいいし、周りと同じ流行りの服だけ着てもいい。
しかし、自分の意思で選びまとうことで、たしかに人の生活を豊かにしてくれる。ファッションだけでなく同様の力を持つものを、あらゆる人の生活へ高次に行き渡らせる。DROBEでは、そんな社会の実現を支えていく。
ホームビデオとして残る映像の中では、手狭な部屋を3人の男の子が駆けまわる。若くして結婚し、双子の兄弟と1歳下の弟を必死に育てていた両親。今でこそ日系大手の役員として働く父も、当時は新卒で就職したばかりの若者に過ぎなかった。少年時代の山敷もまた、今とは違う一面があったと振り返る。
「小学生くらいの頃はまず思い出すことで言うと、太っていましたね。なぜでしょう(笑)。分からないんですが、結構運動もできなくて、よく食べる子だったみたいですね。双子の兄がいるのですごく比較されがちだったのですが、兄は結構痩せていた気がするんですね。今思うと、どちらかと言うと芋くさい子だったように思います」
将来のことを考えるでもなく、勉強に悩むでもなく、ただ毎日楽しく友だちと遊んでいた当時、色濃い記憶があるとするならば両親からのしつけが挙がる。
食べ物を残してはいけない。日曜日には教会の礼拝に行かなくてはいけない。出会いも教会だったという両親は、2人とも敬虔なクリスチャンだった。幼少期はその規律や精神性について、特に厳しく教えられていた。
「あまり『勉強しなさい』とかは言われたことがないのですが、やっぱり神様みたいなことに関してはすごく言われることがあって。たとえば、『右の頬を殴られたら左の頬を差し出しなさい』みたいな聖書の話をされたり、けんかするとき暴力は絶対だめだと怒られたり。聖書を前提に、厳しいモラルのなかでしつけをされていたのかなと思います」
倫理観や公序良俗の意識を養うという意味ではよかったのだろう。子どもの頃は与えらえる世界が全てであり、神様の存在なども疑う余地なく信じていた。
小学校高学年になると、教育熱心だった母の意向で近所にあった個人経営の塾に通いはじめる。夜遅くまで教室に残らされたり、大量の宿題が出たりとスパルタな環境だということは入ってから知ることになる。
「本当にすごい量の宿題を出されるので1人だったら終わらないなと思って、双子の兄と半分ずつやって、残り半分はわざと少しだけ間違えたりしながら写し合うとか宿題を分担したりしていましたね。当時兄とはすごく仲が悪くてずっとけんかしていたんですが、お互い目的志向だったから(笑)」
小学校時代、双子の兄と(写真左が兄、右が山敷)
もともと勉強そのものは嫌いではなかったが、学校や宿題など義務として課されるものが苦手で成績は悪かった。
けれど、塾で鍛えられたことにより成績はたしかに良くなった。テストでより高い点数を取っていく楽しさや、より良いクラスに入れたりする達成感も知り、そのために自ら努力するという好循環も生まれてきた。
「おそらく最初は親に言われたからやっていたんですが、だんだん点数を上げることとかが楽しくなって、そのためにやるような感じになっていって。逆に自分の楽しさと直結しないものや、自分の中でやる理由が見えないものに関しては、どうしてもプライオリティが下がってしまっていたのかなという気がします」
先生が言うからやらなければいけないものや、聖書に書いてあるからという理由で従わなければいけないもの。次第にそういった制限の数々には窮屈さを感じるようになりつつあった。自分なりの意思を持つようになったのは、中学生以降のことだった。
「中学校くらいまでずっと、クラス替えがあったりするたびに兄と僕の友だちが入れ替わったりしていたんですよ。だから、時々によって周りの友だちが好きなものを好きになって。今とは全然違うのですが、おそらく幼稚園から小学校3年生ぐらいまでは結構フォロワーというか、友だちがやっていることに対して乗っかっていくことが多かったんじゃないかなという記憶があって。自分が率先してリーダーシップを取って『どこかに行こう』とか『これやろう』とか言うことは少なかったように思います」
あるとき仲の良かった友だちが、あるときからは兄とよく遊ぶようになり、反対に兄がよく遊んでいた友だちと今度は自分が仲良くなったりする。気づけば特定の友だちに縛られず付き合うことが自然な状態になっていた。
サッカーをしたりバスケをしたり、友だちが変わるたびに合わせて遊びも変わる。幼稚園も小学校もずっとそうで、昔は環境に従うだけだった。
