Focus On
尾口紘一
株式会社Fan  
代表取締役
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or憧れの人を追いかけるうち、気がつけば、違う景色へと導いてくれる追い風の中にいた。
国内と海外、そして次世代へ。まちの誇りの架け橋となり、後世まで持続的に稼げるまちづくりを仕掛けていく株式会社地域ブランディング研究所。2018年2月からは、地域の枠を超え47都道府県すべてを投資対象とする「ALL-JAPAN 観光立国ファンド*」とサポート協定を締結し、宿泊施設や観光事業開発、ベンチャー企業といった投資対象のアドバイザーとして参画している同社。一般社団法人日本インバウンド連合会副幹事長、せとうち海の道戦略策定委員、福島県観光地づくりアドバイザーなど、まちづくりや観光にまつわる数々の専門委員を務める、同社代表取締役の吉田博詞が語る「人生を動かす上昇気流」とは。
(*三菱UFJ銀行が中心となり、さまざまな業界のリーディングカンパニーや地域金融機関が連携し創設された民間初、かつ最大規模の観光立国ファンド。)
目次
まちには、そこで生まれ育った人のアイデンティティがある。実家の窓から眺めた景色、小学校の帰り道に遊んだ田んぼ、家族に連れられていくのが楽しみだったスーパー。なにげない田舎の風景にも、誰かの日常があり、人生の軌跡があった。
「高付加価値型の稼げるまちづくり」により、持続的に活性化していく仕組みを創造していく株式会社地域ブランディング研究所。日本各地のまちの魅力を発掘・独自化するだけでなく、地域活性やまちづくりを担う人材の育成・採用マッチングまでを担う同社。展開するインバンド特化型の多言語日本文化体験予約サイト「Attractive JAPAN」では、信金中央金庫経由で各地の信金とも連携しながら、アジア欧米豪20カ国1000社以上の旅行会社ネットワークを活用、国別の誘客コンサルティングによる確実な集客を支援している。
学生時代からまちづくりに関心を持っていた同社代表取締役の吉田氏は、筑波大学在学中、「都市計画」を学ぶかたわら、日本各地そして世界各国の都市や地域を巡礼した。
「地域創生」という言葉すらなかった時代、各地で活躍する地域活性プロデューサーと呼ばれる人たちに弟子入りし学び、新卒でリクルートに入社。2005年からは株式会社地域活性プランニングにて、映画やドラマを活用した地域・施設の集客やコンサルティングに従事した。高まるインバウンド需要のなか、2013年、株式会社地域ブランディング研究所を設立した。
「小さいコミュニティの中でどう見られるかとか、そのなかで秩序を保つことに対する意識が強かったのが、地元広島にいた時代ですね。周りの目を気にするというよりかは、目の前のことに集中してのびのびとやるようになった。それから徐々に、アイデンティティとか、自分の興味とかが芽生えてきたんです。」
高校までは周りを気にし、人の目におびえて生きていた。地元を出て、大学で出会えた「自分」の見る世界は違っていた。自分は何に興味があり、何をやりたいのか。どう生きたいのかを等身大で言える自分がいた。
コミュニティの中と外で「自分」を見出し、信じる道を切り開いてきた吉田氏の人生に迫る。
「訪日観光客を2020年に4000万人、2030年に6000万人を目指す」。2016年、「明日の日本を支える観光ビジョン構想会議」において、政府が掲げた国家戦略目標である。
観光庁の「平成29年訪日外国人消費動向調査 トピックス分析」によると、2017年に日本を訪れた外国人観光客のうち、2回目の訪日だった人の割合はおよそ6割にのぼるという。訪日リピーターは、東京、富士山、京都、大阪など、オーソドックスな日本らしさを提供する定番の観光コースは周り尽くしている。目の肥えた彼らを満足させるためには、主要観光都市だけでは足りない。
人口減少や国際競争にさらされる観光産業。掲げられた目標を達成するためにも、いまこそ、どこまで日本各地のまちの魅力を確立させ、差別化できるかが試されている。
「わざわざ行きたくなる、自慢したくなるまちづくりや、お金を払ってでも体験したくなり、ファンやリピーターが根付いていくような地域経済の創出。地域の生き残りの方策として、地域のイメージをブランド化させ、地域産品や観光で一つの産業をつくり上げ、自ら稼げる地域をつくっていく手法が注目されはじめています」
同社の名刺には、社員それぞれの故郷の誇りが表現されている。
「モノ」から「コト」へと消費の主流が移り変わりつつある時代。地域の「稼ぐ力」を引き出し、地域への誇りと愛着を醸成する観光地域づくりの舵取り役を担うのが、DMO(観光地経営組織)と呼ばれる組織である。彼らは内外の人材やノウハウを取込みつつ、多様な関係者と連携し観光地域づくりを実現する。
株式会社地域ブランディング研究所は、各地のDMOを支援する存在として、これまで眠っていたまちの魅力を発掘し、物語として編集、外国人向けの体験型プログラムなどへと落とし込んでいく。インバウンドのマーケットトレンドを熟知する同社だからこそ、地域の観光資源や歴史、文化を、外国人ニーズに沿った形で魅力づけしていくことができる。
