Focus On
中山俊
アンター株式会社  
代表取締役
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orこの一瞬に人生をかける。想像もできない未来が見たいから。
未来の患者と家族のために、テクノロジーの力で医療の社会課題を解決していくエピグノシステムズ株式会社。現在、医療機関向けにAIを用いた看護師マネジメントシステムを提供する同社では、医療系スタートアップとして持続可能な医療システムの一翼を担うべく事業を展開。2018年11月には、慶応医学部ベンチャー大賞にて「日本マイクロソフト賞(特別賞)」を受賞した。大学卒業後、富士通での銀行システムのセールスを経て、家業である商社へ参画。事業を継承しない道を選択し、現役東北大学医師である志賀卓弥とともに同社を共同創業した、代表取締役の乾文良(いぬいふみよし)が語る「新しい世界へのロマン」とは。
目次
紀元前4世紀。彼はその木の下で、弟子たちに医学を説いていた。
青く澄みわたるエーゲ海東岸に浮かぶ島。その島の静かな広場で見上げれば、樹齢を重ねた一本のプラタナスが立っている。穏やかな風に吹かれながら、その実を揺らす。大きな緑の葉を広げる様子は、未だ未だ天にその枝を伸ばしていくようだ。その木は、生命の在り処を語りかけてくれるようでもあった。
古代ギリシア帝国が栄えた、途方もなく昔から。文明のすぐそばに在り、栄枯盛衰を辿る人の営みを見つめてきた木。
巨樹は、「ヒポクラテスの木」と呼ばれている。
仰ぎ見る人々は、医療に従事する者としての誓いを胸にする。
「純粋と神聖をもってわが生涯を貫き、わが術を行う」「医に関すると否とにかかわらず他人の生活について秘密を守る」……。
医学の父ヒポクラテスがその木の元で弟子へ の教えを説いていた。島で生まれ、現代にまで続く医学の系譜を編み出したヒポクラテスは、それまで呪術や魔術の類いとされてきた医術を、科学に基づく学問として昇華させた。その功績の偉大さは、医学の世界では語られるまでもない。
「医療者とはどうあるべきか」。遺された誓いは、彼の人の死後2400年経った現在でも、医師の倫理として受け継がれている。思いは世界中に苗を分け、時空を超えて、今も人々の心のなかに息づいている。
医療者としての正義を小さく積み重ねていったヒポクラテスがあったから、現代も語り継がれる倫理がこの世に存在する。
小さき者がいずれ大きな未来(ロマン)を創り出す。その手に掴む未来が初めから見えているとは限らない。ただ、正直に積み重ねていく。もっと言えば、人生をかけて突き詰めることなしに辿り着くことはできない。そんなことも、ヒポクラテスは教えてくれるようでもあった。
道のりは険しく長い。それでも決してあきらめない。ただ、その先にある新しい世界を信じているから。
未知へのロマンを追求してきた乾文良の人生。
いつもは着ない黒い服を着て、家を出た。
祖母と両親と兄、そして自分。揃って向かった先にある大きな建物は神妙な顔つきだ。大人たちの背中に続いて入ると、静かな空気と独特の匂いがした。
くぐり抜けた先、辺りを見渡す。見慣れない景色が広がっている。表情を消した顔で佇む人。何かを耐えるように口を引き結ぶ人。久しぶりの再会なのだろう、小声で挨拶を交わす人。みんな同じように黒い服を着ている。
「故 乾功」
祖父が亡くなった。今日は、葬儀の日だった。
墨で書かれた祖父の名前と、厳かな雰囲気を醸した戒名を見る。重ねて目をつむった祖父の姿にまた目を移す。祖父が話し出す姿はさっきから頭の中で繰り返し再生されている。でも、もう二度とその声を聞くことはできない。それは、紛れもない事実だとも知っていた。
頭の中で繰り返される祖父は急に、豪快な笑い声をあげる。それはいつもみんなの不安や心配を吹き飛ばすかのようだった。いっそのこと今ここに集まる私たちを、笑い飛ばしてくれたなら良かったのに。
「(自分の会社を)一から全部つくりあげてやったぜ」
「長者番付1位に載ったぜ」
生前はよく、そんな風に楽しそうに語っていた祖父。生きがいだったのだろう。お金を稼ぐことに興味はあっても、それを使うことには興味がない。という、ちょっと変わった人だった。
祖父の姿に、祖父が遺したものを思う。人。これだけの人に愛されたのか。そっと目を閉じ自分を重ねてみる。瞼の裏にまたいくつかの思い出が広がっていた。
幼少期、親戚一同と。中央前列右が祖父、左が乾
温暖な瀬戸内海に臨む香川県高松市。市内の繁華街の中心に、祖父母と両親が暮らす家はあった。すっかり夜に包まれた家の窓からは、いつものように賑やかな声が漏れ聞こえていた。
祖父の掛け声ではじまる乾杯の合図。グラスとグラスがぶつかって、今日も豪快な音を立てる。母と祖母はキッチンと食卓を行ったり来たり、次々と料理とお酒が運ばれてくるものだからテーブルには空いたスペースはない。酒宴の中心には父と祖父がいて、今日の客を屈託のない笑顔でもてなしている。
なかでもひときわ大きい声がすれば、それは祖父と決まっている。親分肌でいる祖父はよく目が届いて、「おぉ、飲むか?」と気を回していた。
祖父のもとには毎晩、いろいろな人がやってくる。会社の社員さんからお客さん、仕入先さん、はたまた銀行さんまで。一緒に家で酒を飲み交わし、騒いで笑う。十分にもてなしたあとは、帰りのタクシーチケットを手渡して見送っていく。それが家庭の日常だった。
工場で使われる産業機器などを取り扱う商社を創業したのが祖父だった。なんでも戦前は大企業のサラリーマンだったらしいが、戦後に一人高松で会社を起こした人物だった。
その理由にも祖父らしさがある。戦地から戻ると、出征しなかった自分より一回り下の世代が会社では台頭していた。自分よりも若い人が上の役職についていたから起業したのだという。
「あほらしい、くだらない。自分でやるわい」
そうして、私が物心ついたときには父が社長を継いでいた。
賑やかで笑いの絶えない食卓は楽しかった。
「相撲取るか?兄ちゃん!」
幼い私と兄を、大人の人たちはみんな可愛がってくれる。だから、そんな時間が結構気に入っていた。
夜が更け、子どもが寝る時間になっても宴会は終わらない。布団の中からでも、遠くのざわめきが心地よい。くぐもった低い声は、たまにどっと大きく湧いている。それが波のように繰り返す。何を話しているのかは分からない。いずれにせよ不思議と眠りに誘われる音だった。
いつもと同じ夜。ざわめきに揺られるうちに、意識は今日も遠くへ流されていく。そうして気づけば、また新しい朝を迎えていた。
恭しく頭を下げて、お坊さんが一歩進み出る。鐘の音とお経が背中から聴こえてくる。
葬儀が始まった。
参列者は次から次へと知らぬ顔が現れる。家族に倣って私も頭を下げていた。
会社の社員さん、仕事でお付き合いのあった人たち、そしてきっと戦争が起こるより前からの古い友達……。なかには、ちらほらと家の宴会で見かけたことのある人もいる。
誰かが鼻をすする音がする。部屋にはいろんな感情が満ちている。柔らかに張り詰めたこの空気は全て祖父へのものだと分かる。
下げた顔の端に感じる静けさの厚み。その型どれない静けさは、祖父への想いの形である。頭を上げ、そっと辺りを見渡すと、見たこともないくらい多くの人が集まっていた。
祖父のために。
あぁ、祖父はこんなにもたくさんの人に慕われていたんだな。ふと湧いてきた実感に、なんだか圧倒されていた。祖父の家での豪快な姿。その裏にあった多くの人からの思いがここにあると分かる。
祖父と過ごした時間がまた再生される。家にいるときは、大好きなお酒を飲んでいるところくらいしか見たことがなかった。祖父が働く姿を私は直接見たことがない。それでも、今日この場の様子を見れば、祖父がその人生でどんなことを成し遂げてきたのかが分かる。あのとき慕われていた姿の理由を、ここに置いていくようでもあった。
人の意見はあまり聞かない、我が道を行く性格。それでも不思議と人の心をつかんで離さない。だからこそ、毎晩あんなにたくさんの人が家を訪れていたのだろう。祖父が育て上げた会社は売上100億円を超える規模にまで成長していた。