しかし、塾での勉強など自ら望んでやる楽しさを覚えてからだろうか。少しずつ自分の意思が芽生え出し、中学生になる頃にはどちらかと言うと周りに流されず、特定の誰かや好きなものにも大きく依存しない自我が生まれていた。
「たとえば、友達の中で何かテレビ番組の話が流行っていたとして、じゃあそれを自分も見なきゃという感じにはならなくて。一方で、空気を壊してもなと思うので、積極的に否定したいわけではないし、わざわざ自分が見ない理由を公言するほどでもない。ただ自分は自分でマイペースに過ごしたいという思いがあって、それはもうずっと変わらないですね」
やるかやらないかの選択や判断は、誰かに委ねるものじゃない。裏を返せば、人に押し付けたり押し付けられるものでもない。
自ら考え、自らの意思に従い行動する。誰しもそれこそが自然であり、あるべき状態なのではないかといつからか信じてきた。
塾は中学まで続けていたが、受験など特段目指すものがあったわけではない。住んでいたエリアとしても、周りにそんな風に塾通いをしている人は少数だった。
「小学校も中学校も別に嫌な思い出があるわけではないんですが、尊敬できる先生に出会えたとかもないし、おそらくあまり学力が高い学校でもなかったし。今だと高校進学率もほぼ100%だと思うんですが、当時はやっぱり100%ではない学校だったし。その辺でずっと物足りなさを感じていたと思います。でも、席には座っていなきゃいけないというところで、学校はあまり好きではなかったんですよね」
環境に縛られるような感覚にもやもやとした思いを抱えつつ、ちょうどその頃、成長期でぐんと背が伸びていた。自然と体型は細くなり、足も速くなる。小学校では運動会のかけっこでいつもビリだったのに、クラス対抗リレーの代表に選ばれるほどだった。
友だちに誘われ入ったサッカー部でも、1年生から試合に抜擢されるようになる。しかし、試合に出られることはいいことばかりでもなかった。
「本当に試合が嫌いだったんです(笑)。今とは全然違うんですが、失敗するのが嫌で緊張して仕方なくて。今思うとなんでそんなに嫌だったのかな、ボールが来るのも嫌でした」
ディフェンダーというポジションだったことも一因なのかもしれない。守備でのミスは、相手からしてみれば得点に向けた千載一遇のチャンスだ。自分の一挙手一投足が勝敗を左右すると思うと、ボールを回すだけでも憂鬱になってくる。
もちろんチームで練習を頑張ってきたからには試合の場にはいたかった。けれど、自分が出場するとなると話は別だ。悪い意味で目立ちたくはない。よくないとは思いつつ、当時は仮病を使って試合を欠場したり、ささやかな抵抗を試みたりもした。
「たぶんあまり目立ちたくはなかったですね。クラスの中でもそうだし、別にコンプレックスがあったとかでもないんですが。今もそうかな、どちらかと言うと目立ちたくない人ですね」
中学時代、家族と
部活と勉強に明け暮れるうち、気づけば高校受験について考える時期にさしかかっていた。
兄は私立の附属校へ進学したいという明確な意思を持っていた一方で、自分には特に希望はなかった。親からは金銭的に2人とも私立は厳しいため公立にしてほしいと言われたので、地元のエリア内で最もレベルが高そうだった都立国立高校へと進学することにした。
「今もそうなんですが、中学校くらいから目的志向が強くなっていて。学校の勉強にしても、内申点というものが高校受験で必要だから、嫌でも頑張るしかないという形でやってきて。逆に高校に入ってからは『大学受験には内申点は必要ない』という情報を見つけてしまうと、もう授業は全然出ないという極端な人でしたね」
受験で使わないとなれば必死に勉強するのも馬鹿らしくなってきて、授業もサボりがちになる。必要な単位や要件だけ調べて、ぎりぎり進級はできるようにしておきながら、代わりに社会科学研究部という休眠状態の部活があったので、そこに友だちと一緒に入り、みんなでフットサルをしたりゲームをしたりしていた。
ときには怒られつつも、都立らしく校則に縛られないおおらかな雰囲気のなか、自由を謳歌するかのような過ごし方は加速していった。
「本当は世界史とか物理とかいろいろやっておけばよかったなと、今になって思うことは多々あって。大学でできた友だちもみんな頭のいい人だから話が面白くて物理に興味を持ったり。それこそ仕事でも機械学習について学んで『行列』という概念が出てきたりすると、きちんと高校の数学をやっておけばよかったと思ったりしたので、当時はやっぱり視野が狭かったですよね。でも、結果的には楽しく過ごしていました」
