Focus On
中山俊
アンター株式会社  
代表取締役
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or壁にぶつかるたび、自分を確立するチャンスはやってくる。
すべては子どもの幸せの為に、保育や小学校受験、学校法人支援など幼児教育を軸に事業展開する一般社団法人IXSIA(イクシア)。プログラミング教育やSTEM教育なども取り入れる同社では、生涯教育の始まりとなる重要な学びの場として、「子どもが子どもでいる時にしかできない一生に残る経験」を重視する。2022年夏には、練馬区教育委員会の委託を受け、同自治体施設にてプログラミング講座を開催することも決定しているなど、地域と公共のための活動も注目されている。
代表理事の小林亮太は、米国グロスモント・カレッジにて人間学を専攻。卒業後、不動産会社勤務を経て、友人が創業した企業にて5年間取締役、教育事業部部長として従事したのち、2021年にIXSIAを設立した。同氏が語る「教育の本来の姿」とは。
目次
東京都練馬区の閑静な住宅街。子どもが広々と走り回れる公園の向かいに、IXSIA(イクシア)の教室はある。
幼児たちが机を並べ、大切な学びと向き合うための空間であるその場所は、明確な3つの理念のもと運営されている。
「『すべては子どもの幸せの為に』、『子どもが子どもでいる時にしかできない一生に残る経験を共に歩む』、『教育は世界を変える』という3つの理念を掲げています。最初の理念が最上段で、どの大人もすべての活動は子どもの幸せの為を思うものであってほしいという願いが込められています」
「幸せの為に」のあとに続く動詞はない。その部分は自ら考え行動してほしいからだと小林は語る。
「運動を教えるでもいいし、お母さんの悩みを聞くでもいい。このように活動しなさいみたいな作り方はしていないと、関わってくれた人には伝えていますね」
2021年に設立された同社事業は、現在、保育事業と小学校受験のための幼児教室、教育系動画の制作・配信支援、プログラミング教室など、幅広い展開を見せている。
なかでも小学校受験については、最も子どもに負荷がかかる機会となるだけに、親と子、指導者と、三人四脚の挑戦になるという。
「最初に入塾していただく際、保護者にお伝えすることは、受験は子ども主体であるべきだということ。そのなかでお子さんの適性や性格を見極めながら、『自発的なやりたい』を促していけるような学校を選んでいただきたいとお伝えしています」
幼児教育は、生涯教育に繋がる最初の入り口になる。だからこそ、勉強嫌いなど作ってしまえば学ぶ機会を減らしてしまう。
一人ひとりの集中力や性格に合わせながら、楽しく勉強してもらう環境を提供する。
そのために、IXSIAはすべての子どもの挑戦に寄り添っていく。
みのり幼稚園小学部にて、プログラミング授業の風景
目の前を横切るJR総武線と、その先に広がる大きな東京湾。住んでいたマンションからの景色は、子どもには印象深かった。そう笑う小林は、千葉県千葉市のいわゆるベッドタウンに生まれ育ったという。
一人っ子で、どちらかと言えば引っ込み思案。幼稚園では自分から積極的に話しかけには行けない方だった。必然的に交友関係は狭く深くなり、あとの時間は母と一緒に過ごすことが多かったと当時を語る。
「父は仕事一筋で、背中を見る時間がとても長かった。もう引退しているんですが当時テレビ局の仕事をやっていて。総務人事とか裏方の仕事が多かったんですが、朝から晩まで働いているんですね。たまに職場体験というか、親に連れられて会社に入れてもらったりしたことを覚えています」
責任ある立場で働く父の背中は頼もしく、どこか誇らしい。その背中には、いつしか自然と尊敬の念を抱くようになっていた。本当はもっと遊べたら良かったのかもしれない。子どもらしい欲求を抱えつつも、当時はそれが普通なのだと受け入れていた。
「小学3年くらいからはサッカーに夢中になっていました。昔から比較的体が大きかったので、母親が水泳バスケ野球といろいろ経験させてくれて、それを踏まえたうえで友達界隈でも一番人気だったサッカーが自分でも楽しかったのでハマりました」