その跡を継いだ父もまた「従業員の物心両面の幸せ」を理念に掲げ、愚直に守りつづけている。
「人それぞれいろんな人生、選択肢があるなかで、自分の会社を選んでくれて、働いて幸せだと思ってくれる。子どもとかに誇れる仕事、自慢できる仕事をしている。そういう人の人生を作れる仕事ってあまりないけど、経営者はそれができる。そういう面で、当時から経営者という仕事は魅力的だなと思ってたんです」
経営者として、自分が信じることを純粋に突き詰める。それは、設立から70年以上変わらない。その結果、社会から必要とされ、地元香川県に貢献し、従業員とその家族の生活を豊かにしている。私も社員旅行では、従業員の家族も含めた600名ほどの笑顔を目にしていた。
ゼロから生み出し、社会や人の人生に大きなインパクトを与えていく。多くの人に慕われ、感謝される。こんなに魅力的な生き方は、経営者だからできることなのだろう。経営者をおいてほかにない。
祖父や父の背中は物語る。私利私欲のためじゃない。社会のため、従業員のため。大げさじゃなくそれが生き方である。そうして多くの人の人生に影響を及ぼしてきた。
経営者っていい仕事だな。心の中で強く思っていた。
同時に、父がいつも言っていた言葉が頭に響きわたる。
「将来は会社を継げよ」
「うん!」
「そのためには、男は成長してなんぼじゃ」
そうだ。大人になったら、兄貴と一緒に祖父が創り上げたこの会社を支えるのだ。
自分も祖父のように生きたい。信じる道を生きたい。前方に飾られた額縁の中で微笑む祖父と目を合わせる。自分も将来は経営者になりたい。
それは、祖父への誓いのようでもあった。あの日から心に刻まれていた。
幼少期
3歳ころまで、私は極端に言葉数が少なかった。喋らない子どもであった。
太陽が真上を通り、少し経ったころ、放課後の幼稚園では一人一人に机と椅子が用意された部屋にいた。今日も例の時間が始まった。プレイルームと呼ばれるその部屋は、行くたびに居心地が悪くなる。みんなは楽しそうだけど、私は小さな箱に閉じ込められているようだと思っていた。
園児が着席すれば、先生からプリントが配られる。今日もすぐ解き終わる。配られる前から乾は分かっていた。問題など見なくたって解けると思っていた。みんなで一斉に問題を解く。仕方なくその紙と向き合うことにする。
「今日は●と●を線(せん)でつなげてみましょう」
答えは考えるまでもない。当たり前のことを聞かれているのは分かっていた。鉛筆を取ると、迷いなく一本線を引いてすぐ終わり。それみろ。あとの時間何していろというのだ。
いつも自分だけ早々に終わらせている。なかには椅子でじっとしていられない子もいるみたいだが、なんでかは分からない。余った時間は、頬杖をついてぼんやりと壁や天井を観察するくらいしかすることがなかった。
プレイルームの勉強はやたらと簡単だった。動物の絵を真似して描いたり、簡単な計算をしたり。誰でも分かるようなやつ。何でこれをやらされているんだろう。あほらしいと、心の中でいつも思っていた。
飛んだり跳ねたり転んだり。みんなはあちこちで声をあげ、遊び回っている。
今日もあの時間だ。先生たちが教室を移動するように言っている。それぞれの教室から出てくる何人かの友達が走って向かう。その後ろを、私は黙ってついていく。もはや憂鬱でしかない。
このあと、何が起こってどんな気持ちになるかの想像はついている。そして、その想像が外れたことはない。なんだか急に馬鹿らしくなってきた。幼稚園にもプレイルームにも行く理由が分からない。いつしか幼稚園には足が向かなくなっていた。
何かが変だ。
両親は訝しむ。あるとき「遊びに行くよ」と言われて連れて行かれた場所で、よく分からないままテストのようなものを受けさせられた。あとから聞けば、それは進研ゼミの模試だったようだ。結果は全国1位。
それだけじゃない、家族で神経衰弱をしてみれば負ける気がしなかった。あそこにさっきあれが出ただろう。なんでみんなは覚えられないんだろう。単純に疑問だった。
この年にしては、やたらと勉強ができる。けれど、一向に喋らない。さすがに心配した両親は、幼い私の手を引いて何やら大きな病院へ赴いた。
何かの検査のようなものを受けるらしい。看護師の人の指示を受け、ベルトコンベアに乗せられたみたいに病院内を巡っていく。付き添う両親の表情には、不安の色が浮かんでいた。息子がなかなか喋らなければ当然心配になるだろう。慣れない空間で、頭の中にはどうしても悪い結果が浮かんでくるようで。それを振り払おうとするみたいに、母は明るく話しかけてくれていた。
長いような短いような検査の一日を終えて、最後は医者の先生からの診断結果を待っていた。名前を呼ばれて部屋に入る。
先生はゆっくりと資料から顔を上げ、こちらを向いた。検査の結果、どうやら男子にしては心の成熟が早いようだということが告げられた。何かの病気ではない。そのうち喋るでしょう。
安堵がため息となってこぼれる。先生のお墨付きを得て、ようやく両親はすっきりした顔で肩を撫で下ろした。
言葉を発しない代わりに、目で見る世界を人より洞察している。知的発達に問題があるわけではないとのことだった。
「プレイルームの問題も『こんなんどう見てもこうやん?』みたいな感じで、あほらしいと思っていたんです。すごい生意気ですけどすいません(笑)。本当にあのときだけで、小さいときの思い出だと思って聞いてください」
医者の先生の言う通り、時間の経過とともに言葉は自然と出てくるようになっていた。
小学校に上がるころには喋れるようになっていた。代わりに、なぜか勉強の能力は失われていた。そもそも思い入れは何もない。「好きな教科は?」と聞かれてもちょっと選べない。夏休みの宿題も、休みの終わりになるべく最短で終わらせるものだった。机に向かっていると、もう外に飛び出したくなってうずうずしているのだ。
小学校に上がるころの私は、勉強よりも大事なものがあった。
スポーツで一番になりたい。友達と遊びたい。当時の頭の中は、そんな思いがいっぱいに占めていた。
祖父と父譲りの運動神経(二人とも元国体の選手だった)で、かけっこはいつも一番。スポーツはだいたい全部得意な方だ。体育の授業で体力測定を受けると、全項目で優秀な判定が出る。みんなの注目が集まるのは気持ちがいい。どんどん自分を解放していくうちに、キャプテンや学級委員など、何でも自然とリーダーになることが多くなっていた。
何をしていても、だいたいみんなの中心にいる。毎晩大人たちの宴会の中にいたからかもしれない。人との距離に困ることは知らない。自分はクラスの誰とでも分け隔てなく付き合うことができた。というか、それが普通のことだと思っていた。自然と友達もたくさんできていた。
小学校の毎日は、明るくはじけるような笑い声に満ちている。
やりたいことをやりたい。今日はサッカーをしよう。野球をしよう。明日はあそこに行こう。そうしていつも、駆け回り遊ぶ友達の先頭に立っていたかった。
幼稚園の運動会にて
楽しかった小学校生活は、足早に終わりに近づいていく。
夜の静けさの中。ガレージのシャッターが開く音がした。
「ガラ―ッッ、ガッシャン」
父が仕事から帰ってきたことは音ですぐ分かる。その音が聞こえると、いつからか反射的に体が動く。顔を合わせないように、静かに家の3階へと避難するのが習慣になっていた。
経営者として、土日も欠かさず会社へ向かう父。運動会や授業参観日など、小学校のイベントに来てくれたことなどない。
血気盛んだった祖父に似て、父もまた強い意思を持つ人だった。毎日仕事ばかりしていて、ときどきくだらないことで母や私たち子どもにがみがみ怒る。一度言い出したら止まらない。母と兄は黙って聞き入れているのが日常だ。二人は比較的おとなしく温和な性格だったから。でも、私は違う。
一方的に怒られることに納得いかない。黙って聞いているだけというのもよく分からない。まくしたてられるたびに、よく反発していたものだった。
だから、自然と父と会わぬよう体は動いていたのだろう。
それでも、その日私はたまたま「避難」していなかった。