必ずしもすべての地域が、地域ブランディングをしていく必要はない。けれど、差別化できる潜在的な強みをもつ地域がそれを磨くことができれば、日本の観光産業は強くなると吉田氏は考える。
「そもそも『地方創生』や『地域』という文脈は、事業化のハードルが非常に高い領域でもありますし、根回しとかいろんな文脈を紐解いていかないといけないので、どこかで成功したビジネスが、ほかでも簡単にできるかというとそうではない。地域って、いろんな複雑な人間関係とか政治とか利害関係があるなかで、順番ややり方が大事でです。どこの誰をどのタイミングでどう押さえていけばうまく回るのかということを、我々は経験則としてどんどん蓄積しています」
同社では、地域活性化に向けた集客・ブランディング事業だけでなく、地域を都市から開発するディベロッパー領域や、まちごとの活性化の未来を担う人材の採用マッチング領域でも事業を展開している。まちの魅力をストーリー化する編集力や、ファンづくりにむけたマーケティング力などが体系化され、同社にしか提供できないソリューションが日々進化していく。地域ブランディング研究所には、地域活性がビジネスとして成り立つノウハウが集約されていくのだ。
「我々は引き出しをいっぱい持っているからこそ、まちごとに提供できるソリューションも多くなる。持続的に稼ぐことができる仕組みを作っていって、究極的には、我々がいなくても地域の人たちが自走していく状況をつくっていきたいと考えています」
同社が目指す姿は、「地域のプロデューサー輩出企業」であるという。リクルートが人材輩出企業と言われるように、同社で経験を積んだ地域のプロデューサーが、日本全国のまちを盛り上げていく。その地域に合わせたソリューションを、各地のプロデューサーがきちんと提供できるような未来を、吉田氏は描いている。
「地域系で何か面白いムーブメントが起きていたら、そのキーマンは『また“地ブラ(同社の略称)”出身じゃん』って言われるぐらい、弊社にいた人たちが各地で活躍してくれて、その総本山であるこの会社自体も、彼らが仕掛けているもの以上に面白いものを仕掛けつづけている。それが有機的なゆるいネットワークでつながって、何か描いたときにうまくアサインされて、各地でいろいろな形でにょきにょきと沸き起こっていく。そんな状態を作ることができれば、日本各地のまちらしさも、もっともっと磨かれていくと思うんです」
古き良きまちの歴史と、新しい時代をつなぐ地域ブランディング研究所。そこに住む人が誇れるまちらしさを磨き上げ、世界から見た日本らしさをアップデートする。まちを蘇らせる多種多様なノウハウが蓄積されていく同社は、次世代のまちづくりのエコシステムの中枢を担っていく。
波おだやかな瀬戸内海にのぞむ港町、日本三景として有名な宮島の対岸に位置する広島県廿日市市(旧・大野町)に、吉田氏の故郷はある。
よくある田舎に生まれ、特別な夢があったわけでもなく普通に育ったと語る吉田氏。二人の姉をもつ末っ子長男で、遊び相手になってくれた姉や大人たちには小さいころよく甘やかされたという。
祖父母は家業として飲食店を営んでおり、主に長距離ドライバー向けのドライブインとして古く愛されていた。店の名前は「大野モーテル」。宿泊の機能があるわけではない、ありふれた食堂だ。英語の意味もわからず、祖父がつけた名前である。
日中は母も店の運営を手伝い、父はプロの競艇選手として活躍する人だった。
家に帰ると、いつも従業員のおばちゃんたちがいて、幼い吉田氏はよく「大将、大将」とかわいがられていた。
「ちやほやされたり、かわいがってもらえるのが当たり前みたいなところはあったかもしれないです。その意味では、実家が商売をやっていたところと親父が特殊な仕事をやっているということを含めて、『いわゆるサラリーマンはつまらなくて、自分は将来何かやってやるんだ』みたいな思いは、なんとなく醸成されていたのかもしれないですね」
幼い吉田氏に対し、父は「先にやれ、一番になれ」と口癖のように言っていた。プロの世界で活躍する人だったからこそ、誰よりも一番になることの意味を教えてくれていたのかもしれない。世の中や社会のことについて、さまざまな場面で教えられていた。
「小さいころから、『需要と供給』みたいな話をよくされていたんです。子どもなのでよくわからなかったんですけど、世の中は需要と供給なんだと、それだけはしょっちゅう言われていました」
たとえば、旬の苺が食べたいとき。その値段はいま、需要と供給のバランスで高くなっているだけなのだから、もう少し待った方が安くなる。そんな文脈で、小学校のときから世の中の原理原則や社会について教えられていた。
当時は深く考えていなかったが、そんなところから世の中や社会への関心、感覚は養われていたのかもしれない。小さいころからなぜか、ニュース番組が好きだった。
振り返ってみると、中学校の卒業文集では、将来の夢として「吉田コーポレーションの社長になる」と書いた。社長というものがなんなのかすら、よく理解していなかった。けれど、目の前に広がる社会からの期待、親の期待に幼いなりに応えようとしていた。
「言われてみると、常に承認欲求の塊かもしれないですね。いろんな部分でより良いものを作って感謝されたいとか、『いいね』と言われたいとか、『会って良かった』って言われたいとか。幼少期がすごく愛情も含めてToo muchな環境でもあったりしたので、そのなかで生きていて、もしかするとちやほやされるのが当たり前みたいな環境だったから、ほかのコミュニティでも認められたいと思うようになったのかもしれないです」
