Focus On
佐渡島隆平
セーフィー株式会社  
代表取締役社長
メールアドレスで登録
orより良い仕組みがあれば、世界はより良く変えられる。
「医療をつなぎ、いのちをつなぐ」をミッションに、医師個人がつながり情報をシェアしあえるサービスで、医療業界全体の向上に寄与していくアンター株式会社。地域や診療科を超えた医師同士の質問解決プラットフォーム「Antaa QA」や、学会や勉強会の発表資料スライドをシェアできる「Antaa Slide」、医師向けオンライン動画サービス「Antaa Channel」など、同社の展開するサービスは幅広い。2021年8月には、東証一部上場の株式会社JMDCグループへと参画した。
代表取締役の中山俊は、鹿児島大学医学部を卒業後、東京医療センターでの初期研修を経て翠明会山王病院整形外科などに勤務。2016年、アンター株式会社を設立した。厚生労働省主催の「医師の働き方改革の推進に関する検討会」では「勤務医に対する情報発信に関する作業部会」の構成員も担う、同氏が語る「医療におけるつながりの価値」とは。
目次
患者の命を預かり、日々迅速かつ的確な意思決定が求められる医師という職業。私たちにとっては半ば当たり前にある医療というサービスは、実のところ、医師個人のたゆまぬ努力や葛藤が裏にあるからこそ成立するという事実に目を向ける人は少ない。
たとえば医師にとって、緊急で専門外の病気を診なければならないとき、親身に相談に乗ってくれる専門の先生がいればどれだけ救われるか。現地に行かなければ知り得ない貴重な勉強会の資料を広く共有しあえたら、どれだけの先生が互いに高め合えるか。
一人の力は限られていても、つながる大勢の力が集結することで可能になる医療があると中山は信じている。
「僕はサービスをつくっているのではなくて、アンターを通じて文化や価値観をつくっているつもりなんです。いろいろな組織や立場があるにせよ、医師が今より良い医療が提供できるはずだし、もっと良くなる可能性があると信じられる新しい価値観をつくっていきたくて」
医師が個人間でネットワークを形成し、それぞれの知見を共有しあえる仕組みが存在することで、地域や病院といった境界がなくなっていく。そんな世界観をアンターは描き、形にしていく。
「医師個人ができることが増えていって、個人の可能性がもっと広がっていくことで、医療全体の質が上がりますし、その過程の中で、医師それぞれがもっと幸せになるんじゃないかとも思っています」
それは本来多くの医師が感じ、求めていたことだったのかもしれない。中山自身も医師として働いてきた経験から、現場にある課題感を解決する視点からサービスを練り上げた。
現場の判断を助け合える医師同士のQ&Aプラットフォーム「Antaa QA」は、相談する先がなくて困っている医師が安心を手にできるとともに、回答に対する感謝を受け取る側もさらに頑張ろうと思える。仕事への真摯さが相乗効果をなし、善意のサイクルを形成していく姿がそこにある。
スライドを共有し、知識をつなぐ「Antaa Slide」は、QAのような即時解決というより、中長期的に蓄積され発展していくプラットフォームと言えるだろう。過去から未来へ、日々発展しつづける医療の軌跡として機能する。
手軽なオンライン動画で学びを得られる「Antaa Channel」や、医師が経営やマネジメントを学ぶ「Antaa Academia」も、医師が学び合うコミュニティとして意欲を高める刺激にあふれている。
今後もさらなるサービスの発展を目指すアンター。そのために、中山はより広い世代の医師たちにも価値を提供していきたいと語る。
「僕は今35歳なんですが、自分よりも上の世代の経験や価値観への理解がまだまだ足りないと感じていて。想像の範疇を出ないので、コミュニケーションや接することが増えることで理解が進み、思いがけない何かが生まれるかもしれない。それに理解が足りないからこそ見えていない、行えていない選択肢があるんだろうなと。だからこそ、使いやすさとかそういったことではなくて、もう少し本質的な課題感や不安、感じていることを知って理解していきたいと思っています」