子どもは何が好きなのか。その答えは親にも分からない。子どもの“してみたい”という気持ちを尊重し、長く継続し熱を注げるものを模索してくれた母にはとても感謝していると小林は振り返る。
毎日公園で友達とサッカーに励み、毎週土日は試合に参加する。くたくたになるまで熱中したチームスポーツを通じて得られるものは多かった。
「その頃から優劣というか、自分の力ではどうにもならない部分を感じていて。私は体が大きくて足が遅かった。ドリブルして敵を抜いたとしても追いつかれる可能性があって、そっちに適性はないんだなと思って。反対に、ディフェンスで守って周りが上手く点を決めてくれるようにするとか、そういう方に楽しみを覚えていました。自分の立ち位置ってそうなのかなと思って」
とにかくボールに触り、自分で点を取りたい。分かりやすく目立つ活躍をして褒められたい。子どもであればそれが当たり前の世界。小林の場合、持って生まれた体格や実力では、どうしてもその立ち位置にはいられなかった。
だが、体をぶつけてヘディングの競り合いをする場面なら自信がある。実際、先生やコーチの薦めでディフェンスをやってみると楽しかった。
試合には出たい。それなら自分の場合、点を取って目立たなくてもいい。チームの中で必要とされ、向いているポジションで輝けばいい。俯瞰して自分の立ち位置を意識したからこそ、その後もサッカーを楽しみ継続することができたと言えるのかもしれない。
小学校、サッカー部にて
「中学2年の時、市大会で優勝を経験できたのですが、決勝で裂離骨折したんです。私はそのあとの県大会にも出たくて、それを隠していたんですよね。でも、やっぱりコーチにはバレてしまって……」
病院に行かされ、全治1か月と診断される。当然県大会には出場できず、それが悔しかった。
しかし、怪我はどうにもできないものである。代わりの選手が試合に出場し、結局チームは敗退した。
終わってみれば悔しさとともに、どこかほっとする思いがあったことも事実。普段輪の中にいるチームや大会を外側から俯瞰して見られたことも新鮮だった。
怪我を治し、半年後の大会では満を持して県大会に出場した。リベンジマッチに挑んだ結果、優勝を手にする。なんだか自分の居場所を確立できたような感覚でもある。それは、小林の中でかけがえのない経験として刻まれることとなった。
「その経験が、1つアイデンティティのように今でも自分に生きていると思えるんです。子どもが子どもでいるときにしか経験できないことを、私はサッカーから得ることができた。そんな経験の過程を一緒に歩むというIXSIAの理念にも繋がっています。一生に残る経験があることは自己肯定感になりますし、その時期には大人になってから戻れないものがあると思うので」
スポーツやピアノ、書道など、取り組む対象はどんなものでもいい。アンテナを立て、自分の適性を見つけること。それにより得られる、自分という存在が認められたと認識できる感覚や達成感のようなもの。幼少期それを積み重ねることが自分を信じるための糧になると、小林は自身の体験から信じるようになった。
新たな環境へと目が向きはじめたきっかけは、第一志望だった地元高校への推薦入学に失敗したことだった。
父の友人に卒業生がいる東京の高校があると教えてもらい、キリスト教の学校という未知の世界にも興味を持ったから受験した。中学まで地元の公立校でサッカーばかりしていたからか、東京の私立高校はまぶしく見えていた。
「明治学院高校という東京・白金の私立に合格して、千葉から行くことができたんです。そのときに地元から一気に世界観が広がって、都心に行くと女の子は化粧をしていたり、髪の毛をいじった男友達もいましたし、衝撃だったんですね。『新しい世界を見た』と高校では感じました」
それまで勉強に苦手意識があったわけではなかったが、入学して初めて周囲のレベルの高さを実感する。ここでは頑張ってもトップにはなれない。それどころか得意な数学はまだしも、英語は赤点を取る始末だった。
現実を思い知らされる。足を伸ばし過ぎたような感覚もあった。
しかし、勉強で1番にならなくてもいいと頭を切り替えた。俯瞰して考えれば、勉強をどう利用するかは結局自分次第だ。自分が好きで学んだことならば、友達に知識を貸してあげることができるということもその頃知った。