大人たちに囲まれ、愛情あふれる環境で育ってきた。人に認められることや、受け入れられることに気づけば価値を置くようになり、人との関わりやコミュニティ内での振る舞いには、そんな承認欲求が反映されるようになっていた。
幼いころは、自分自身の意思よりも、何より周囲の期待に応え、褒められることが重要なものだと思っていた。
祖父母と吉田氏。
親や先生の期待に応えたり、評価されたい。それは、学校というコミュニティも例外ではなかった。そのためには、良い成績を取らなければと考えていた吉田氏。ふざけるときはふざけ、真面目なときは優等生になる。普通の子といえば、普通の子だったと語る。高校生くらいまでは、良い意味で先生にかわいがられるような優等生を演じていた。
「ある種そこで評価されるのが正解のように思っていたので、そこに合わせにくいみたいな感じですね。自分が何をしたいかというよりも、社会的な評価軸に適合して合わせていって、そこでの評価を求めて生きていく」
勉強はそこそこ頑張り、学級委員の立候補や児童会では積極的に手を挙げた。当時はただ認められたいという欲求があり、親や先生が言うことには素直に従っていた。
学年でも1位2位を争うほど、背が小さかったという吉田氏。いじめられるのではないかと心配した父に、強制的に空手を習わされたときも、何も面白くはなかった。けれど、素直に言うことを聞いていた。
小学校6年生のときの担任の先生には、最後の体重測定で30キロの大台を越えようと、言われたとおりたくさん水を飲んでギリギリ大台に達した。好きだった担任の先生の期待にも、積極的に応えようとしていた吉田氏だった。
「小学校6年生のときの担任の先生は、良い先生でしたね。学級会を大事にする先生だったんですよね。みんなでちゃんと考えようとか、ちゃんと学級会はみんなでルールを決めて、みんなで何かを成し遂げるみたいな雰囲気づくりがうまい先生で。熱く打ってくるので、こっちも熱く返したくなるような感じでしたね」
ひねくれるという選択肢もなく、素直に熱く返していたという吉田氏。クラスのなかでも、先生にどう見られるかは重要だった。周囲の期待に応えることこそが価値なのだ。
それは友人との間でも同じだった。
学校の帰り道、田舎なので自然のなか遊べるスポットは数え切れないほどあった。水路でフナやおたまじゃくしを捕まえたり、田んぼに侵入して遊ぶ。ついつい友だちと夢中になってしまい、田んぼのおじさんに怒られたり、帰宅が遅くなり親に怒られもした。しかし、みんなと遊ぶ時間は楽しかった。
登下校が一緒の友人たち。そこでも吉田氏は、自分がどんなポジションを築くかを意識していた。
「当たり障りのないよう変に目立たず、目立つといじめられるじゃないですか、だから基本は同調するんですかね。あれしたい、これしたいというよりかは、流れがあればそれに同調していく感じでした」
悪目立ちしないよう振る舞い、みんなの顔色を見ながら人と付き合っていた。一人だけ和を乱すような言動をすれば、のけ者にされるかもしれない。さみしがり屋だったのか、一人ぼっちになることは避けたかった。
「家がいわゆる団地からちょっと離れたところであったので、帰宅後自分だけみんなと遊ぶことができない環境だったんです。急に孤独になるっていう感じなのか、みんなと一緒に帰っていたのに、急に自分だけ一歩先に行くみたいな。ずっと誰かと一緒というよりも、帰ったらポツンと一人になるみたいな環境は強制的にありましたね」
物理的な距離が離れていたからこそ、自分だけ仲間はずれになるのではないかという不安もあった。仲間との関係を壊したくなくて、本心は隠し目立ったことはしないようにした。
無理に同調していたからか、心の中では一歩引いているような感覚もあったという。
仲間と同じ時間を過ごすなかで、ふと感じる孤独。そこで自分がどう振る舞い、どういったポジションを築くのか。いかにコミュニティのなかで、自分という存在を認められるか。いつしか吉田氏には、コミュニティに対する意識が生まれていた。
「両方中途半端にするよりは、やるならやりきれ」という父の考えがあったのかもしれない。中学受験を前に父からは、勉強かスポーツ、どちらか一方を選ぶよう言われていた。比較的結果を出していた勉強を選んだが、特別それが好きだったわけではなかった。
中学は受験をするのが当たり前の家庭であったことも手伝い、姉と同じように私立を受験した吉田氏。優等生を演じてきた手前、同級生には私立に行くのだと威勢を張っていたが、結果は全滅。気まずい思いをすることになりつつも、仕方なく公立の中学校に通うことになった。
「中学受験、高校受験、大学受験すべて自分第一志望に入ったことがないんですよね。人生そんなにうまくいっているわけではないところがありまして、努力しても叶わないものがめちゃくちゃあるくらいの感覚で。努力しても道は開けないというか、そこは挫折の連続でしたね」
私立の中学受験に失敗し、公立の学校に入学したことは、結果的には良かったのかもしれないと吉田氏は振り返る。もしも私立の中学校に通っていたら、毎日片道一時間の道のりを電車に揺られ、さらに優秀な同級生に囲まれる環境で疲弊してしまっていたかもしれない。公立中学では勉強の競争に追われることもなく、住み慣れた田舎でのびのびと日々過ごすことができた。