顔を合わせれば父から進路について話を振られた。きっと何かを聞かれるならば、今はその話題だろうとも思っていた。たしかにそろそろ進路を決めなければならない時期であることは間違いない。自分よりも一足先に進学した3歳上の兄は、私立の中間一貫校で勉強する道を歩んでいる。
「ふみ(乾)、そこ行くか?」
父から尋ねられた。普段はこちらの学校のことなんて気にもしていないくせに、進路の話となると急に口を出してくる。こちらはこちらでもう意志を決めている。だから、何を言われたって変える気もない。
少しの緊張が走る。うるさく言われたら嫌だ。自分がどう答えるかでこの場の状況は変わる。そんなことを心の中で思いつつ、既に考えてあった答えを口にした。
「私立は行きたくない。公立の中学がいい」
どう言われるか。父の口が開かれる間の緊張が続く。同時に、考えてきたことを頭の中でおさらいしておく。
もちろん兄と同じ私立に通うことも考えてみたこともある。勉強を重視する学校だ。それもいい。勉強は「経営者」になるためにはきっと必要だから。
しかし、それよりも今は、得意なスポーツを頑張りたかった。公立中学は運動が盛んで生徒数が多い。たくさん友達を作って遊べることも、自分にとっては大切だ。兄の話に出てくる中学校では、一クラスたった10人前後しかいないと聞いている。
自分が勉強一色の中学校生活に染まる姿は想像がつかない。友達が限定されることも。どれをとっても想像する範囲から外れていた。
公立の方が、きっと自分には合っている。そもそも親に何か言われたとしても従うつもりはなかったのも事実だ。今までもそうだった。私の意志は固い。だから、公立に行きたい理由とともにはっきり主張した。
「そうだな、ふみの性格だったらそっちの方がいい。私立はふみには合わんなぁ」
「うん……」。身構えていたのに、拍子抜けだ。反論の用意だけしていたから、次の言葉が出てくることはない。
日ごろから「生きたいように生きなさい」と言ってくれる母は別にして、父からそんな意見が出てくるとは思っていなかった。「男は成長してなんぼじゃ」と語る父からの言葉として想像していないものだった。
共感してくれたのは、もしかしたら自分も若いころ国体選手として活躍してきたからかもしれない。「スポーツを頑張りたい」という私の思いを、やりたいことを尊重してくれた父に対して心が熱くなった。
昔から私は、納得できないことはできない方だった。自分が信じることをやっていたかった。今思えば、父や祖父のように、そうして胸を張って生きていけるようになりたかった。それを今回、父は後押ししてくれる。
公立中学へ行きたい。背中を押されれば、もう迷うことはなかった。行こう。それがいい。進む道は、自分の意思に従い決めてきた。
スポーツを頑張りたい。友達をたくさん作りたい。そのために自分で選んだ公立中学だ。希望通りの新しい学校で、まずは何の部活に入ろうかと考えていた。
勉強と部活でいうと、どちらかというと部活の方が盛んな中学だった。小学校では野球かサッカーか相撲しか選択肢はなかったが、ここでは選びようがある。スポーツはだいたい好きだから迷ってしまう。楽しみな気持ちが大きい分、急いで決断したくはなかった。入部前の見学期間は、いくつか気になる運動部を見て回ることにした。
サッカーは小学2年生からやっていたが、練習のし過ぎで足の骨がつぶれてしまったことがある。だから、サッカー部は選択肢から外した。そのあと高学年から始めた野球はどうだろう。でも、野球って、攻撃のあいだは面白いけど守備は面白くないんだよな……。
ほかに何かあるのだろうか。考えれば、最近兄と一緒に遊んだあのスポーツが思い浮かんでいる。その時間が異様に楽しかったことを思い出していた。
バドミントン部。香川県は昔からプロのバドミントン選手を多数輩出しているから、バトミントンが強い。その県内では、通っていた中学は弱小の部類に入るがどうだろう。とりあえず見てから決めることにして、見学に行ってみることにした。
思いきって、学校の体育館に足を踏み入れてみる。広くて高い天井に、体育館シューズの靴底と床がこすれる鋭い摩擦音が響いている。体育館に引かれた白線に散る汗。振りかざすラケットが風をきる音。室内は熱気に包まれていた。
恐る恐るくぐりぬけると顧問の先生が優しく出迎えてくれた。コートに入れてもらい、試しに少し打たせてもらえば、すぐに持ち前の運動神経を発揮できた。間違いない。やはりバトミントンは気持ちがいい。同時に、先生の目は乾の一振りを見逃していなかった。
「君、筋がいいねぇ。うちに入ってくれたら嬉しいよ」。その場で熱心に勧誘が始まった。部員は女子が20~30人で男子は5、6人。全員が中学から、つまり初心者からバドミントンを始めたメンバーらしい。
「どうしようかな」と答えつつ、心はほぼ決まりかけている。手の中のラケットを握り直すと、もっと打ってみたいという気持ちが湧いてきた。筋もいいらしいじゃないか。
バドミントンというスポーツの面白さは、一球一球に変化があって、瞬発力を求められる感じにあると思う。休んでいる暇はない。野球で言うところの、嫌いだった守備の時間はない。好きになる理由は十分だった。
新しいチャレンジもいいかもしれない。ここで頑張ってみよう。バドミントンで活躍する未来の自分を想像しつつ、心を決めて、入部届を出すことにした。
晴れて部員となり、正式な練習が始まった。
準備を済ませ、体育館に集められた新入生の輪の中に自分も加わった。すぐ間近では、上級生たちの練習試合が行われていて、華麗なラケットさばきに目を奪われる。早く自分もああなりたいと思わされる。次々に展開していく試合をぼーっと眺めていた。
突然、体育館にカッと大声が響き渡る。ほんの一瞬だが、全身が縮むのが分かるほどだった。
コートに立つ上級生たちに、先生は怒りの声を上げている。こんな雰囲気の先生だっただろうか?筋がいいな、と笑顔で歩み寄り話しかけてくる先生じゃなかっただろうか?と。何か先輩が言われるのを、険しい顔で横目に見る。嫌な予感がよぎった。練習の空気は、予想に反し張り詰めたものだった。
とはいえ、入部して最初の数か月、1年生は基礎練をこなす必要がある。まだコートには入れないから、とにかく最初は基礎練習だ。先生も先輩たちに向けるほど、とやかくは言ってこない。真面目に基礎を積み重ねていこう。
学校の広いグラウンドをひた走る。私はいち早く試合に出たくてランニングも気合いを入れていた。後ろの方で、また先生の怒声が鋭く響いた。手を抜いている生徒には容赦ないことは既に学んでいる。でも、先生の厳しさはそれだけでは終わらなかった。
「ちゃんとやらないなら帰れ!」
真面目に練習しろというのは分かる。上手くなるためには努力が必要だ。でも、そんな鬼のように怒らなくても……。
緊張と恐怖にさいなまれ、部活を辞めようかとも考える。でも、そもそも「辞めます」なんてとてもじゃないが言いだせない雰囲気でもある。
練習で凡ミスでもしようものなら、怒りの言葉とともにラケットが飛んでくる。先生の目線は鋭く、遠くからでも部員を見張っているようだった。入部前あんなに優しかった先生は、人が変わってしまったように厳しい。いや、あれが本来の姿なんだろう。なんだか裏切られたような気分もするが、先生にとってはあるべき姿に戻っただけだ。
怒られるたびに、こんな調子ではコートに立つ日はいつになるのだろうと目の前が暗くなる。とにかく基礎練を頑張って、良い意味で目に留めてもらうしかないと必死に毎日の部活を励むことにする。
試合に出る。そして勝つ。欲する力のことだけを心に置いて、厳しい練習に耐え忍ぶ。どうにかこの日々が早く過ぎないかとも願った。
それでも、日々の練習を続けていると、不思議と昨日までできなかったことが一つできるようになっていった。ただそれだけで、一瞬全てを忘れるかのような歓喜に満たされる。自分の限界記録を塗り替えること。そこには喜びがある。厳しい部活だが、それだけは動かしようのない事実だ。確かに自分は成長している。