アンターの価値は、売上や利益で測れるものではない。より多くの医師たちに必要とされ、「アンターがあったから自分の状況はよくなった」と感じてもらえること。その価値の差分こそが事業としてつくる意味であり、人生をかけてやる意味であると中山は考える。
より良い医療の未来のために、医師がより良い未来を信じられる世界のために。医療をつなぎ、いのちをつなぐアンターの挑戦は続いていく。
生まれた奄美大島の大自然から、県庁所在地のビル群まで。記憶に残る風景は人より多いが、一つひとつは短い。銀行員として働く父の転勤に合わせ、1~3年に1回ほど引っ越しを繰り返していたからだ。幼稚園は2つ、小学校も3つ通った。幼少期の思い出といえば、鹿児島県の内外いくつもの街を転々としたことだと中山は振り返る。
「12歳までに10回くらい引っ越しをしていて、鹿児島県内でも地域差があるなと思ったことは覚えていますね。そこにいる人たちの考え方が違ったり、それぞれのコミュニティがある。外から入っていく立場としては結構難しいこともあって、いろいろ感じるものがありました」
転校生という立場は、ひどく不確かなものである。新しい環境で絶対に受け入れてもらえる保証はない。特に地方では、昔からの知り合いである同級生のコミュニティや先生と自分とのあいだで、心通わせることの難しさを感じることもあったという。
「塾に通っていたので、成績は良かったんです。そうすると、よそから来た転校生の成績が良いと悪い意味で目立ってしまう。息苦しいなと感じる瞬間もありながら、こういう世の中もあるのかなと考えていました」
両親には「人は人」だと話をされたことがある。人は人、自分は自分。だから、馴染みのない考え方があったとしても、そこにいる人たちにとっては1つの価値観なのだと思うことにした。それぞれの地域には、それぞれの価値観がある。
新しい環境では、それぞれコミュニティの価値観が既にある。それなら自分がどう合わせるか、合わせるためにはどうするべきなのかを考え、模索していた時期だった。
幼少期
「その頃はひたすら図書館で本を読んでいましたね。いつも本を読んでいるキャラだと、そういうラベルでいると楽だなということにも気がついて。いろいろなものを読んでいたと思いますが、小学生向けの伝記とか歴史の本を読むのが好きでした」
本好きだった父親の影響もあるのかもしれない。気づけばのめり込み、片道1時間半かかる塾の行き帰りも欠かさず読むようになっていた。年間300、400冊と読破していくなかで、特に興味を惹かれたのは歴史の本だ。
中山にとって歴史は、新しい気づきや発見をもたらしてくれるものでもあった。
「こういう人がいて、こうやって世の中が変わるんだとか。結局は仕組みだと思って、それによって物事って動いているんだろうなと思ったんです」
人を取り巻く状況を変えるほどの力を持ち、世の中を形作っている仕組み。その存在は、どの時代の歴史を読んでもそこにあり、変化しつづけていた。
「今の状況は変えられるかもしれないし、より良い仕組みがつくれるんだろうなと思って。そういうものを自分が変えられるようになったらいいなと、より良く変える仕組みをつくりたいなと漠然と思うようになりました」
もしもこの世に良い仕組みしか存在しないなら、ただ何もせず仕組みの中で生きるだけでも幸せになれたかもしれない。
しかし実際は、戦国時代や明治維新がそうであるように、常に良い仕組みというものはなく、新陳代謝が起きながらより良い新しい仕組みが生まれてくるものだった。
いつかより良い仕組みがつくられるのを待つ側は苦しそうだ。だからきっと大切なことは、自ら仕組みをつくる側になることなのだ。それによってより良い状況はつくられるのだろうと考えるようになっていった。
自分に何ができるのか、何を変えられるのか。当時はまだ確固たるイメージがあったわけではない。むしろ目の前の物事に思い悩んだり葛藤したりする、普通の少年だった。