「中学のコミュニティがもし私立だったら、周りに優秀な人がいっぱいいたかもしれないですが、公立だと優秀な人は私立に行って抜けてくれているので、残ったメンバーのなかでいうと『そこそこあいつはできるやつだ』みたいな、そんなポジションを確保できたのは嬉しかったですね」
勉強はそこそこ普通にがんばり、成績もほどよく評価される。特別秀でるような教科はなかったが、理科社会は好きだった。
「単純に暗記科目が好きだったんですよね。考えることは苦手だったんです」
覚えることが得意かどうかは分からない。けれど、考えるよりは努力が結果につながりやすいという感覚があった。授業で習ったことや単語帳を繰り返し覚え込めば、ある程度テストで点数が取れる。数学のように思考力が問われる勉強は苦手だったのに対し、暗記科目は努力した先が見えやすかった。
当時、厳しかった父にはびくびくしながら育ったと語る吉田氏。「げんこつ」されるのが怖いと、言われたことにはただ従っていた。中学校に入ると、今度は部活もやれと言われ、サッカー部に入ることにした。
「サッカー部はつらかったですね。軍隊というか、先輩が暴走族なんですよね。だから、めちゃくちゃ縦社会で、サッカーを楽しむ余裕なんて一切なくて、先輩に怒られないためのプレーを一生懸命するみたいな、本当にビビってビビって怖くてたまらなかったです」
一つ一つのパスやプレー、言葉遣いや態度など、先輩には細かいことでいつも怒られた。できる後輩はかわいがられるが、怖がっておどおどしていると余計に怒られる。辞めたらどうなるかもわからないので、中学3年間、途中で辞めずにやりきった。
「そのときは怖くて何も考えていませんでした。ただ自分のコミュニティを持ったときは、そこが居場所になるみたいな感じなんですよね。クラスとか自分の仲間内とか、そこは安心できる場所でしたね」
進路や部活選びを、自ら「考え」、選択してきたわけではない。それでも、コミュニティの存在は大事だった。部活というコミュニティでは常におびえていた一方で、心安まる居場所もあった。クラスメイトや、同じサッカー部のなかでも、小学校から仲が良かった親友。そんなコミュニティは、より大切なものに感じられた。
中学では勉強もでき、一定の評価をもらえる自分なりのポジションを築けていた。心安まるコミュニティにも出会えた。
受験で味わった挫折。「一番になれ」という父の教えにも、自分なりの努力の方法で応えることができた。こつこつと努力した結果、それが評価される。自分の力で居場所を創り出すことが、少しずつできている気がしていた。
高校は、地元広島でも中堅の私立に入学した吉田氏。ちょうど学校独自の制度改革の時期であり、男女共学化や習熟度別クラスなど、当時の教育の最先端が積極的に導入されていくタイミングだった。
学校全体にも多様な価値観を受け入れる風土があり、修学旅行では各々が6つほどのコースから選択する自由があった。北は北海道から南は沖縄、海外ではカナダやマレーシアなど、それぞれの興味に従って、広い世界を見てくることが奨励されていた。
「学校全体で新しいものを取り入れ、視野を広げようというマインドがあったのかもしれないです」
仲良くなった友人に誘われて入部したテニス部も、それぞれがのびのびと生活する環境だった。新しいものを取り入れていこうとする学校の変革期であり、それを面白いと感じる生徒が集まっていたからかもしれない。変に肩肘張る必要がなく、のびのびと素の自分でいられる環境は、大切にしたいと思えるものだった。
「テニス自体も楽しかったんですけど、そいつらと一生懸命やるっていうのがとても楽しかったんです。結果的なところなんですけど、その仲間はいまグローバルで活躍しているんですよね。タイやインドネシアとか各地に行っています」
同期だけでなく先輩後輩含め、いまでも定期的に集まるほど深い仲だという。全国大会に出場するようなチームだったわけではないにもかかわらず、その絆は不思議ととても強かった。
さらに吉田氏にとって新鮮だったのは、勉強に対する考え方だった。
試験週間になると、中学時代は勉強したことをお互い隠しあうような空気があったのに対し、高校では勉強することが当たり前という共通認識があり、周囲の目を気にせず、目の前のことに集中することができたのだ。
「それまで変に気にしていた部分の半数ぐらいは気にしなくてよくなって、共通の価値観のなかにおけるアイデンティティみたいなものだったりしたので、自分が勉強したいときは勉強したり、自分が大事にしたいところを発信しても、『何お前だけいきがってんの』みたいに言われない環境だったのが良かったです」
昔は地域の狭いコミュニティのなかで、バランスを崩してしまうことのないよう、みんなの顔色を伺っていた。怒っている人はいないか、悲しんでいる人はいないか。自分がみんなの顔を見て、バランスを保つ役割を担ってきた。高校からは一転、自分らしく自由に生きることができるようになっていた。
「その辺から徐々に同調圧力ではなくアイデンティティというか、自分でやりたいことを主張したり、自分の興味とかが芽生えてきて、ある種自分の居場所というものをより感じられるようになったんです」