毎日何をして過ごしていたのか、今となっては記憶もあいまいだが、たわいもないことをして遊んで笑っていたことだけが心に残っている。いずれにせよ高校1、2年生の頃は全く勉強をしなかった。
しかし、進路を意識する時期が近づくにつれ、次第に現状と将来の自分のイメージに思いを巡らせるようになりつつあった。
「先ほどもお伝えした通りあまり家が裕福な状態ではなかったので、自分の中で『こんな状態でずっといるのも嫌だな』というようなことを思いはじめて。だったらきちんと勉強して、当時の浅はかな考えで言うと、いい大学に入っていい会社に入ることがお金持ちになる近道だろうくらいに思ったので、高3からはしっかり勉強しはじめました」
中学以来、久しぶりに自分の意思で勉強と向き合うようになった。いざ始めると、2年間のブランクの大きさを目の当たりにして激しい後悔に襲われたが、自分で選んでしたことだから仕方ない。やるならやろうとスイッチを入れ、とりあえず1学期のあいだ真面目に勉強し、全国模試を受けてみる。すると、意外にも国数英の成績は悪くない。明らかにスパルタ塾で培われた基礎があるからだと思える結果だった。
改めて感謝しつつ、おかげでもしかしたら東京大学も目指せなくもない地点にいると分かってきた。周囲は高校から徒歩圏内にある一橋大学を志望する人が多かったが、きちんと知識を暗記しなければ解けない一橋の問題よりも、主に思考力を問う東大の方がまだチャンスがありそうだった。
特別行きたい学部はなかったが、しいて言うなら経済系には興味がありそうだと消去法で決めていき、東京大学を第一志望にすることにした。
あいまいな未来でも、それを自分の手で選択しようとする。大学受験はその一歩目だったのかもしれない。
高校時代
1年間かけて必死に勉強と向き合った結果、なんとか合格を手にした。
一説によると、東大の受験生全体のうち半数近くが合格最低点の前後10点にひしめいてるという。誇張抜きで本当にギリギリだったのだろう。実際あとから得点開示を見てみると、合格最低点を5点ほど上回っているだけだった。
「大学に入ってみて改めて思ったことは、自分より勉強ができる人は全然いるなということですね。やっぱり自分が得意なものが得意ではなくなる感覚は大学に入ってからあったような気がしますし、それでいてサッカーとかスポーツを取ってみても自分よりできる人はいて。『自分は何ができる人なんだろう』というような思いはあったんじゃないかな」
アイデンティティと呼べるほどでもなかったが、自分が得意と言えたものが早々になくなっていく。ちょうどその頃抱いていた将来への思いも、少しずつ形を変えつつあった。
「何かで将来の夢を書く時に、『田中正造*になりたい』と書いたことがあって。田中正造は明治時代の議員ですが教育家だったらしく、当時の僕は教師になりたいと思っていたんですよね。なぜかというとおそらく学校嫌いだったから、もっといい学校とかいい先生になりたいというようなことを考えていて。ただ大学に入ってみると、教師だと影響を与えられる人があまり多くなさそうだという感覚を持つようになって(*明治時代の国会議員。日本初の公害事件と言われる足尾鉱毒事件解決に力を尽くし、明治天皇に直訴しようとしたことで知られる)」
より多くの人に影響を与えていける仕事はないか。自分に何ができるのか。疑問は尽きず悩んでいたある日、偶然テレビで当時ライブドアの代表だった堀江貴文氏を見た。
「2005年くらいだったんですが、堀江さんが東大中退の起業家としてすごく話題になっていた時期で。堀江さんのかばん持ちをしている若者に密着する特集番組があって、その人が東大生で、東大起業サークルを立ち上げた人だったんです」
どうやら起業という世界があり、学生のうちからその世界に触れられるサークルがあると知る。しかもビジネスはお金儲けのためだけでなく、社会の「不」と向き合い、日本のみならずグローバルにも影響を与え得るという。そんな可能性に興味を惹かれ、東大起業サークルの門戸を叩いていた。
「起業サークルは僕が入った時は3期目だったんですが、1期目はそれこそ学生で起業している人が全然いなかったので、ただ情報交換するぐらいのあまりサークル感のない集まりだったんです。でも、3期に今DROBEの人事でもある阿久澤さんが代表になってから、きちんとした勉強会やプロジェクトが運営されていって。所属するのは1、2年生で、3年以降は外で自分で起業しようという団体でした」