酷な鍛錬を重ねるほどに、たしかに徐々に実力がつきはじめた実感がある。これを凌ぐことに意味がある。当時の私は、どこかそう思いはじめていた。
「乾ちょっと来い」
何か自分は悪いことでもしたのだろうか。いや、誰よりも真剣に基礎練習に取り組んでいるはずだ。何を言われるのだろうか。自分がしてしまったであろうミスを必死に思い返す。特に言われるものはないはずだ……。
「もうお前はこっちでやれ」
同期の中でも一番に声をかけてもらった。初めてコートに立つときがやってきたのだ。やっと来た。これで試合に向けた練習ができる。
嬉しさと同時に思わず体が震えていた。選ばれたことは嬉しいが、これからの練習はさらに厳しさが増すことも知っている。やるしかない。体育館のライトが眩しく降り注ぐなか、ラケットを固く握りなおしていた。
敗北はあっけない。最初の新人戦は、試合にもならないほどぼろ負けだった。実力差という変えようのない事実に打ちのめされる。上手い人と普通に試合ができるようになるだけでも、こんなに遠い。その上、勝利を望むならもっとだ。
一体どれだけの練習が必要になるんだろう。それでも、練習すれば成長することを知っている。当然彼らと同じ時間練習するだけじゃ足りないだろう。もっと努力が必要だ。誰よりも遠くへ行けるような努力が。
幸か不幸か、先生が課す練習量は尋常じゃなかった。毎日18~19時まで学校で練習したら、一度帰宅してご飯を食べる。そのあとは、選抜メンバーのみ追加練習が待っている。学校とは別の市営体育館まで行くと、他校の人も集まる場所で22時くらいまでバトミントン漬けだ。もちろん朝練もある。土日も朝から晩まである。休みは一か月に一回くらいあるかないかという限界の生活で、毎晩倒れるように眠るとまたすぐ次の朝が来た。
それでもこの練習には意味があると信じつづける。
そうして掴んだ、初めての公式戦での勝利。その震えるほどの快感は、何物にも代えがたい最上のものだった。
これも厳しい練習の賜物だ。試合で勝てるとやる気が湧いてくる。スポーツのいいところだ。自分が成長している実感で、さらなる力が体の奥底から呼び覚まされる。持ち前の運動神経の良さも相まって、部内でも頭一つ抜ける実力がつきはじめた。
中学2年生になるころには、県内でもベスト8に勝ち残れるほどになっていた。今ではキャプテンとして部員を引っ張る立場でもある。
公式戦では上位の常連になり、他校のライバルたちともお互い顔見知りだ。いつものあいつ。こっちも名前を覚えているし、あっちからも名前を覚えられている。
なんだか見える景色が変わりはじめた。これが、やりがいというものだろうか。つらい練習の果てにある、得難い快感のようなものを掴みかけていた。
香川県はバドミントンが強い。県大会を勝ち抜けば、四国大会は抜けられるとも言われている。四国を制すれば、もちろん次は全国だ。
全国大会。その響きが現実味を帯びはじめる。本当に?実感がない。そこは本来うちのような弱小バドミントン部が行く場所ではないはずだった。小学校から鍛錬を積んできた猛者たちが行く場所だ。想像すると、鳥肌が立つ思いがした。
最初は、一筋の光のようなものだった。遠くで輝き、手を伸ばしても届かない光。それが試合に一つ勝つたびに、輝きが強くなっていく。行けるかもしれないという思いが大きくなる。やがて光は強く射し込んで、手に届く希望が見えてくる。このチームなら行ける。思いが確信に変わっていく。不思議な高揚に包まれながら日々が過ぎていく。とにかく今は、練習あるのみだ。運命の試合は、目前にまで迫っていた。
四国大会の優勝をかけた最終試合の日。
試合終了の笛が鳴る。
歓声が一瞬遠くなり、次の瞬間、一気に押し寄せてきた。怒涛のようにあふれる喜びの感情が、叫びとともに外に解き放たれた。仲間のラケットが軽やかに宙を舞う。チームが初めて、その決定的な勝利を手にした瞬間だった。
全国大会出場。
夢じゃない。まさかこんな未来が待っているなんて、入部したときはチームの誰もが想像できなかっただろう。
舞台は広島県にある大竹市総合体育館。漫画『スラムダンク』の全国大会で、会場のモデルになった有名な体育館だ。まるで自分が漫画の主人公になったみたいで、なんだか誇らしかった。
もちろん全国は厳しい。結果は残せなかった。でも、出場できたという事実の重みは、自分にとってあまりにも大きなものだった。
自信をなくす日も、逃げ出したくなる日もあった。不安で眠れなくなる日も。ふたを開ければそんな日々ばかりだ。けれど、どんなにつらくても諦めず努力しつづけると、人はこんなにも新しい世界を見ることができる。自分の想像をはるかに超えた高みまで、きっと上り詰めることができるのだ。
私がバドミントン部で得た成長は、かけがえのない価値があるものだった。努力も苦しみも、積み重ねていけばその先に開ける世界がきっとある。
自分にとって、まだ見ぬ世界を確実に現実に変えていく道がある。その姿を、たしかにそのとき目にしていたのだろう。
バドミントンの全国大会にて
バトミントンの大会が終われば、中学も終わりにさしかかる。そろそろ高校進学だ。
選手としての将来を期待される。当時はそれくらいの実力をつけていた。裏を返せば、それほどの研鑽を積み、全国大会出場という結果を残した。自分の中では「やり切った」という心境だった。卒業後の進路は、まだ決められていなかった。
ある日の部活中、先生に声をかけられた。呼び出されたのは、私ともう一人の同期の二人だけ。顔を見合わせつつ、黙って先生の後をついていく。密室に連れて行かれ、ドアを閉められた。
向き直った先生は、改まった感じで切りだした。
「スポーツ推薦が来てるけど、行くか?」
バドミントンの強豪校に、スポーツ推薦で進学できるという話だった。
受けるなら、高校もバドミントン一色になるのだろうか。そして、その先は……?心に問いかける。
浮かんだのは、父と祖父の顔だった。将来は経営者になるつもりだ。いつか会社を継ぐからには、経営を学ばなければならない。そのためには、ここまで目を背けてきた勉強という領域に、そろそろきちんと向き合った方がいいのではないだろうかという気がしていた。
嫌いだとかは言ってられない。経営者になるために、高校は勉強したい。
経営者になるために、高校からは本気で勉強を頑張ろう。意志はもう固まっていた。あとは、自分を信じて進むだけだ。推薦の話は、その場で断ることにした。
勉強するなら、どこの高校がいいだろう。一番に思い浮かんだのは、兄が通う私立の中高一貫校だった。聞いていた話では、あそこなら部活より勉学を重視しているようだから、勉強漬けの日々を送れるだろう。バドミントンの練習と同様、やるなら徹底的にやりたかった。徹底的にやればできる自信もあった。
「何かに対して燃えやすいタイプですね。納得したらズバッとやるけど、終わったらスパッと次に行く。毎回そうかもしれないですね」
4月。兄が卒業し、入れ替わりで私が入学することになった。今度は自分の番だ。新品の制服に袖を通し、新しい鞄に荷物を詰めていた。
やはり高校は成績優秀な人が集まっているのだろうか。ふと疑問が頭をよぎって手を止めた。いや、大丈夫だ。すぐにはついていけないかもしれないが、努力すればなんとかなるだろう。むしろどんな世界が待っているか楽しみだ。勢いよく鞄を閉めた。
朝一番の全校集会で、太ったおばちゃん先生はこう言った。
「皆さん、部活はあまりやらないでください。部活に入って成功した人はあまりいませんから」
部活が盛んな高校ではないと聞いていた。でも、そこまではっきり言われると正直ひるむもんだ。たしかに将来のため受験勉強も大切ではあるが、部活での経験だってそんなに悪いものではないだろう。自然と中学時代を思い出し、当時の自分を重ねながら聞いていた。
教室に戻っても、もやもやと消化しきれない思いが残る。
今までの環境とはまるで違う。入学して時が経つほどに、思い知らされていた。
正直ここまで勉強一色だとは思っていなかった。部活も自分は当たり前に選んだが、そもそもみんなあまり入らない。入っても2年の終わりで引退がやって来る。3年生に至っては文化祭も体育祭もない。そんなことがあるだろうか?