高校では共通の価値観があり、お互いを認め合い、尊重しあう環境があった。無理に周囲に同調する必要もなく、本来心に芽生えていたはずの自分の意思や興味を表に出せるようになっていった吉田氏。自分のアイデンティティというものを掴みかけていた。
中学までの勉強は、努力が結果につながりやすい暗記科目が好きだった。しかし、高校では英語という科目の面白さに出会い、興味を惹かれていった。一つのことを覚えると、さらに次へと知識がつながっていく感覚。いつしか理科社会よりも、英語が一番好きな科目になっていた。
「先生が良かったのかもしれないですね。その人についていけば面白い先がある、努力すれば成績が上がっていって、結果がついてくるという感じでした」
改革期にあった学校で、先生たちもどんどん教育を変えていこうという志を持っている人が多かった。特に、成績順に習熟度別のクラス分けがなされていた英語と数学は、先生もアグレッシブで、教科書をなぞるだけの単調な授業はしていなかった。上位レベルのクラスを受け持つ先生が好きだった吉田氏は、良い成績を維持することで、その先生の授業が受けられるようにと勉強も頑張っていた。
「テンポがいい先生だったんですよね。授業も分かりやすかったし、そのテンポについていくために努力するし、宿題とかも一生懸命やっていました」
暗記科目など、努力がすぐに結果に結びつくものの方が一番になりやすいと思っていた。けれど、英語の先生についていくと、自分の想像を超えた面白い世界を見ることができた。
信じれば努力は力に変わり、その人は新しい世界を見せてくれる。誰かについていきたいと願い、その人の教えを素直に吸収していこうとした結果、努力は自然とできるものだった。そこでは、教科書通りの勉強だけではない、もっと大切な何かを教えてもらえたのかもしれない。
高校卒業後の進路を選択するにあたり、深く自分の興味について考えていたわけでなかった。学校の先生からは「迷ったらとりあえず潰しがきく理系にしなさい」と言われ、親からは「理系なら建築土木が良いのではないか」と言われたので、なんとなく面白そうだとそれに従っていた。
当時は、関西人になりたかったと語る吉田氏。広島の田舎に生まれ育ち、関西に憧れがあった。本当は関西の大学に進学したかったが、センター試験で失敗し、諦めざるを得ないという挫折を味わった。唯一救いだったのは、社会科目のなかで選択していた「政治経済」だけは特別点数が良かったことだった。
「世の中の動きっていうものが純粋に面白いと思っていたんですかね。大学受験のとき、ほかの勉強に詰まったら、とりあえず政治経済の教科書を見て、ばーっと暗記するみたいなことが多かった。そのおかげで、センターも数問間違いだけで点数が良かったんです」
幼いころを振り返ってみれば、たしかにニュース番組や選挙特番が好きだった。テレビで流れていれば、つい見てしまう。昔からなぜか、社会や世の中というものに興味関心が高かった。
筑波大学で都市計画を学ぶことになったのは、巡りあわせもあった。たまたま後期試験の傾斜配点で、社会科目が2倍に設定されていたのだ。本来は受験レベルを下げなければならなかったところ、政治経済の好成績のおかげで、吉田氏は合格圏内に入ることができた。
「全然選択肢になかったんですが、この『都市計画』っていう概念がすごく面白そうだなと思ったんです。模型が並んで、それを囲んでみんなで語り合っている。建築図面作りますとか、土木とかじゃなくて、都市計画で都市を作るっていうのはすごいなと思ったんです」
ビルを一つ建てるのではなく、まち全体をつくること。構造物や橋ではなく、自分がまちそのものをつくる過程をイメージすると、そのスケールの大きさにたまらなくわくわくした。
広島という地元、過ごした時間。狭い田舎をコミュニティと捉え、考えていた吉田氏だからこそ、まちづくりというものに興味を惹かれたのかもしれない。まちづくりはコミュニティづくりそのものだ。
「関東に出ると地元に帰ってこなくなるのではないか」という親の反対を押し切ってでも、「都市計画」という概念そのものに魅了され、自分の興味に向かって進んでいきたかった。
希望通り筑波大学に進学したが、当時はコンプレックスの塊だったと語る吉田氏。
周りの同級生はみな雑誌に載っているようなおしゃれな都会人。一方、自分は田舎から出てきた小僧だと感じていた。
「田舎から出てきて、背伸びしていたんですよね。東京生まれのイケてる子たちがいっぱいいて、ファッションセンスもめちゃくちゃ良くてかっこいいし。自分もそいつらに合わせようと思って一生懸命話すんだけど、そしたらクラスで一番可愛い子から『ひろし、なまってるー』とかって言われて、ショックで(笑)。こっちは一生懸命東京弁で話そうと思ってるのに」
東京で育った同級生と比較して、自分に劣等感を感じていた。悶々と過ごす大学生活であったが、興味のある領域を勉強できるのは楽しかった。
都市計画を専攻するからには、いろいろなまちを知っておくべきだろう。そう親友と思い立ち、一緒に日本中を旅して回った。ヒッチハイクと野宿をしながら、3週間ほどかけて日本全国津々浦々を縦横断した。
まずは大学のある茨城県からスタートし、日本海側へと抜ける。能登半島を一周して紀伊半島へ。関西から四国・九州をまわり、最後は地元広島へと帰った。