当時は、母から繰り返し言われた教えが記憶に残っていると中山は語る。
「とりあえず毎日自分のできることを精一杯やりなさいみたいなことは、すごく言われていました。1日1%でいいから成長することが大事だと」
努力できることは才能であり、努力しつづけることでしか見えないものがある。そう書かれた紙が冷蔵庫に貼ってあり、勉強に疲れたり現実逃避にジュースなどを飲もうとする自分がいると、いつも目に入る。
どうやらそれは母の人生の後悔から来る言葉であるようだった。高校も大学も全ての受験で後悔があったと母は言う。価値観の背景が理解できるからこそ、母の考えには納得できた。
実際、すぐに実行できるものでもなかったが、いずれにせよあきらめず前に進みつづけることの大切さは今も明確に刻まれているという。
「歴史の本で読んだ偉人の人生にもそれを感じていて。もともとスキルが高い人たちはいるのかもしれないけれど、みんな日々努力していて、努力を怠った瞬間に達成できなくなるものがあるというか、到達した人だけが分かる世界があるんだろうなということはすごく思っていましたね」
中山にとって、人生で初めて努力が試される関門といえば中学受験だった。住んでいたエリアを離れ、私立のラ・サール中学校に入りたかったのだ。もしも合格できなければ、あきらめて地元に残りなさい。親からはそう言われていた。
本気で勉強し、無事合格を手にすることができたラ・サールでの中高6年間。そこでは、何気ない毎日でさえ楽しく彩りに満ちたものだった。
「僕は最初だけ寮生活で、途中からは父親が単身赴任になったので自宅から通っていました。中学の頃は、家に初めてインターネットが開通して、それがすごく楽しかったですね。ダイヤルアップの時代でしたが、深夜の時間帯だけ使い放題のプランがあって。そこでいろいろな人とチャットしたりするのが本当に楽しくて」
昔から本屋が好きで足しげく通ったのは、そこが新しい情報に触れられる場所だったからだった。だが、インターネットはそれをはるかに超える。鹿児島から世界の広さを実感できるほど、いろいろな人の話に触れられる場所だった。
年齢も職業もバラバラの、顔の見えない個人同士のやりとりは全く知らない価値観を教えてくれる。そこで繰り広げられる会話をただ眺めているだけでも面白かった。
「ちょうど高校1年の時には『Winny(ウィニー)』というPeer to Peer型のファイル共有ソフトが流行っていて、今では違法ダウンロードの代名詞みたいになってしまっていますけど、当時それに触れたんですよね。そしたら思いもよらない情報に触れられ、個人間でデータを共有できるサービスってすごくいいなと、こういう仕組みって本当に世の中に必要だよなと思って」
必要な人に必要な情報が行き渡り、新しい考え方や価値観を持つ人がきちんとそれを届けられる。インターネットを介することで、個人がオープンにした情報に誰もが平等にアクセスできる。これこそ本当の機会の平等なんじゃないかと思える状態がそこにあった。
「互いに価値がある情報が公開される世界観がすごくいいなと感じていることは、15、6歳くらいの体験に影響を受けていますね。だから、アンターは医師同士がつながる世界をつくっていこうとしています」
わざわざ都度伝える仕組みをつくらなくてもいい。必要なときに自由に情報にアクセスできるプラットフォーム。それを可能にする個人間のネットワークというつながり。そんな仕組みがきっと人の可能性を拡張し、世の中に必要とされていく。
夜な夜なネットの情報を手繰り寄せながら、中山はそう確信していた。
小学校
インターネットや友達と遊ぶことを楽しんでいた中高6年間、正直勉強にはあまり注力していなかったが、大学受験が近づくとそうも言っていられなくなった。
「高3になって勉強しはじめて、進路をどうしようかなと思っていたんですね。いくつか自分の中では考えていて、官僚になって今ある仕組みから考える立場を目指す方がいいのか、それとも新しい仕組みから考える立場を目指す方がいいのか、どちらだろうと」