大学時代、遊びに行くときもスーツを着ていた
サークル活動に参加しながらも、大学1年の秋以降は並行してIT企業でインターンを始める。割のいいアルバイトがあると兄から紹介されたことがきっかけだった。
「一応フルタイムで働くことになっていたんですが、大学も行きながらだったのでおそらくそんなに熱心な方ではなくて。当時の働き方は今思うとすごく恥ずかしくて、大学も行かないし会社も行かないしでだらだらしている時間も全然あったんですが、その中でも相対的に1番時間を使っていたのはビジネスだったかなという気がします」
インターン先では大学生に特化したSNSサービスの開発に構想段階から関わっていた。のちに事業を本格展開すべく子会社が設立され、執行役員に就任。いわゆる創業間もない企業の渦中に身を投じ、必要なことは何でもやっていった。
「それでも繁閑はあったので、起業サークルの友だち3人とそれ以外にもメンバー2人を入れて『vista(ビスタ)』というフリーペーパーを立ち上げたりもして。自分たちで企業さんからスポンサー広告という形でお金をいただいて、インドとかカンボジアとか社会問題の現場に行って取材して、記事を書いて大学で配るという活動を大学2年生の時はやっていました」
アイデアは、当時日常的に転がり込んでいた家に住む友だちとの会話から生まれてきたものだった。
海外に行くにしても、普通に観光旅行に行くなんてつまらない。ちょうどBOPビジネスにも興味関心があったので、社会問題の現場にも行ってみたかった。もちろん同様のテーマで大人が作る記事もありふれてはいるが、読者と同じ立場にある大学生が書くからこそ生まれる共感があるのではないか。そんなことを考えながら、実際にビジネスを形にしていく過程にのめりこんでいた。
「やっぱり学生が稼ごうとすると普通はアルバイトとかになって。時給1,500円とか割のいい家庭教師でも4,500円とか、あったとしてもせいぜいそれぐらいだったのが、たとえばフリーペーパーであれば年に5~600万売上が立つものもあったりする。実質稼働はさておき、今で言うとレバレッジが効くというか、自分が一労働者として働くよりもやっぱりインパクトを与えられる仕事をできるということに対して面白さを感じていたところはありますね」
より多くの人に、自分の手で生み出した事業でインパクトを与えていく。それは、日銭稼ぎのアルバイトでは決して実現できないことだ。もちろん大変さは桁違いだが、どうせなら自分が影響を与えられる人を増やしたいと思うようになりつつあった。
「大学3年の夏以降、調子よく伸びていたSNS事業の成長が鈍化して、そのあと事業売却になったんですよ。途中で社長が交代になったりもして、そのタイミングで僕も辞めていて。そこで初めて就職を視野に入れはじめました」
いろいろな形で自分なりにビジネスに触れてきたが、結局心に残ったのは「事業をつくることは楽しい」という確信だった。
大変そうだった父の姿を思うと、いわゆる安定的な大企業に就職する気にはならない。それよりはむしろ勢いがあり、新卒でも挑戦させてもらえる環境がある会社に惹かれた。インターンなども経験し、最終的には急成長フェーズにあったディー・エヌ・エー(以下、「DeNA」とする)を選ぶことにした。
誰かがつくった事業ではなく、自らの手でつくる事業にコミットする。それこそが、自分の中で誇れる仕事だと思えていた。
2010年当時、DeNAが運営する「モバゲー」は10~20代を中心に人気を博し、業績は右肩上がりに伸びていた。一方、社会ではともすると「出会い系」や「中高生からお金を巻き上げる事業」などと批判の声もあるなかで、在学中からインターンとして働き感じた印象は、本当に優秀な人々が一生懸命に働いている会社だということだった。
そんななか自分が埋もれないかと不安に感じていたが、入社してすぐにこの選択は正解だったと分かった。
「やっぱり若い人、まだ何者でもないやつにどんどん挑戦させようという、そういうカルチャーが結構あったんじゃないかなという気がして。そこに自分は恵まれていろいろ任せてもらったし、逆に社会人としてはすごく未熟な部分があったので叩き直してもらえて本当によかったですね」