大学受験に向けて、勉強「だけ」しなさい。暗に(明にも)そんなメッセージが込められている。
ここでは極論、成績優秀であれば全て許される。反対に、もしも成績が悪ければそれだけで問題児扱いだ。先生からは疎ましがられる。さらに服装や髪形、遅刻など、素行が悪ければなおさらだった。
……そう、それは全て自分が当てはまること。先生から目をつけられていたことは、その視線が伝えていた。
たとえば、朝のホームルームはやる意味が分からない。この時間あほらしいなと思ったので、ホームルームが終わる時間に登校することにした。毎日遅刻するから、先生からはいつも睨まれている。
幸い人づきあいには困らない性格だったので、友達はたくさんできる。明るい子とも地味な子とも、楽しくフラットに付き合い価値観も合う。交友関係は問題なく良好だ。しかし、それとは別で自分が納得できなければできないことは変わらない。勉強だけが人生だとも思わない。だから勉強する理由も見当たらなくなる。そんな私をみんなは笑っていた。
いや、それでもここは偏差値管理の学校だ。偏差値が全てを決める。
みんなは先生に従順に従うが、私は違う。学校生活は勉強だけが全てだとも思えない。友達も部活も色んな要素があって勉強があるんじゃないだろうか。必要な勉強はするつもりで入ったが、偏差値でしか人を見ない学校の雰囲気は、なんだか好きになれていなかった。
朝からうるさくセミが鳴いていた。うんざりするような暑さと相まって、なおさら不快な合奏を織りなしている。夏休みが終わり、新しい学期が始まった。
いつものように自転車で登校し、勢いよく学校の門を通り抜けた。
「ちょっと止まりなさい!」
そのとき、強く呼び止められた。
怪訝に思いながら急停止する。門のところには、おばちゃん先生が立っている。おおかた生徒の服装や髪形に厳しく目を光らせているのだろう。いつものことだ。自分は髪も染めていないから、何も悪いことはしていない。気にも留めずに中へ入ろうとした。
「髪を染めたでしょう」背後からたしなめられる。
暑さが一段と増したようだった。あぁめんどくさい、と首元に汗がつたっていく。私は断じて染めてはいない。おそらく夏のあいだに髪が日に焼けて、少し茶色くなっただけだろう。少しいらつきながらも振り向いて、「染めてないです」と落ち着き返す。
話はそこで終了、と思ったのが甘かった。先生は一歩も譲らない。むしろ非を認めるのが嫌なのか、こちらを執拗に攻め立ててくる。
不毛な議論だ。朝の8時から、なんでこんなにくだらない言い合いに付き合わなければいけないんだろう。嘘なんてついていなかったから、こちらも納得いかない。話はどこまで行っても平行線を辿るかのように思われた。
「先生が言うことは全部正しいのよ!」
突然、先生がそう言ってきた。あまりの言い分に、一瞬呆気にとられる。そのあとは、強い怒りが湧いてきた。衝動が自分を勝手に動かしていた。
「じゃあそんな先生がいる学校は僕行きません!」
そのままの勢いで踵を返す。学校へと向かう生徒の波を一人逆らっていく。好奇の目が集まっている気がしたが、それどころじゃない。とにかく、1秒でも早くこんな場所から離れたかった。
納得できないことに黙って屈していられるような性格じゃない。もうあんな学校には行かなくていい。一度家に帰宅し、そのまま家を出て、後輩の家に転がり込むことにした。
後輩には申し訳ないが、しばらくお世話になりたいと伝えた。笑って迎えてくれたので今でも感謝している。
それから朝起きれば後輩は学校へ、自分は近くのファミレスに行くのが定例になった。一日勉強し、夜になると後輩の家に帰って眠る。あとはその繰り返し。家にも戻らず、学校にも行かなかった。受験勉強はどこでもできるものだと思った。むしろよく分からぬ論理をふりかざす先生がいない方が効率もいいかもしれない。
2週間後。
さすがに携帯に電話がかかってきた。しばらく画面を見つめてから何かをあきらめ出てみると、高校の先生だった。ただし、声の主は数少ない理解者とも言える先生だった。偏差値で人を判断せず、一人一人の個性を見てくれる人だったので私は好きだった。
電話をとれば、先生は飛び出した自分を心配してくれている。事情をよく聞いてくれたようだった。親も心配をしていると先生は教えてくれた。話していると、急に心に感謝と申し訳なさが込み上げた。先生のためにも学校へ行った方がよさそうだ。逃避生活に終止符を打つべきときが来たのを、受話器越しから伝わる思いとともに感じていた。
先生への感謝とともに受話器をおろす。
学校には納得できない部分も大いにあるが、良き理解者となってくれる先生もいる。灰色の高校生活に色を添えてくれたとも言える、感謝する存在だった。勉強はどこでもできただろうが、人との繋がりや居場所というものは、ほかに2つとないものだと知っていた。この先生は裏切れない。
納得できないことはやりたくない。でも、理由があるものならばやる。心に真っ直ぐ進むから、自分にとって本当に大切すべきものが見えてくる。乾にとって大切なものは、受話器の向こうにあった。
実質、本気で勉強を始めたのは、高校2年の冬になるころだった。
それまでなんだかんだ学校のやり方に文句をつけて、手をつけていなかった。それでも、将来会社を継ぐのなら、勉強は絶対だ。大学は経営学部や経済、商学部あたりに行きたい。そのためには、受験勉強という避けて通れない関門が待っていた。
自分が成長に向けた努力をするときは、強く背中を押してくれる父。進学先の大学も、「成長するなら関西ではなく絶対に東京に行け」と言われていた。
いつもは適当だった校内テストの勉強も、今回からは真面目にやってみることにする。
そもそもやり方が分からないから、試行錯誤のつもりでとにかく机に向かう。今回のテストの点数はあまり期待できない。最初から結果が出るほど甘くはないだろう。バドミントンのときもそうだった。それでもあきらめずに続ければ、きっといつか結果に繋がると信じていた。
寝不足の頭は、思考力を奪われている。ぼやけた頭でテスト当日までの日数を数えてみる。やりたいことはまだまだある。教科書、ノート、資料集。それが、各教科分目の前に積み重なっていた。
とりあえず、終わりそうなものだけでも完璧にしよう。今までやってこなかったから、得意教科なんてものもない。最初に目についた世界史の教科書を手に取って、テスト範囲の重要単語を暗記することにした。
迎えた試験週間。必死に問題用紙と対峙する。持てる知識を総動員して、なんとか答えを絞り出す。自信はなかったが、とにかく真っ白よりはいいだろう。そうこうしているうちに、無情にも試験の終了が告げられた。
結果はおおむね予想通りになっていた。今までよりはマシ。それ以上でもそれ以下でもない。
しかし、唯一高得点を記録した科目がある。世界史だ。考えてみれば、世界史はこれまでの勉強の遅れは関係ない。ただ試験範囲を暗記すればするほど、点数を稼げるようになるということに気がついた。
たくさんの赤丸が踊る答案用紙を見ていると、もっとやりたいという気持ちが湧いていた。次はもっと覚えれば、もっと点数を取れるという確信がある。結果に繋がると分かれば、無性に楽しくなってやる気が湧いてくる。まさか勉強でこんな感覚を味わえるなんて知らなかった。
数か月後。校内テストの日が待ち遠しい。今回は気合いの入り方が違う。
勉強の甲斐あって、世界史は十分褒められていいくらいの成績を取った。先生も驚いている。その反応が嬉しくて、次はもっと周りを驚かせたい気になっていた。
机の上の教科書を手に取る。いつも鞄に入れていたから、表紙の端はだいぶ擦り切れてしまった。開けば、折り目や書き込みがあちこちにある。なんだか少し愛着すら湧いている。そして、世界史の勉強の中身に対しても、ほかにはない特別な感情を持ちはじめていた。
何かにハマると、とことん突き詰めてしまう性格だ。テストで点数を取るため勉強するうちに、気づけば世界史が大好きになっていた。
テストがあろうとなかろうと、四六時中、世界史の本を手放さない。とにかく何をしていても頭には世界史のことがある。ご飯を食べているときも、お風呂に入っているときも、教科書や資料集を開いていた。