悩んだが答えはいまいち見えてこない。官僚もいいが、より早い段階で仕組みをつくるならもっと別の道があるかもしれないという気もした。当時まだ限られていたインターネット上の情報をもとに考えていた頃、偶然見つけた選択肢が慶應SFCだった。
「面白そうだなと思って、1人でSFCの願書を書いて出したんです。だけど、親の要望としては医学部に行ってほしかったんですね。母からは『新しいことをやりたいなら医者になってからでも遅くないんじゃない』と言われて、たしかにそうかもなと思って」
18歳で慶應SFCに入る自分と、24歳で医学部を卒業する自分。想像してみると、親の言う通りたしいてできることも変わらないように思える。
何か仕組みに関わってみたい。それくらい、思いは漠然としたものだったのだ。明確にやりたいことがないのなら、医師免許を取る過程で考えても遅くないかもしれない。
そう納得し、地元である鹿児島大学医学部を受験。合格してみれば嬉しくて、そのまま医学生としての道を歩みはじめることにした。
「とはいえ、大学生活はバスケットボール部に入って、ずっとバスケをしていたんですよね。社会人の知り合いがやっていたチームの練習に参加したり、週5で練習したり。単位もぎりぎりで、ずっと留年するかしないかくらいでした」
最後は自分の意思で選んだつもりだったものの、いざ勉強を始めるとどこか熱が入りきらない。しかし、これも自分で決めたことだからと思いながら、いつの間にか3年が過ぎる。
大学5年になると実習が始まり、病棟を回るようになった。
なかでも記憶に残るのは、1か月ほど小児科を担当した時のこと。1人の入院患者で小学生の男の子が、病室で懸命に夏休みの宿題を解いていた。思わず「偉いね」と声をかけ、どうしてそんなに勉強しているのかと問う。すると、その子は9月から始まる2学期で、みんなに勉強で遅れないよう頑張っているのだという。
「すごく勉強熱心で、賢い子なんですよ。でも、その子は小児白血病で何度も入院していて。僕は学生ながら『この子はまだ治療中で9月に学校には行けないし、治るのか分からない』と思うと、いろいろな感情が生まれてきて」
10歳の男性で、末期の白血病。採血データの結果はこうなっていて、治療経過は良好とは言えないこと。カルテ上の文字は、淡々と事実を述べている。しかし、そこには当然ながら一言では語り尽くせない思いがあって、人生がある。そこに寄り添う医療の大切さを初めて突きつけられたようだった。
「それまで本当に大学生活はバスケをしていたくらいの記憶しかなくて、『自分はこの先どうなるのかな』とか思っていたんですよ。ずっと鹿児島にいて、ちょっと休みの日はバスケしたり知り合いと飲んで、医者になってこうやって日々過ごしていきながら人生が過ぎていくのかなと。でも、その実習で出会った患者さんが懸命に日々を人生を過ごしているなかで、なんか違うんじゃないかなと思いはじめて。もっともっと自分にできることがあるかもしれない。何か分からないですけど、自分が医療に携わっていろいろできるかもしれないと思って」
懸命に生きようと努力している男の子。それに比べて、自分は何をしているのだろう。ふつふつと湧いてくる感情があった。命の尊さに心揺さぶられる感覚や、自身のふがいなさ、それに情熱のようなもの。明確に何とは言えないが、きっと人生を前に進めるには十分な感情だ。
医療は人と人だ。
医学と医療は違うのだ。その時初めて、きちんと良い医者になろうと決意した。そこでもっと自分にできることがあるはずだと心が言っていた。
東京医療センターにて、祖父母と
良い医者になるなら、教育体制が整った病院で研修したい。そんなことを思うようになり、早速行動しはじめた。
「僕たちの世代は、研修医になるとき自由に研修先の病院を出願できるシステムになっていたので、いろいろ調べたら東京医療センターという病院が見つかって。じゃあそこを受けてみようと思って、自分の実力だと厳しいかもしれないなと思いつつ、なんとか採用してもらうことができました」