配属先はソーシャルメディア事業本部だったが、実質役割は何でも屋だった。当時構想段階だったヤフーとの共同事業を進めるにあたり、さまざまな事業部のハブとなり調整しながら、絵を形にしていくために奔走する。何でもやらされた1年目だったが、新卒だからこそ疑いもせず体当たりしていった。
「DeNAには『大黒柱を抜く』というアサイン方針があり、その事業で欠かせない人を抜くと、欠かせない人が育ってくるという概念があって、本当にいきなり事業リーダーが抜かれて。そうなると自分がやらなきゃということで、2年目くらいからは実質的に事業リーダーのような形でやらせてもらうことができました」
ヤフーとの事業提携が成功したあとは、新規事業である無料通話アプリ「comm(コム)」の立ち上げプロジェクトの責任者となり、数十億円の予算規模を任せてもらうことになる。寝食を忘れるほど仕事に没頭したが、結果的には競合に敗退してしまうこととなった。
「『comm』という事業には、本当に労働時間もマインドも全部突っ込んでやっていたのですが、失敗してしまい。そのあと自分なりに反省を踏まえて、もう少し少人数でチームを立ち上げたりもしたのですが、それも失敗してしまったんですよね。せっかくこれだけいい環境をもらってできないということは、自分のやり方を変えなきゃいけないなと考えていました」
DeNA時代、現DROBE COOの長井と登った富士山にて
何をどう変えていけばよいか分からず、自分の中で指針を失ったような感覚にも陥っていた頃、転機となったのはDeNA退職後、フリーランスをしていた中での知り合いからの偶然の誘いだった。
「BCG Japanでデジタル部門を立ち上げようという話があると、声をかけていただいて。本当に立ち上がるかどうかはまだ分からなかったんですが、当時の自分はなんとかなるだろうと思って『じゃあその話一緒にやっていきます』と、最初はコンサルタントとしてBCGに入ることになったんです」
それまではインターネット領域での事業立ち上げが多く、既存産業にかかわる領域で事業をつくってみたいという思いもあった。新たな環境での挑戦だ。コンサルタントとしてのクライアントワークと並行しつつ、はじめは文字通りゼロからのスタートだった。
「立ち上げ自体はグローバルの方針だったんですが、結構やり方はそれぞれのローカルに任せられていて。日本では『大企業に火をつける(Enterprise Ignite)』、エンタープライズの力を使って新しい事業を立ち上げるというコンセプトしか決まっていなかったので、どうやるかを決めていきました」
2016年、BCG Digital Venturesの日本拠点は設立された。顧客とする国内のリーディングカンパニーの課題解決に向け、戦略やロードマップをBCGがつくる一方で、具体的な事業との紐づけを同社がサポートしていく。
数ある案件のうちの1つから、三越伊勢丹ホールディングスとの共同事業は生まれてきた。
「当時三越伊勢丹さんの中でも、より受動的なお客様が増えているから、そこに対して何かサービスをやるべきじゃないかという話があったし、海外にもDROBEに近いようなビジネスモデルが複数あったんです。市場の流れとしても合致して、これならやれるんじゃないかと戦略はできあがっていて。じゃあ本当にサービスとして回るのかどうか、ユーザーのニーズをとらえられるかどうかはプロダクトを作ってみて試して、反応が良かったのでそのまま立ち上げることになりました」
株式会社DROBEは2019年4月に設立されたのち、2021年5月にマネジメント・バイアウト(MBO)に至った。
設立当初からいるCOO、CTOはともにBCG Digital Venturesからの転籍であり、ほかにも三越伊勢丹から10名ほどが出向という形でジョインしてくれた。アルバイトなども含めると総勢20名弱でのスタート。メンバーには恵まれた。
「経営陣もメンバーもそうなんですが、我々ってすごくセンスで闘う集団というよりは、どちらかと言うとしっかり仕組みを考え抜いてそれを作るというところに強みを持っているチームかなとは思っていて」
ミッションとして掲げた「ヒトとモノの出会いをデザインする」ためには、ヒト、モノ双方の理解が必要になる。そのうえで、それらをシームレスなUXで実現していく。そんな闘い方ができる仲間が揃っていると思えたからこそ、現在のDROBEは存在する。