教科書を開けばその先に広がる世界の過去があった。想像もつかないくらい昔、今自分がいる場所からは遠く離れた場所で国が発展し、やがて滅んでいった。世界の至るところには栄枯盛衰のドラマがある。そのドラマが連綿とつらなり、現在まで繋がっている。いくつもの国、経済、文化の変遷があり、いつの時代も人の営みは、そんなダイナミックなうねりの中にある。
世界史には未知へのロマンがある。だから、心奪われた。
「世界史を偶像化してたのかもしれないですね。見えない世界のリアリティを夢想するのが面白かったんです。現実はそんなことなくて、もっと泥臭いと思うんですけど。国が滅ぼされるのもそんなに突然じゃないだろうし、徐々に文化が融合して、変化していく。見えないからこそ面白かった。見えそうで見えない、ワクワク感があって」
同じ歴史でも、日本史にはそれほどの魅力は感じなかった。なんだかんだ奈良も京都も知っている。戦国時代もゲームの題材になっていたりして、小さいころから馴染みがあったからかもしれない。
もっと自分には想像しえないような、壮大で未知の領域に思いを馳せていたかった。きっと、そこに何か代えがたい価値のようなものがあると信じていた。
歴史が映し出す世界。今私がここにあるのも、それらの歴史の積み重ねがあったからなのかもしれない。想像したって教科書を読んだところで、歴史の本当の正解はそこにはない。目には見えない世界に心惹かれる。ある瞬間にだけ輝き、やがて消えていく不可逆なもの。自分の中で偶像化でき、解釈次第で自由に姿形が変えられるものだった。
見えない世界、新しい世界に思いを馳せていく。広がる世界。その感覚がたまらなく好きだった。
そのうち、思い描く自分の将来像が少しずつ変化していった。
経営よりも、歴史のロマンを追求したくなっていた。この分野をきちんと学びたい。世界史以上に自分の好奇心を刺激するものはない。違う道に進むなんて考えられない。
将来は経営者じゃない。歴史を探求する学者になりたい。いつしか本気でそう考えるようになっていた。
「俺、文学部行くから」
高校3年の夏、父にそう伝えた。
もちろんすぐに納得してもらえるわけがなかった。当然ながら、烈火のごとく怒られた。母や兄も心配するほどの大喧嘩。私も意思を曲げない方だが、父も同じだ。経営者として、自分の信じることだけをやってきた。そんな父を見てきたからこそ、私も信じる道を行きたいと思うようになっていた。
「親が言うから」、「社会通念がこうだから」。そんな理由で行動を変えようとは思わない。
話し合いはまとまらず、ひとまず願書は文学部と、商学部や経営学部の両方に出すことになった。父の許しは得ていないが、気持ちはもう東京の大学で文学部に通う大学生だった。
数か月後。いくつかの合格通知のなかに、文学部も含まれていた。
喧嘩の末、最終的には父が折れた。進学先は希望通り明治大学文学部に進むことにした。
明治大学は、西洋史の先生が多いことでも有名だ。私は特にギリシアやローマに興味があったから、西洋史学専攻を選んでいた。
憧れの大学。初めて暮らす東京。学者への第一歩。
新しい生活に、胸が躍った。
今、何にもおいて突き詰めたいと思える世界。追求したいロマン。それが扉を開けて、自分を待ってくれているようだった。
学者になるという夢に真っ直ぐ向かう。
今はそれが何より情熱を注ぎたいものだった。だから大学では、授業以外にもいろいろなことをやってみたいと考えていた。
入学して数か月後。
曇り空の下キャンパスを歩く自分は、期待していたはずの新しい世界にまだ出会えていなかった。
最初は、新入生を対象にした嵐のようなサークル勧誘に見舞われた。大学生はたいていサークルに入るらしい。でも、なんだかあまり興味が湧かなかった。授業に出て、サークルに入って、バイトして合コンする。だいたいどんな世界か予想がつく。いわゆる定型的な大学生活には魅力を感じなかった。学者になるにはそんなことは不必要だ。
お金を稼ぐためのバイトはするが、正直それ以外はあまり価値あるものには思えない。みんながやっているからというのも、やる理由にはならない。
じゃあ、今、自分は一体何をするべきなんだろう。答えは見つからず、無為な日々だけが流れていく。
気づけば、毎日一人で過ごす時間の方が多くなっていた。
大学1年の夏休み。香川の実家に帰省した。
兄と話すのも久しぶりだ。互いの近況を報告しあう。といっても、私は大したことはしていなかったので、話のネタも多くない。
大学4年でほとんど単位を取り終えていた兄は、時間が余っていたのだろう。突然、思いがけない提案を持ち掛けてきた。兄はこれまで何回か、海外にバックパッカーに行っている。次の旅に、一緒に行ってみないかと誘ってくれたのだ。
海外。それも、バックパッカーで旅行する。そんなこと経験したことがない。
世界史の教科書や資料集で見た景色が浮かんでくる。それを、実際にこの目に映すことができるという。未知の冒険みたいで、想像するだけでワクワクした。
答えはもちろんイエスに決まっていた。学者になるなら、世界をこの目で映しておくのも良さそうだ。新しい世界へのロマン。その久しぶりの興奮が、全身にみなぎっていた。
最初の目的地は、古き良き街並み残るヨーロッパだった。お金はない。貧乏旅行だが、世界史で学んだ歴史の痕跡を至る所で目にすることができた。
古代ギリシア・ローマの遺跡に行ってみる。ローマのテルミニ駅からバスで15分ほど揺られると、トッレ・アルジェンティーナ広場に着く。ここで古代ローマの独裁官カエサルが暗殺されたのだ。目を閉じて、遠い遠い過去に思いを馳せる。
今まさに元老院会議が始まろうとしていたそのとき、ポンペイウス劇場に隣接する柱廊の影で、腹心のブルータスら14人の持つ刃物がカエサルの体を貫いた。死を悟ったカエサルは、「ブルトゥス、お前もか (Et tu, Brute?)」と声を振り絞り、その英雄的生涯に幕を閉じた。そう、まさにここで倒れる。
歴史の本に書かれていた人物と、現代を生きる自分が、今まさに同じ場所に立っている。現実と夢想の境界にいるような、不思議な心地がした。
空気を吸い込んでみる。うん、現実だ。この場所で歴史が大きく動いたのだという実感が、全身に染みわたるようだった。夢にまで見た世界が、目の前に広がっていた。
この先の旅路への期待が高まっていく。そして、兄に感謝した。
旅はまだ、始まったばかりだ。
ドイツ、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所にて
一か月半後、ヨーロッパからアジアへと渡った。その後の半月は、インド、タイ、ラオスを回る予定を組んでいた。
旅の終着点、ラオスはタイの横にある小国だ。世界史の教科書でも、名前を見たことがあるか怪しい。四方を陸に囲まれ、国を貫くようにメコン川が流れているという。どんな国で、何があるのか。どんな歴史が動いてきたのか。何も知らない未開の地だ。
まずは隣のタイに入国する。
初めて訪れるタイは、とても元気な国だった。街に活気がある。もしかしたら渋谷以上かもしれないと思った。中心部には高層ビルが立ち並び、裕福そうな若者が大勢歩いている。同時に粗末な家や物乞いの姿もすぐそばに目にしていた。
経済発展の光と闇。日本とは比べ物にならない、教科書では語られない生の姿を見せつけられたようだった。
タイの首都バンコクから、ぼろぼろのバスに乗りこむ。
ラオスには陸路で入ることになる。座席に座れば長時間の移動には耐えがたいであろうゴツゴツとした骨組みがお尻にあたる。痛くて、眠いのにうまく眠れない。決して快適とは言えない車内だが、これもバックパッカーの醍醐味としよう。ようやくラオスとの国境にたどり着くころには、体が疲れ切っていた。
国境地帯で一休みしたあとは検問所へ。手続きもよく分からず、ガイドに言われるがままお金を差し出した(あとから思えば、賄賂だったのだろう)。無事に越境できたようだった。なんだか呆気ないものだった。
再びバスに乗って、しばらく移動。ラオスの首都ヴィエンチャンで自転車を借りた。