それにもう1つ、ただ投げ出してしまうわけにはいかない理由があった。
「高校のサッカー部の方針が学業優先だったんですよ。文武両道なので、赤点だと部活に出られない、単位を取れないと試合に出してもらえないというのが部活のルールで。勉強せずにサッカーだけやることは許してくれない先生だったので。赤点を取っても追試を突破するためにきちっとやる必要があって」
大好きなサッカーのために、学業もおろそかにしないよう励む。おかげでなんとか一定の成績を維持することができた。しかし、チームメイトの捉え方は異なっていたようだと、徐々に分かってくる。
「サッカー部で私の学年はもともと10人しかいなかったんです。それが4人くらい赤点で出られないことがあって、その中には上手い人もいたんです。6人では何もできないとなり、周りのチームメイトが何を考えたかっていうと、先生にボイコットです。俺たちも出ないと。私以外の9人がそうしたんですが、私1人が残ったというのが思い出です(笑)」
1対9の構図となってしまう。だが、客観的に考えてみると先生の意見にも一理ある。先生は先生で自分たちの学びの経験について真剣に考えてくれているのだと思える。だから、ボイコットするという選択には、どうしても踏み切れなかった。極端に少ない代となってしまったが、上の学年は20人ほどいたこともあり、なんとか部の運営は続いていった。
代替わりして3年になると、自分が部長になった。その頃には同期は3人ほど戻ってきていたが、後輩を率いていくには4人ではやや立場が弱い。下級生への伝え方を考えたりすることは、難しくもありながら面白かったという。
「当時の私は何か注意しなきゃいけないことを注意できなくて、副部長に言わせたりしていたんですよ。最近あいつの生活習慣が乱れてるから言っておいてほしいとか。部長なのに自分で言えないということを壁に感じたし、それをやっていると信頼してもらえない。何かあったら部員は副部長に話すという関係ができあがるので、それも悔しかった」
人前で話すことが苦手であること。それから相手の気持ちを考えすぎてきつく言えない性格であることも、壁にぶつかり初めて自覚した。
そんな自分を変えられたらと心の隅で願いつつ、当時はまだどうすればいいのか分からなかった。
高校、ハワイにて
将来自分がどうなっているのか。明確な展望は何もなかったが、最も影響を受けた存在といえばやはり父だった。
1つの会社で40年以上、定年まで勤め上げた。そこまで継続することもなかなか簡単なことではないと、あとから振り返ってみればそう感じさせてくれる背中だった。
「息子としての感情って面白くて、尊敬しながらも敵対なんですよね。頭が上がらないなと思う一方で、父を超えたいという感情もあって。高校くらいから父の立場を超えたい、越えるためにはどうしたらいいかと模索していました。自分磨きを少しずつ考えはじめて」
高校を卒業する頃は、正直進路に迷っていた。
父は付属校なのだからそのまま系列の大学に行けばいいと言う。しかし、やりたいことも見つけていないのに、ただ進学するというのもいまいち納得できなかった。むしろ強要されたようで反抗心が芽生え、思わず強い言葉が口をついて出た。
「私は父に『父のようになりたくない』って言い放ったんですね。父としてはその言葉が引っかかったみたいで。ずっとサラリーマンとして働いてきたにもかかわらず、子どもはそれを否定したと、そのときは父親と大喧嘩しました」
地方出身の父は、放送関係の仕事がやりたいという夢があり大学から上京した。一方、当時の父と同い年になった自分はやりたいことが見つかっていない。だから、分かり合えなかったのかもしれない。
とにかく素直に内部進学はせず、1人自分なりの道を模索しはじめた。
とはいえ、高校までサッカー一筋で来てしまった。そんな自分に残っているものと言えば、サッカーの指導か、そこに携わる人のサポートくらいしか見つからなかった。
コーチという職業はコミュニケーションが重要であり、高校時代の経験から自分には向いていなさそうであると分かった。医者か、理学療法士か。少し遠い気がしてさらに調べていくと、アスレティックトレーナー(AT)という職業と出会う。