より良い環境に飛び込みたい。その一心で地元を出て、東京の病院へ向かう。結果的に、その選択は大正解だった。
「めちゃくちゃ良かったですね。そこで働く人たちが同期も含め、ものすごくモチベーションが高くて。ここに来られて良かったなと本当に思いました。みんなすごく一生懸命で、努力していて」
寮は病院の敷地内にあり、歩いて5分。しかし、その5分が平穏に済む方がめずらしい。その頃、研修医のピッチ(PHS)は24時間365日つながることになっていて、歩いているうちにたいてい呼び出し音が鳴りだしている。急いで病棟に戻ると、診療科によっては結局ほとんど寮のベッドに戻れないという日もざらにあった。
昼夜を問わず働きつづける。そんな生活だったが、どうしようもなく楽しかった。
「自分でいろいろな患者さんのことを診て考えて、診療を決める。研修医なので本当の意味での意思決定はできないものの、だいぶ意思決定に携われる環境だったんですよね。なおかつ携わった意思決定に対して、先輩の先生方もすごく一生懸命にフィードバックしてくださったりとか。自分も一生懸命働いているけど、自分と同じかそれ以上にモチベーションの高い人たちがいて、そういう環境にいられるのってすごく幸せだなと思いましたね」
尊敬し、価値観をともにする人たちと熱量高く働ける。これ以上ないほど最高の環境だ。
より良い医療を提供すべく、努力を続ける。そのうちある程度の医療をこなせるようになってくると、医学の及ばない範囲も多くあると分かってきた。
たとえば、高齢の患者さんで自宅には帰れない、でも、これ以上病院でできる治療は限られている。なかには医療費を払えないという人もいる。誰のための医療なんだろう。そんな状況で、医療にできることはなんだろうかと考えさせられた。
さらに、自分は自分のために頑張ることは難しく、喜んでくれる人がいるからこそ頑張れるタイプなのだということも分かってきた。
その後のキャリアで整形外科医を選んだ理由もそこにある。急な事故で骨折してしまった患者さんを手術して、翌日から歩けるように治療すると大いに感謝される。当時はそれがやりがいにつながっていた。
「しばらくはそれで良かったんですが、医者によって医療ってすごく差があるよなということを考えていて。本当はいち早く手術した方がよくても、医療資源の問題で今は行えないという判断を下すこともある。みんな疲弊しながら日々頑張るんですけど、そういうケースで手術を待っているあいだに肺炎になって手術ができなくなったりしてしまうこともあって」
医師1人の限界。どこに問題があるのかは分からないが、もっとより良くできる仕組みがあるはずだと思った。
「いろいろな情報が共有されたり、もう少し医師が気力が満たされる環境があったりとか。何かを変えないとなという思いが強くなって。いろいろな病院の中にそれぞれに課題があって、日本は良い医療を提供しているけれどその日本の医療の中にたくさん問題があることはすごく分かってきて。自分が努力するだけでは解決しない問題も、既存のやり方ではうまくいかないこともすごくある。じゃあ、どうやったら解決したらいいんだろうと思って、始めたのが『Antaa』の仕組みです」
ヒントになったのは、自分自身の体験だった。
違う科の先生とも日頃から関係値を築き、困った時には頼れる存在をつくることは患者のために意識的にやってきた。一生懸命努力している相手の姿勢が伝わってくるからこそ、親身になって相談に乗りたいと思う。軽い相談でも丁寧に答えるからこそ、相手も丁寧に質問してくれるようになる。価値観の部分から深く共鳴する医師同士、そこに良い循環が生まれる様子を何度も目にしてきた。
立場を超え、純粋に患者のために努力し試行錯誤する。そんな日々のなかで、アンターの事業の基となる構想は生まれている。
「思いや志って結構大事だと思っていて。なぜこの人に共有したいと思うのかとか、そういうものって大事ですよね。その先生が一生懸命患者さんに向き合っていてなんとかしたいんだという思いが伝わると、やっぱり医者の心って動かされるんだろうなと思っています」