のどかな街を走る。首都と言っても、ヴィエンチャンには何もない。世界遺産も観光施設も、オフィス街もだ。背の低い商店や民家の背景に、ただ突き抜ける青空がどこまでも続いている。大きな雲が静かに動く。どこから来て、どこへ向かうのだろう。思わずぼーっとそれを眺めてしまう。なんだか時間の流れが、日本ともヨーロッパとも違っているようだった。
小学校のような建物の前を通ると、現地の子どもたちが寄って来た。自分の肌の色、染めた髪が珍しかったのかもしれない。写真を撮ってほしいとせがまれたので、一緒にレンズをのぞき込みシャッターを切った。言葉は通じなくても、心通じ合う瞬間がある。ここにも人の生活がある。
ラオスでの目的地は、古都ルアンパバーンのナイトバザールだった。世界遺産にも登録されており、観光客が集まる。現地への移動経路は川だ。カヌーのような小舟に無理やりエンジンをつけたものに乗り、6時間ほどかけて川を北上する。
カヌーに小さく収めた体は、まさに見知らぬ土地に踏み込んでいく感覚を感じていた。世界史の教科書にも、どんな本にも載っていない現実がここにある。
今、地図のどの辺りにいるのだろう。分かるのは、日が沈む方角がどちらにあるかということだけだった。しばらく進めば景色は変わらなくなってくる。カヌーでおとなしく到着の時を待つしかなかった。
ラオス、河上のカヌーにて。兄と
暗闇に浮かぶ幻想的な提灯。赤や青の原色の布を屋根にして、長くて真っ直ぐな道に露店が並んでいる。
ナイトバザールは、夜に美しく賑わいに満ちていた。
売られている商品は、手編みのバッグや伝統的な織物、雑貨などが中心だ。目的もなく歩いていると、偶然、現地で商社に駐在しているという日本人と出会った。
おすすめの店を紹介してもらったので、足を向ける。店主は若いお姉さんで、そばには幼い子どもの姿がある。話を聞くと、17歳だというから驚いた(そのとき私は19歳だった)。
ともかく兄とともにその店で買い物をすることを決めた。日本円で8000円ほどの買い物をする。店で売られているもの、ほぼ全てを買いこむ形になった。周囲の店の人たちが、何事かと興味深そうに集まってくる。それもそのはずだった。現地の人々の生活では、一か月の収入にも相当する金額だったようだ。
本当にそういう暮らしをしている人がいる。どこかで聞いたことのあるような世界だが、実際に目の当たりにすると、日本で知るのとはまた違う感覚を覚えた。現地の人と触れ合うと、これまでにない意識が開かれていくようだった。
翌日。さらに川を北上し、国土のおよそ70%を占める山岳地帯にも足を向けた。標高の高い山肌に、ぽつんと3歳くらいの女の子の姿があった。しきりに地面から何かを拾い、背負ったものの中へ入れている。
近くで暮らしているのだろうか。見渡しても辺りには森しかない。おそらく教育も受けていないだろう。その肌は、高所での日焼けのためか、茶色く皺に覆われてただれているようだった。
この子は何も世界を知らずに育つんだろうか。ふと、そう思った。
日本に生まれた自分からすると、まるで秘境に迷い込んできたようだ。でも、この国の人々にとっては、この世界こそが日常なのだ。
もしもラオスを訪れなかったとしたら、一生知らずにいたであろう誰かの人生。それが今、自分の眼前に突き付けられていた。
タイ、クーデターを鎮圧する兵士たちと
帰りの飛行機の中、言葉にならない感情がずっと心を離してくれなかった。目をつむると真っ暗な闇の中にラオスで見た光景の数々が蘇ってくる。
到着ロビーから足を踏み出す。なんだかそこは異質な空間に思われた。ラオスとは別の現実がある。今、自分はどっちの現実にいるのだろう。どちらが現実なのだろうか。
ここでは物乞いを見ることはない。8000円で店のもの全部を買うこともできない。そうだ。ここは日本で、これが現実なのだ。
世界で衝撃を受けた自分がいたにもかかわらず、日本での毎日は何事もなかったかのように過ぎて行く。怒りすら覚えるほどに。でも、それは何に対して何だろう。
もともと抱いていた定型的な大学生活への違和感は、バックパッカーを経験後、さらに大きくなっていた。
海外に行くと、多かれ少なかれ自分を変えざるを得ない。言葉が通じなくても自分から話さなければ旅行だってままならない。ラオスで暮らす人たちにしてみれば、何もない場所でだって何とかしなければ明日はない。
でも、日本はそんな国じゃない。
「日本って楽だったし、変わらなくていいし、このままで時が流れて行くし。このまま時間を切り売りしてるとなんか成長しないなと、その意識はあったのかな。成長しない危機感があった。だから嫌だった、だから自分の好きなことだけをやろうと思うようになって」
納得いかない大学生活は置いておいて、一人の趣味の世界に浸っていくようになった。やりたいことを突き詰める。そうすれば成長して何か世界が開けるだろう。クラシック音楽のコンサートに年120回通ったり、一人でバックパッカーに行ったりもした。一人でいつづけるものだから、なんだか性格が内向きになってきていたかもしれない。
大学生でつるむことはしない。ただ一人趣味に没頭する。でも、帰国後の焦燥は消えない。むしろ大きくなっている。
このままでいいのだろうか。これからどうする。改めて自分の将来に思いを馳せた。
世界の歴史を学んで、学者になりたいと思っていた。本を読んで勉強し、いつかの遠い時代の秘密を解き明かす。学者になれば、文献を読んで論文を発表するのだろう。
でも、何のためにそれをするんだろう?現地の人と触れ合い、拙い英語で交流したときの方が、ずっと刺激的で楽しかった。
そう思うと、学者になる夢は違うかもしれない。むしろ自分はグローバルな舞台で働いて、世界と繋がっていたい。そこにこそ、リアルな世界がある。自分にとって意味のある生き方はきっとそこにある。そして、それを叶える一番の手段は、ビジネスなんじゃないかと思った。自分が生み出す価値を媒介にして、世界と繋がっていく。机上だけで世界を論じるのではなく、自分を通して世界に実利のある価値をもたらす。
そうだ、ビジネスだ。幼いころ遊びに行った、父の会社のことを思い出す。
ビジネスをするなら、父の会社を継ぐ。経営者になる。それしか考えられなかった。
経営者になろう。そのためには、ここじゃないどこかへ。人として成長できる環境に身を置きたい。手や足の先、体の隅々までを満たす焦りが、少しずつ渇望に変わっていくようだった。何かしなければ。今の自分を変え、まだ見たことのない景色を見てみたい。そして力に変えるのだ。
大学3年生のとき、就活を目前にして休学。1年間、ビジネスを学ぶため留学することにした。父も「行ってこい、どんどん世界を知ってこい」とこの時ばかりは背中を押してくれた。学者の道を辞め、再び会社を継ぐ気になったからなおさらだった。
ビジネスや経営を学ぶなら、日本ではなく海外の学校にしようと決めていた。スキルとして英語は身につけておきたかったし、やはり広い世界と繋がっていたかった。
英語圏のビジネスカレッジを調べてみると、候補となる国は3つに絞られた。オーストラリ・ニュージーランドかアメリカ、もしくはイギリスだ。第一候補のオーストラリア・ニュージーランドは、訛りもあるしコネクションもないと思いやめた。残る2国を比べると、アメリカは好きな歴史や芸術、クラシックがない。ヨーロッパの方が、自分はモチベーション高く、さまざまなものに好奇心をもって過ごせそうだった。
イギリスにしよう。曇り空に佇むビッグ・ベンに思いを馳せる。ロンドンのビジネスカレッジに申し込むことにした。
はじめの8か月は、現地の語学学校に通うことになる。目指す学校で学ぶために、まずは英語試験「IELTS(アイエルツ)」の得点を上げなければならない。テストに合格すれば、その後の4、5か月、晴れてロンドンのビジネスカレッジで学べることになっていた。
語学学校には、世界中から生徒が集まってくる。とはいえ一番比率が多いのは、やはりヨーロッパだ。残りは、アジアやアラビアからやってくる少数の生徒が在籍していた。自分もその中の一人。スピーキングに自信はない。心細くも、新しい学生生活がスタートした。