「アメフトなど競技の試合中、フィールドの横で選手のテーピングをしたりしている人たちのことですね。選手のケガ予防や救急処置、リハビリだったり、医療とスポーツを繋ぐような立場から選手をサポートしたいと考えたんです」
いわゆるスポーツ医学を専攻できる大学は多くはない。その道も、現役ではセンター試験の点数が振るわず厳しくなった。
1年浪人し、もし受からなかったらと想像する。父に反抗した手前、言い訳はできない。それならいっそ日本での進学はあきらめ、海外に進学するのはどうかと考えた。ちょうど米国に従兄弟が住んでいたこともきっかけとなった。
「留学斡旋とかをしているヒューマン国際大学機構という塾に1年間通って、赤点だった英語をそこで勉強してから、米国の大学に留学しました。秋入学なので、高校を卒業して1年半後くらいですね」
米国、留学先のサッカー部にて(上段、右から2番目が小林)
トレーナーになるため、海を渡る。
米国カリフォルニア州の中央部、サンフランシスコよりも南東に120マイルほど。少し内陸に入っていけば、世界遺産として知られるヨセミテ国立公園の雄大な大自然が広がる。その玄関口として知られるマーセッドという街に、留学先のキャンパスは位置していた。
当たり前ながら住環境から気候まで、何もかもが日本と違っている。ホストファミリーのお世話になりながら、平日の日中は大学で勉強。夜は大学にある医療チームにスポーツトレーナーとして参加させてもらい、土日はそのまま大会についていく。新しい学びの環境は刺激に満ちていた。
「アメリカの大学って本当にいろいろな人がいて、60歳のおじいちゃんおばあちゃんとか、飛び級してきた15歳の子どもが一緒に学んでいたりして衝撃を受けました。教育が開かれているんです。ホームステイ先の父親もキャリアアップするために大学に通っているし、日本の大学はほぼ18~22歳しかいないことが主流だと思うんですけれど、この環境ってすごいなと思って」
学生層が多様であることは、休日の過ごし方にも影響してくるものだった。土日に暇があれば釣りに誘ってくれる同級生がいれば、サッカーや読書に誘ってくれる同級生もいる。人種も年代もばらばらな人々が、「学びたい」というただ1つの意欲のもとに集まっていて、だからこそ多彩な出会いがそこにある。
何より各々が人生のため懸命に学び、楽しんでいる。その影響力の輪に感動を覚えた。
「教育が人生を豊かにしてくれるんだと、周りもそうだし自分もそうだなと思ったんです」
学びの場にあるエネルギー。そこで花開く人生を目の当たりにしたような気がする。教育を通じて、人の人生をサポートすることへの関心が少しずつ高まりつつあった。
一方、当初の目的だったトレーナーという職業を仕事にする道は暗雲が立ち込めていた。
「当時はやはりコミュニケーションがだめだったんです。カウンセリングみたいな要素も入ってくるので、私生活どう?プレーどう?とかトレーナーも選手と1対1で対話するわけなんですが、高校の影響もあって、まして英語だし喋れなかったんですよ。あるとき先生に呼ばれて『コミュニケーションが苦手だから別の道を考えたら?』って言われて、半日くらい話して……。それが目的で来ているので、泣きますよね」
選手を前にすると緊張してしまう自分。適性がないと言われれば、たしかにそうなのかもしれない。同じ日本人でもコミュニケーションが得意な同級生は、やはり格段に信頼されていた。それに比べ、自分はチームの備品管理や発注など裏方を任されることが多く、なかなか表舞台に立てていなかった。
悔しかったが、どこか納得もいった。客観的に今の自分を直視すると、たしかにトレーナーは難しい。明日から来ないと、その場で話をした。
ちょうど同時期に留学していた日本人コミュニティの友人たちが卒業していくタイミングでもあった。1人宙ぶらりんな状態になり、進退を考える。
父にも反抗し、その父を超えるため自分なりに道を切り拓いてきたつもりだった。トレーナーになるため米国に来たのに、目的を失っている。それならいっそ自分の苦手な領域に目を向けるのはどうかと考えた。
スポーツ医学から専攻を変え、サンディエゴにあるグロスモント・カレッジに編入し、人間学とコミュニケーションを学ぶことにした。
「自分というものの身の丈を知ったりしましたね。(良い意味で)自分なんて所詮こんなものなんだと。でも、そのおかげで確立できた自分がいるんじゃないかとも思います」