将来社長になるというイメージはしていなかった。ただ、社会にインパクトを与える事業を立ち上げたいという一心だった。現在も「DROBE」というサービスを育て上げ、純粋に掲げたビジョンを成し遂げることにゴールを置いている。
「僕自身、何か1つの原体験があって、それを強く反映したものづくりとか事業づくりをする側の人間ではなくて。そういう人もいるし、うらやましく思うこともあるんですが、どちらかと言うと一歩引いた目線から、業界なり事業なりサービスなりユーザーニーズを俯瞰して、そこにダイブしていく。自分がどんどん業界に入り込んで、見たことを事業に落とし込んでいく。そういうスタイルが僕はすごく好きですね」
社会が求める事業をつくる。だからこそ、自分の手で社会に大きなインパクトを与えていけるはずだ。
すべての人がポジティブに意思決定し、自分を楽しめる世界。それを社会が必要としていると信じるからこそ、DROBEは挑戦しつづける。
これまでの人生を振り返り、改めて自身が最も大切にする価値観について山敷は語る。
「少しありふれた言葉になってしまうんですが、常に意識しているし、そうあれたらいいなと思っていることは、自分の選択を正解にするということですかね。先ほどお話した通り、結構後悔している話も多かったと思うのですが、選択する時点では正解か不正解かはないと、やっぱり改めて思うんです」
選択そのものよりも、結果を左右する要因は選択したあとの自身の行動に宿る。
そう考えるようになった背景には、幼少期の環境があるかもしれないと振り返る。「将来は●●になればいいんじゃない」と、親切心から言ってくれる大人たちが周囲にいた。それが正解なのかどうかは分からなかった。だからこそ、人生の選択を誰かに委ねるようなことはしたくないと思うようになった。
「勧められた職業自体が嫌だったというよりも、すごく投げやりな感じで自分の人生を決められるようで嫌だなと思ったんです。じゃあ自分は自分で、当時だと勉強していい大学、いい会社に行こうと思ったわけで。それが正解だったかどうかは分からないし、自分で決めて後悔することもある。周囲の大人に言われた通り選択したところで間違いだとも僕は思わないし、正解にできる道もあるんだろうと思うので、みんなが自分の選択を正解にしていく社会であるといいんじゃないかなと思っています」
選択には、失敗や後悔がつきものだ。しかし、それでも誰かに決められた人生を歩んでする後悔よりはいい。
自分で意思決定し、その後の行動で選んだ道を正解にする。必ずしも正解は1つではないのだから、きっと自分なりの選択を楽しんでいけばいい。
2023.6.30
文・引田有佳/Focus On編集部
誰もが最初はファッション初心者だ。好みの色も柄も形もなんとなく以上に言語化できないし、自分に似合う洋服なんていろいろ試してみることでしか分からない。しかも世の中には「流行」や「無難な選択」とされるものがあり、あたかも絶対的正解があるかのように感じられることもある。
人生もそうかもしれない。とりあえず大企業に入っておけば安泰だとか、あるいはスタートアップ企業で挑戦できないようでは未来がないだとか。正解とされる選択はさまざまにある。
何か大きな岐路に立つ瞬間、未知の環境へ踏み出そうとする瞬間、周りの声とは違う選択に心が揺れる瞬間。自信がなくて躊躇してしまう人はいるだろう。けれど、どんな選択が正解かなんてやってみる前には分からないと山敷氏は語る。
そうであるならば、自分なりに選択していくこと自体を楽しんで、思い切って心の従うままやってみればいい(裏を返せば、何事も始めてみなければ、自分にとっての人生の正解は見つからないままになるということでもある)。
ファッションも人生も、そこにある選択する楽しさを知ることができたなら、それ自体を楽しめるようになる。決められた人生なんてないし、誰もが自分の選択を正解にしていくことができる。DROBEは社会をそんな方向へ導いていくのだろう。
文・Focus On編集部
株式会社DROBE 山敷守
代表取締役CEO
1987年生まれ。東京都出身。東京大学在学中、学生向けSNS「LinNo」を立ち上げる。2010年、新卒でディー・エヌ・エー(DeNA)に入社。ヤフーとの事業提携などを成功させた後、無料通話アプリ「comm」の立ち上げプロジェクトの責任者に。2016年にBCG Digital Venturesの日本拠点の立ち上げフェーズから参画し、様々な大手企業との新規事業開発に取り組む。2019年4月DROBEを設立し代表に就任。