地平線に日が沈んでいく夕暮れの田園風景。聞こえてくるのはひぐらしの鳴き声ばかりで、のんびりと時間が過ぎていく。ローカル線が走る無人駅には、一時間に一本しか電車が来ない。
吉田氏にとっては見慣れた、ありふれた田舎の風景の連続だった。
しかし、東京生まれの親友はその「ありふれた」風景に心から感動していたのだ。
「大学に入ったとき自分はコンプレックスの塊でしかなかったのに対して、自分が幼少期当たり前に過ごしてきた環境に、東京で生まれ育った友達は『田舎ってすげえいいじゃん』ってすごく感動していたんです。都会の人からすると、そこに憧れであったり良さを認めてもらえる。じゃあ、自分が育ってきた環境っていうのは、誇れるものがいっぱいあるんだと思いました」
東京生まれだった親友は、吉田氏からすれば、良いものをすべて持っているかのような憧れの存在だった。そんな彼に、自分の生まれ故郷を認めてもらえたこと。それはあたかも、田舎から出てきた自分という存在まで肯定してもらえたようだった。
都会だけでなく、日本には良い空間が、良いまちがたくさんある。「普通の」田舎などない。都会と比べて卑下するものでもない。日本中のすべての場所が誇り高い場所なのだ。吉田氏の生まれ故郷もそうだった。大切なことを知った、かけがえのない旅。
さらに、その経験は吉田氏にとって、それ以上の意味をもつものでもあった。
「自分で考えて、自分でジャッジして、自分でチャレンジすると道が開ける。その感覚が一番ばーっと芽生えたのが、ヒッチハイクのときだったんですよね。『なんだ、周りとか気にせずに自分の興味があったものに突き進んでいくと、視野が変わるんだ』っていう原体験でしたね」
何かに挑戦しようとするとき、「そんなことできっこない」と言われることはたくさんある。しかし、自ら考えチャレンジしてみると意外とできてしまうことがある。そこで得られる経験には大きな価値があるばかりか、結果として周囲からも一目置かれることになる。
自分の生まれ故郷やアイデンティティといったものを大切にしながら、自分の興味に対し、もっともっと突き進んでいきたい。そう、吹っ切れたきっかけがヒッチハイクの旅だった。
それまで同調圧力の中に生きていた吉田氏は、「自分は自分の人生を歩んでいいのだ」という、シンプルな答えにたどり着いていた。
ヒッチハイクをしていたころの吉田氏(写真左)。
日本各地のまちを訪れ、数え切れないほどの魅力を目にしてきた吉田氏。今度はもっと広い世界を見てみたいと、バックパッカーとして旅をした。一人東南アジアを巡ったり、3週間ほどかけてイタリア18の都市を見て回った。
東南アジアで刺激を受けたのは、何より成長していくアジア特有のパワー、そしてエネルギーあふれるまちを舞台にポジティブに生きる人々の営みだった。一方イタリアでは、フィレンツェやローマ、ヴェネツィア、ナポリなど、都市国家としての歴史の重みが残る空間を目の当たりにした。
「イタリアでは、空間っていうものが一つの世界観やストーリーを通して残っていたんです。まちの真ん中に広場があって、そこに教会やマーケットがあったりして、まちのセンターっていうものが明確で。そこにはサッカーのチームもあったり、いろんな誇りやアイデンティティというものがめちゃめちゃある。一つ一つのまちで、こんなにも表情が違うんだと思いました」
他方、ヒッチハイクで回った日本を思い返すと、どこのまちも同じような表情を見せていた。駅前には消費者金融かパチンコがあり、市街地はどんどんとスプロール化し、郊外のロードサイドショップに取って代わられている。メガモールが作られていき、まちの中心はなくなりりつつあった。
「日本のまちはすごく消費されていて、そのまちらしさって何だろうと。利便性とか、短期的な経済システムの効率性だけでまちがつくられていて、イタリアとは対極だったんですよね。ていうのを感じたときに、『日本のまちやばいな、いいものがたくさんあるはずなのにどんどんまちが消えていくっていう状況を何とかしたいな』と、ふつふつと思いが湧いてきたんです」
地域活性化という領域で、もっともっとそのまちらしさを際立たせ、地域というものを輝かせていくお手伝いがしたい。本来あるべきその土地ごとの誇り高いアイデンティティが、日本にもあるはずだ。
人生をかけて突き進みたいと思える道が、吉田氏の眼前に開けていた。
吉田氏の故郷、広島県廿日市市の風景。
当時はまだ、「地方創生」という言葉もない時代だった。地域の活性化について調べていくと、その分野に関わる書籍や、活躍している人物も限られていた。行動すれば道は開ける。どんな小さな芽であってもチャンスはつかみたいと、吉田氏はそれらを片っ端からあたっていった。
「その分野の第一任者の人、たとえば藻谷浩介さんは『里山資本主義』という本を書かれた有名な方ですね。ほかにも、吉本興業で『笑いで地域をプロデュースする』ということをやられていた大谷由里子さん。祭りで地域を活性化するということで、北海道でよさこいソーランをゼロからしかけた長谷川岳さんであったり、あとはエクスペリエンスマーケティングを推奨されていた藤村正宏さんとかですね。いろんな人の本を読んだりして面白いと思ったら、いきなり連絡していました。『あなたの生き様にすごく感動したので、弟子入りしたいんですけど』と(笑)」