異国での挫折。今、ゼロからのスタートを切る。
同時に、今までにない視点から自分を俯瞰できたような気もする。せっかくならこれを機に自分を変えたいと強い思いに動かされていた。
卒業というゴールが近づいていた留学4年目の夏、長期休暇中に日本へと帰国した。そろそろ就職を考える必要があったが、これ以上親には迷惑はかけたくない。しかも時代は就職氷河期と言われていた。
夏休みの1か月を利用して、就職活動をしてみようと考えた。
「当時は学んできた人間学が何に通じるのかを理解していなかったので、何がこれからの自分のためになるかなと考えたときに、衣食住のうちどれか1つを学んでおけばいいんじゃないかくらいに考えて。何で生きていくかは全然決められていなかったですね」
よく分からないまま就職情報サイトを見ると、偶然見つけた不動産会社の応募要項に「海外留学者採用」という枠を発見した。不動産なら「住」について学べそうだと、早速連絡する。状況を説明すると、通常3回の面接をすべて1か月内で実施してもらうことができ、内定に至った。就職先は急遽決まったこととなる。
「そこから怒涛でしたね。大学に戻って残りの授業を受けて、日本に帰ってきたら就職で。最初は神奈川県に配属になって。賃貸不動産の経営管理という名目だったんですけれど、いわゆるクレーム対応でした。滞納家賃の請求対応だったり入室退去の審査だったり」
新卒で管理部門に配属された人数は、片手分いるかいないくらいだと聞いていた。配属されてすぐに理由が分かる。雨漏りなどのクレーム処理から、家賃滞納者への督促まで。人間の嫌な部分に触れざるを得ない仕事である。ときには毎月家賃を滞納する入居者のもとへ催促に赴くこともあった。
「親は奥に隠れて子どもが私の対応をする家庭があったりとか、離婚してるという体で生活保護を受けて実際には一緒に住んでいるとか。親の収入とかバックグラウンドによって、子どもの将来が大きく決まってしまうんだと思って。そういう現実を見ていると、子どもに対して何かやってあげたいなという思いが強くなっていったんです」
その後、4年目からは仲介の部署に異動になったものの、思いは自分の中でくすぶったままだった。
やがて社会人5年目に差し掛かるくらいの頃、カンボジアで子どもの支援をする団体に所属していた友人の訃報が舞い込んだ。事件に巻き込まれ、不慮の死だったという。その葬儀の場で、偶然にも留学時代の日本人コミュニティで一緒だった懐かしい友人との再会があった。彼はちょうど起業を考えていると話していた。
「子どものために何かしたいという思いと、子どものために何かしていた人間が亡くなったこと、それから再会した友人が会社を立ち上げるという話が重なって、一緒にやらないかという話になったんです」
教育は世界を変える。海外の教育を見て以来、信じていたことを形にしたかった。年齢問わず、学ぶ楽しさを伝えていきたいという思いは、事業の原動力になった。
2016年、友人の設立した株式会社に参加する。それぞれのバックグラウンドを活かし、友人がコンサルティング事業で収益を上げ、自分の教育事業に投資していく形で走り出すこととした。5年ほどさまざまな展開を模索したのち、2021年頃からは各々が描く方向性を追求すべく、別の道を進むことになった。
2021年1月、一般社団法人IXSIAを自ら設立。理想の教育を提供していくにあたり、小林にはこだわりがあった。
「一般社団法人で作りたいと、強い思いがあって。理由は、営利と非営利の両側面を持つ経営をするためです。設立してみて、つらい茨の道を選んだなとひしひし感じていますが、それでもボランティア系とか保育事業は非営利目的がいいと思っていて。逆に、営利の部分では小学校受験塾と法人向けの動画制作事業など棲み分けをしています」
営利活動を目的とする株式会社とは違い、一般社団法人は営利を第一目的としない。収益を上げるための事業も行うことは可能ではあるが、株式会社とは一線を画す。
「すべては子どもの幸せの為に」と掲げた理念には、全ての経済活動は未来のためにあるべきという思いも込められているという。そこに私利私欲が入り込むことがあってはならないと考えるからこそ、選んだ法人形態だった。