やりたいイメージは形になってきた。しかし、プロダクトをつくると言っても勝手が分からない。最初は中高の同級生に相談し、週末集まっては意見を交わしたりしていたが、偶然コワーキングスペースで登壇の機会をもらったことから状況は動き出す。
当日話を聞いてくれていた人の中から、「夫が起業家だから」と紹介してくれる人が現れた。嬉しい驚きとともに事業構想を話していると、すごくいいとの評価をもらう。そこから投資家との接点が生まれ、起業するなら出資するとの話へもつながっていった。
本格的に起業を考えはじめる。しかし、中山はまだ踏み出さなかった。
1人ではやれないと思ったからだ。自分が思う課題感が、きちんと他者に共有され共感されなければ価値はないと中山は考える。さまざまなアクセラレーションプログラムに応募し、多くの人と議論することで最終的なサービスはつくりあげた。
2016年6月、アンター株式会社を設立。
仕組みがないために機会を失ってしまう医師たちがいるとしたら、新たなより良い仕組みをつくればいい。医師個人をつなぎ情報を共有できるプラットフォームがあることで、全体としての医療の質が向上するはずだ。
アンターは、個人と個人がつながるネットワークの力が発揮され、よい良い医療が実現する仕組みをつくりあげていく。
2020年5月、同社は「つながるちからFEST.」を開催。
14のセッション、総勢55名の医師が無償で登壇し、
医師医学生がつながりを感じながら孤独を感じずに医療に向き合える場が1つ形となった
医師から起業家というキャリアを歩む人は昔よりは増えてきたのかもしれないが、まだまだメジャーな選択肢とは言えないだろう。
中山の場合、その原動力はどこにあったのだろうか。
「いろいろな人に知り合えたからかなと思います。たとえば病院で働いていた頃、『いや、これってよくないよな』と思ったときに、一緒に働いていた先生も違和感を持っていて、それを言葉にしてくれたからそうだよなと思えたり。とりあえずFacebookのメッセンジャーで中高の同級生に相談したら、『できるんじゃない』と言ってもらえたり」
起業を本格的に計画するに至るまで、自分の考えを肯定してくれる人が周囲に多くいたことの影響が大きいと中山は語る。同時に、それは肯定されるまでやりつづけてきたからこそ、結果としてそうなっただけかもしれないとも振り返る。
「自分がうまくやれているのかは、会社で働いたことがないので分からないんですよね。でも、『なんとなくこんなものでいいよね』と思ってやっていると、次のステップには行けないと思っていて」
自分がどこまで努力したなら良しとするのか。ここまでなら普通はいいだろうと言えるものはない。少なくともそう簡単にあきらめてしまっていいものではないはずだ。
逆に、普通を知らないからこそ功を奏することもある。もしも会社で働いた経験があったなら、自分でウェブサイトをつくったり、SEOを考えて記事を投稿したりはしなかった。よく分からず自分で調べてやるしかなかったことが、結果として投資家に課題解決力として肯定された経験があるという。
「誰かが何かやろうとするときには、肯定する文化があった方がいいですよね。大事なことは『評価』する仕組みではなくて、ただただ『応援』する文化が必要なんだと思っていますね」
全体最適を考え、既存の仕組みと調和するようアンターの事業をつくってきたと中山は語る。だからこそ、受け入れてもらえたり、応援してもらえている部分があるのではないかと考えている。
「大事なこととして、『負けなければいい』といつも社内には言っています。負けないだけで、勝つ必要はないんだと。勝つと失うものがあるかもしれない。だから、負けないためにはどうすればいいかを考えて、何か問題が起きたときにも負けないことを考えていこうというスタンスがいいと思っています」
アンターのサービスは、純粋に多くの人が困っていることを解決するためにある。何かに勝つためにつくられるわけではない。
勝つことばかりに目が向いて、結果として打ち砕かれ、立ち上がれなくなっては元も子もない。そうではなく、あきらめず前へ進むこと。人生は負けないことが大切なのだ。