名前を挙げた人物は、そんな吉田氏を受け入れてくれた人たちだという。鞄持ちとして、憧れの人たちの行く先々について行かせてもらい、勉強させてもらった。
地方の活性化の手法もそうだが、生き方を学びたかった。どうすればこんな人たちになれるのか、そのスパイスを知りたいと考えていた。
なかでもOB訪問で出会えた藤崎愼一氏のもとでは、その後も長きにわたり、多くのことを学ぶこととなった。学生時代、当時リクルートにあった地域活性事業部という部署でアルバイトする機会を得たことも、同氏のおかげだった。
「あるとき『お前そこまで思いがあるんだったら、手弁当でいいからこのイベント手伝いに来ないか』と言われたので、『あなたの下で勉強できるなら何でも手伝います』みたいな感じでイベントに行ったんです。自分の人生がかかっていると思って、元気よくはきはきと動きましたね」
アルバイト先の地域活性事業部は、『じゃらん』や『B-ing』、『ホットペッパー』など、当時リクルートにあった地方系メディアを中心に、社内のリソースをフル活用することができた場所だった。
中央官庁や行政などのコンサルティング案件を取りに行きながら、地域の課題を解決していく。各部門のトップ営業マン10人ほどが集まる人気の部署で、吉田氏は学生ながらアルバイトとして経験を積ませてもらうことができた。
夢中で追いかけた背中。その人を信じてついていけば新しい世界が広がるはずだ。目の前にチャンスが降ってきたなら、どんな形であってもつかみ取りたかった。人生をかけて成し遂げたいと思えることと出会った吉田氏は、すべてはそこからはじまると信じて疑うことはなかった。
学生時代、恩師である藤崎氏(写真左)と仕事をすることになったきっかけのイベントにて。
(写真右から二番目は、『時をかける少女(1983)』『転校生(1982)』『さびしんぼう(1985)』などで有名な映画監督の大林宣彦氏)
アルバイトをきっかけに、新卒でリクルートの住宅情報部の営業として働きはじめた吉田氏。リクルートでの仕事はとにかく楽しかった。当初は2、3年営業として修行するつもりでいたが、1年後、久しぶりに声をかけてくれた恩師・藤崎氏が経営する地域活性プランニング株式会社で働くこととなって以来、そこで7年の月日を過ごした。
はじめは、日本全国のロケとグルメにまつわる地域情報を発信する紙媒体の広告営業から、映像関係者がロケ地検索に使う『ロケなび!』というWebメディアの立ち上げ、そのほかコンサルティングの仕組み化など、幅広い仕事に携わる機会を得た。
「『地域の活性化』という自分の興味がある分野で、ある種第一任者としてそれを事業化していて、国のいろんな委員も歴任しているような、そういう人のそばで一番弟子みたいな立場になって、各地のセミナーやワークショップに一緒についてまわらせていただきました」
そこで得たものは、興味ある分野に関する知見だけでなく、何よりも「考える力」だったという。
任された仕事を仕上げ、ボスである藤崎氏のもとへ持って行く。すると毎回、「ここがなっていない」と、考えやリサーチの甘い部分を指摘される。それを何度も繰り返すことによって、徹底的に「考える力」を鍛えられた。
「リクルートのときはブランド力があったりするので、自分も感覚で生きていました。自分が面白いと思ったことを考えて落とし込む。優秀な人はそういう力があるんですけど、自分は考えられなかった。この藤崎という人からは徹底的に考えるよう、なんでなんでと詰められまくる。徹底的に繰り返して考えさせられるんです」
脳の使っていなかった部分を否が応でも動かされ、思考のサイクルがぐるぐると回り出す。リクルート時代の仕事は分業制で、編集作業において制作に丸投げしていたようなこともすべて自分で考えさせられた。自らラフを組み、キャッチコピーを考え、何を伝えたいか落とし込む。苦心の末生み出したアウトプットは、繰り返し差し戻されるなかでブラッシュアップされていく。
つらくもあったが、それは同時に、プロデュースする楽しさややりがい、達成感も教えてくれるものだった。
ある程度仕事の全体像を学ばせてもらった7年間。吉田氏の胸に芽生えたのは、「自分自身で会社をやってみたい」という思いだった。サービスの在り方自体から変えていくことで、次なる成長が見込めるのではないかと考えていた。
「『これからはインバウンドだ』みたいなところも徐々に言われはじめたりしているタイミングだったので、じゃあ自分はインバウンドも含めて、もっとチャレンジしたいと思ったんです」
高まりつつあったインバウンドの気運、わき起こるアイディア。新しい挑戦には打って付けのタイミングだった。考える力がついたからこそ、世界の見え方が変わってきた。
2013年、「まちの誇りの架け橋」というビジョンを掲げ、株式会社地域ブランディング研究所は設立された。
自分のアイデンティティを見出し、人生をかけて成したいことに向かう吉田氏。これまでの37年の人生を振り返ったとき、道を開くことができた要因はなんだったのだろうか。
「一回踏み出してみると、いろんな人がいろんなチャンスを提供しはじめてくれるんです。自分が何かするよりも、そこで来たチャンスを掴みつづけていくと、本当に自分がぐーっと上昇気流や竜巻に巻き込まれていくようになる。そこに入れるかどうかの違いだけであって、本当に入った瞬間に、あとはもう上昇気流かのようにぐぐぐと周りの力で駆け上がっていけるんだなっていう、そんな感覚を自分は持っています」