すべては子どもの幸せの為に、この道で生きていくと小林は決めている。
みのり幼稚園小学部にて、プログラミング指導の様子
社会の固定観念にはとらわれず、小林は未来のための「教育」の概念を提唱する。
「一言で言うと『教育って楽しいよ』『学びって楽しいよ』ということを、少しでも多くの人に改めて知ってほしいと思っているんです」
最初の起業では、新卒社員向けに子どもたちの前で好きなことを語ってもらうという研修を企画した。子どもにいかに伝えれば興味を持ってもらえるか、どんなトークが対象の魅力を引き出せるのか。実際に喋ってもらうと、それぞれ何かしらの専門分野を持っていることが見えてくるという。
何よりそれを引き出すと「話して楽しい」という感情が生まれてくる。
「何か自分の好きなことについて喋るって面白くないですか?楽しくないですか?それってまさに教育になると私は思うんです。昔で言うおじいちゃんおばあちゃんの縁側の小言が子どもにとっては学びであったように、教育って本来伝達行為であるはずなので」
大学を卒業し、いわゆる「教育」とはもう縁がなくなった。そう感じている人もいるかもしれない。けれど、日常には教育や学びの機会が多くある。旅行に行く前に下調べをする。誰かと話すなかで新しい自分を発見する。どれも学びと呼べる。
だからこそ、教育や学びとは身近で楽しいものであるということ。もっとシンプルに捉えればいいのだということを伝えていきたいと小林は語る。
「誰もが先生になれるし、免許を持っている人だけが先生じゃないと思っています。自分の世界で終わらせることもできるけれど、誰かを一緒に巻き込んでできることもある。そういう開かれた教育の在り方があってもいいんじゃないかと思うんです」
たとえば、小林には構想中のアイデアがある。IXSIAの教室がある練馬区江古田の商店街をはじめとする地域を巻き込んだ教育プログラムだ。子どもが地域の人から学び、地域にとっては住む人との交流を通じて繋がりを深める機会となる。
俯瞰して見れば、そんな風に伝え巻き込んでいくことに教育の本質はあるのかもしれない。
教育とは誰かが何かを伝え、楽しさを喚起し自然と巻き込んでいくこと。
そう捉えられる大人が増え、何かのきっかけで子どもにも伝えていくことができれば、子どもにとっての学びの意味合いが変わってくる。そうなれば社会はもっと明るくなるのではないか。
大人も子どもも関係ない。教育や学びの機会を最大化し、楽しく実践する社会。そこに、まだ見ぬ明るい未来がありそうだ。
2022.4.28
文・引田有佳/Focus On編集部
学生時代の記憶を辿るとき、小林氏は一人の先生の存在を挙げる。当時中学校ではまだ、今より厳しい指導が容認されていた時代。どんなに攻撃的な態度を取る生徒にも、その先生は冷静な言葉で注意を促す忍耐力を持っていた。それこそ教師たる精神力なのかもしれないと、小林氏は振り返る。状況を俯瞰することで、感情的になりそうな自分から我に立ち返る。教師だけにとどまらず、指導者や上に立つ人に求められる普遍的な資質の1つと言えるのではないかとも。
あるべき姿を見せてくれた人と出会う以前から、小林氏自身、俯瞰することで前へと進む経験を重ねてきた。
壁にぶつかり自分の力量を突きつけられたときの反応は、人によりさまざまであるものの、なかでも現実を俯瞰し身の丈を知ることの意味は大きい。なんとなく期待していた自分の現在地が、実際はそれほどでもないのだという事実。その現実に目を背けず行動を重ねるからこそ、人は次なる自分へと成長することができるのかもしれない。
苦しい時こそ、自分を俯瞰してみる。小林氏の生き方は、人が前へと進むうえで普遍的にあるべき心の動きを教えてくれる。
文・Focus On編集部
一般社団法人IXSIA 小林亮太
代表理事
1986年生まれ。千葉県出身。米国グロスモント・カレッジにて人間学を専攻、卒業。2011年から約5年間の不動産会社勤務を経て、2016年よりコードブック株式会社取締役 兼 教育事業部部長を5年間歴任。上記期間に東京福祉大学社会福祉学部入学。2021年より一般社団法人IXSIA(イクシア)を設立し、「教育」を主体とした事業を展開。2021年3月、同時期、東京福祉大学社会福祉学部を卒業、幼稚園教諭一種免許取得。