2019年、中山がJMDCの担当者と初めて顔を合わせたのは、人の紹介がきっかけだったという。その場はサービスの紹介程度で終わったが、年を超えても縁がつながり、2021年8月にアンターはJMDCグループへと参画することとなった。
当時の経緯と今後について、中山は語る。
「もともとどこかの企業にグループインしたりする選択肢は、全く考えていなかったですね。ただ当時の僕から見てJMDC社は、医療業界ですごくニュートラルなポジションでいい会社だなと思っていました。アンターは医師に向けて事業をやっているんですが、売上は医師だけでなくさまざまな立場の方々からいただいているために、僕たちもある程度中立的じゃないといけなくて」
意思決定にあたっては、関係者との対話が決め手になったという。
なかでも一足先にグループインしていたflixy(フリクシー)代表取締役で医師の吉永和貴は、同じ鹿児島出身であり、中高時代はラ・サール出身と母校も同じ。もともと知り合いだった。ほかにも数人と接する機会を持つなかで、価値観をともにしているという感覚があった。
「吉永さんもそうですが、僕が出会ったJMDC社の人たちが皆さんすごく努力していて、すごく考えていて、一生懸命なんですよね。そういう人たちが集まる会社って魅力的だなと思って。なおかつ代表の松島さん自身、ずば抜けてベンチャー的な挑戦をしているのに、それでいて起業家の描いている未来をとても尊重してくれながら、すごくディスカッションしてくれるんですよ」
こんなに切磋琢磨でき、一生懸命挑戦できる環境がある。ここに入れば、もっとアンターや自分にできることが増えるのではないかと予感させてくれたことからグループインを決めたという。
2021年、新しい門出を迎えたばかりのアンター。描く未来についても聞いた。
「もっと医者に提供できる価値が増えたらいいなと思っています。医者がそれぞれの人生を過ごすなかで、既存の仕組みがあるから『できない』があるのなら、成り立つ仕組みをつくっていきたいなと」
「健康で豊かな人生をすべての人に」という理念を掲げ、医療分野で集積したヘルスデータを医師と生活者それぞれのために活用し、医療費の健全化や医療の地域格差などの課題解決に取り組むJMDC。
アンター、そしてJMDCグループが、医師に対しさまざまなデータやサービスを提供する。それにより、良い医療が実現できたと実感してもらったり、もっとできると感じてもらえるようにしたいと中山は語る。
医師がより力を発揮し、充実した人生を描ける未来は、今まさに、ここからつくられようとしている。
2022.6.10
文・引田有佳/Focus On編集部
地域やコミュニティによる価値観の違いと出会い、子どもながらに悩んだ幼少期から、仕組みの大切さに目を向けてきた中山氏。より良い仕組みがあれば、状況はより良く変えられる。より良い世界を求めるのなら、自ら努力すべきだと自然と思えていた。そこに希望があったとも言えるかもしれない。
特に、目を向けたのはP2P(Peer to Peer)に個人がつながる仕組みの価値だった。それはまさにアンターの根底にある価値観とも通ずるものである。
仮に医師個人の力は限られていたとしても、真摯な姿勢を持つ個人と個人がつながることで不可能が可能に変わることがある。今よりもっと良い医療が提供できると希望が持てる。それ自体、人を勇気づけ力に変わるように思える。
自分を取り巻く世界に不安や不満を抱いたとしても、仕組みに目を向けることで人は希望を見出す。現状はより良くなると信じられるかどうかは、自分が見ようとするものにより決まるのだろう。
文・Focus On編集部
アンター株式会社 中山俊
代表取締役
1986年生まれ。鹿児島県出身。鹿児島大学医学部を卒業後、2011年東京医療センター初期研修医。整形外科医として診療を行ったのち、2016年アンター株式会社を設立。2021年JMDCグループ参画。東京医科歯科大学 客員准教授。