小さいころ学校の先生の期待に応えようと、新しい挑戦に立ち向かっていったとき。大学生のとき、親友と二人、ヒッチハイクで日本全国を縦横断する旅に出たとき。地域の活性化の第一人者たちのもと、日本全国を回りながらそのリアルな生き様を学んだとき。自分が良いと思ったものに向け夢中で走るうち、気づけばプラスのスパイラルに乗っていて、新しい景色が見える場所にいた。
「(もしも一歩踏み出すのが怖いときは、)小難しく考えないことかもしれないですね。とりあえずやってみようと、チャレンジしたら状況が変わるから。そこを頭でっかちに考えるんじゃなく、信じてとりあえずやってみる」
確固たる理由はなくてもいい。なんとなくでも良いだろうと思ったものを、自分のなかでやりきると決める。
その結果、これまでの人生にない新しい学びや気づきを得られるはずだ。それを振り返りながら進んでいくことで、少しずつできることは増え、自分が成長していく。繰り返していけば、次のチャンスが現れるのだ。
自分のこれまでの生き様や人生に固執するのではなく、自らのアイデンティティの片鱗に触れ、未知の領域であろうともチャンスを信じて拾ってみる。そこからはじまる「正」のスパイラルに乗ることで、人生が変わる。吉田氏はいつも、そうして道を切り拓いてきた。
吉田氏は地域ブランディング研究所を起点とし、日本全国の未知の誇りを蘇らせていく。日本中を活性化し循環の渦に導いていく。いま、いくつもの新しい上昇気流が巻き起こりつつある。
2018.10.18
文・引田有佳/Focus On編集部
同社がオフィスを構える浅草・消防出初式の様子。
一歩踏み出す勇気が出ないという人がいる。
未知の領域に対する一歩は怖いものだ。そこは想像もしえない世界であるからこそ、何が起こるか分からない恐怖がある。成功するか、失敗するか分からないのであれば、未知の世界ではなく既知の世界を歩んでいる方が安心である。
本能として失敗を恐れ、人は未知の世界へ足を踏み入れることを避けてしまいがちであるように思える。
しかし、人類の歴史という長い目で見てみると、未知の開拓なくして進歩発展を手にすることはできていなかったはずである。先人たちによる、未知への挑戦の過程における失敗と成功。その幾重もの積み重なりがあるからこそ、私たちはいま豊かな社会に暮らすことができていることは間違いないだろう。
いまある文明、経済、社会を取り巻くシステムは、誰かが想像し、実現に向けて未知に挑んだ跡であり、その総和により創り上げられてきたものといえる。
はじめは失敗であったかもしれない道を、誰かが正解に変え、それが人の歩むべき道となってきた。それこそが、人類の発展の歴史ではないだろうか。
そう考えると、誰もが恐れるようなことにこそ、人類の進化があるように思える。
失敗を防ぐにはこれまでとは全く異なる考え方や行動の仕方が必要である(図10).自分の立場に閉じこもらない.人のせいにしない,などである.社会が進展しさまざまなことに責任を持たなければいけなくなったとき,他から指弾を受けないように自分の領域を狭め,その範囲しか考えないような行動や判断の仕方になりがちである.こうすることによって外部から攻撃されることは少なくなるが,社会全体でみたときには多くの隙間ができ,そこが失敗の元になる.―工学者、東京大学名誉教授 畑村 洋太郎
いまの自分が無理なくやれる領域に閉じこもることは、人に安心を生む。しかし、それは社会という枠組みで見ると、失敗といえる要素をはらむものとなる。
裏を返すと、失敗をも恐れず立ち向かう誰かの取り組みこそが、社会という枠組みにおける失敗を成功に変える行動となり、それが社会の進化へと繋がっていくのだ。
吉田氏は、自らの挑戦に対しては「小難しく考えない」。とりあえずやってみる。チャレンジしたら状況が変わると信じている。やりたいことを信じて、未知を恐れず一歩踏み出し、道を開いてきた。
自らの目指す未来を信じ、失敗を恐れない精神構造。それこそが、社会という枠組みの道をも開いていくのかもしれない。
誰か一人が踏み出した一歩が、社会全体を一歩前へと前進させる。その可能性を、吉田氏の生き方は提示してくれている。
文・石川翔太/Focus On編集部
※参考
畑村洋太郎(2002)「失敗学のすすめ」,『音声言語医学』43(2),pp.182-188,日本建築学会,< https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjlp1960/43/2/43_2_182/_article/-char/ja/ >(参照2018-10-17).
株式会社地域ブランディング研究所 吉田博詞
代表取締役
1981年生まれ。広島県廿日市市出身。筑波大学第三学群社会工学類都市計画主専攻卒業。2004年株式会社リクルート入社、住宅情報ディビジョンにて大手マンションディベロッパーの企画営業担当。2005年から株式会社地域活性プランニングにて、映画やドラマを活用した地域・施設の集客・ファンづくりのコンサルティングに従事。2013年、株式会社地域ブランディング研究所設立。