入学後、最初は一斉にペーパーテストを受けさせられる。成績は、それぞれのクラス分けに反映される仕組みになっていた。
日本人からすれば結構簡単な問題だった。なんだ、こんな問題でいいのか。後になりそれが仇となることを知る。
結果を見て、思わず冷や汗が出た。予想よりかなり上位のクラスに組み分けられていた。自分は簡単なスピーキングしかできない。大丈夫だろうか。
クラスの初日。教室を見渡すと、ほとんどヨーロッパ系の人しかいなかった。彼らはペーパーテストは苦手だが、反対にスピーキングは得意だ。そうなると、授業が今から心配だ。周囲では流ちょうな英語が話されている。海外の人は声も大きいから、会話は嫌でも耳に入ってくる。それが、ほとんど聞き取れない。
頭の中には、「喋れない」「怖い」以外の言葉が浮かばない。絶望の淵に立たされたような気持ちとはこのことか。そっと、誰にも触れられぬよう、一人縮こまっているしかなかった。
しばらくすると、先生が教室に入ってきた。気さくな人のようで、明るい笑顔を振りまいている。でも、お願いだからこっちには話しかけないでほしい……。
願いはむなしく届かなかった。
「Whe d…… …?」
アジア系が珍しいから目についたのかもしれない。簡単な英語で質問された。そう、とても簡単な英語であるはずだ。ラフな感じで聞かれたし、すごく短文だった。だけど、それがどうしても聞き取れない。
教室中の視線がこっちを向いている。冷や汗が噴き出すのを感じながら、何回も何回も聞き返した。優しい先生は、ゆっくりはっきりと同じ質問を繰り返してくれる。それが一層耐え難い。繰り返される度に顔が熱くなるのが分かった。
「Where do you live?」
たぶんそう聞かれているのだとやっと分かった。でも、焦っているからか返す言葉が出てこない。さっきからの沈黙が痛い。早く終われと苦し紛れに、こう答えた。
「Around here.」
どっと、教室は一斉に笑いに包まれた。何故だ。笑いなどとっていない。100%真面目に答えたつもりが、冗談だと思われたようだった。この辺に住んでいます。だって、そんなの当たり前だ。言うまでもないことだった。
恥ずかしくて死にそうだ。英語力のない自分が悪いが、本当にショックだった。
もうここにはいられない。こんな簡単なはずの英語にも答えられないのだから、どう考えてもレベルが合ってない。時計の長針をにらみつけながら、早く授業が終わるようにと祈る。時間は私の気持ちを無視して進むようだった。終わりのチャイムが鳴ればすぐに、校長室に駆け込んだ。
「クラスを落としてください」。こんなの無理だ。
「もうちょっとやってみて」と先生は苦笑い。全然本気で受け止めてくれない。いやいや、どう考えても無理だと思った。
ここで折れるわけにはいかない。切実な交渉の末、一つクラスを落としてもらえることになった。スピーキングは喋る機会がなければ成長しない。逆に、成長するためには喋ってなんぼだ。それに海外では、喋らない人は意思がないと思われる。
クラスを変えてもらえて本当に幸いだった。
初日の波乱を潜り抜け、授業にも慣れてくると、留学生活は少しずつ楽しくなってきた。
自信のなかったスピーキングも、「喋れない」とは言い訳できない環境に放り込まれると、思いもよらない成長を遂げられると分かった。やるしかない。伝えるしかない。そんな環境が確実に自分を鍛えてくれた。
さらに学校では、さまざまな宗教・人種の友達がたくさんできた。彼らの価値観や生活習慣を知るうちに、自分の気持ちがオープンになってくるのを感じる。性格が外向きになり、明るくなったのかもしれない。
1年後。満足感とともに、日本へと帰国する。
高校の友達に再会すると、「めっちゃ変わったね」と驚かれる。自覚する以上に、自分の何かが変わったようだった。それはきっと良い変化だったのだろう。
それまで日本の大学にいたときは、どちらかというと一匹狼で内にこもる性格だったが、今では心がオープンになり、チャレンジングにもなった。こんなに人って変わるのかと、自分のことながら驚かされた。
想像もつかない世界。新しい世界。やはりそこには、人生にとって大切なものがある。
経営者になるために必要な成長に向け、一歩進めただろう。まだまだ足りないが、夢見る未来に向けて強く歩んでいく道は開けそうだ。
父の会社を継ぐために次の一歩は何がいいだろうか。就職先、会社を選ぶ上で何より大切なのは、自分が成長できることに他ならない。
経営者。成長。グローバルな仕事に就きたいという気持ちもあったから、就職先は大手のメーカーか商社と決めていた。
全部で10社程度にエントリーし、なかでも一番早く内定が出たのが富士通だった。父の会社も富士通の製品を扱っている。内定を父に話すと、四国の支社長を紹介してくれた。ありがたくお話を聞くとなかなか良さそうだった。ほかにも知人に話を聞いてみると、若いうちから裁量をもって働けると話があった。求める環境はここにありそうだと思えていた。
迷いはない。意志は固まった。成長するために、この会社を選びたい。就職を決めたのは人よりだいぶ早かった。
「就職活動のときは『セールスをやりたいです』と言って入ったけど、部署配属の希望を出すときは『一番忙しいところ、成長できるところに入れてくれ』とお願いしました。それから最初はメガバンク向けのセールス部門に配属されて、あいだにマーケも経験させてもらいました」
無我夢中で働いた。苦しい経験も、成長のためのバネだと信じられる。人に話せば馬鹿げていると笑われるほどの目標を掲げ、息切れしそうになりながら走ってたどり着こうとした。夢を現実にする。そのための努力は少しも惜しむつもりはなかった。
心に決めたものに徹すると、また見える世界が変わっていくのが分かる。世界がそれを中心に回りだす。気づけば3年があっという間に過ぎた。
気づけば父の70歳の誕生日が迫っていた。
70歳といえば、何かの節目のような年齢でもある。まだまだ父も元気に働いているが、いつ何があるかは分からない。
社会人3年と父の70歳の節目。ふと、このままでいいのかと考え、経営者を夢見ていた初心に立ち返る。
機会に恵まれ、会社には感謝している。しかし、分業制の大手企業には経験できる幅の限界もある。営業なら営業、マーケならマーケしかできない。父の会社に戻る前に学びたいことの一つ。私はもっと、経営を学ぶ必要があると思っていた。
いつ、自分はそれをやるんだ。
このまま行けば、時間の流れが自分をどこかに運び去ってしまうのではないかと恐ろしくなった。望みはきっとそこにない。そうではなく自分自身の意思に従って、歩む道を決めたい。挑戦するなら今しかないんだ。そう考えたとき、会社を辞めてMBAで経営を学ぶ未来が思い浮かんでいた。
そうしよう。どうせやるなら、とことんやりたい。そうであるならばと、授業がフルタイムの学校を探した。そうなると国内は、一橋ビジネススクール(HUB)か慶應大学ビジネス・スクール(KBS)に絞られた。校風としてはHUBの方が学術的で、KBSの方が実践的だとも分かった。
さらに私は、海外のビジネススクールにも留学したかった。何度も旅した世界。自分の想像を超えるものが待っているあの世界。もう一度、そこで学びたい。
情報を集めていくと、アメリカのMBAは厳しいと分かった。計算すれば、受験勉強に少なくとも2年ほどかかるようだ。しかし、今からそんな時間はない。アメリカ以外の海外MBAに交換留学できる制度を持っているのは、国内でKBSだけだった。ならば進み道は決まったようなものだった。
願書を出して、試験を受ける。晴れて合格。
父に報告し、修行はこれが最後、戻って父の会社へ入社することを約束した。
KBS時代の温泉旅行にて。手前左がのちに共同創業者となる志賀
入学1年目はKBSで、2年目にはドイツのマンハイム大学ビジネススクールへ約6か月留学した。2017年3月に卒業し、香川に帰る。
懐かしい故郷の地を踏んで、久しぶりに父の会社の入り口をくぐったのは、30歳のときだった。
祖父が社長をやっていたころの会社は、純粋な商社機能が強かった。売上の8割を電力会社向けの機器に依存していたところ、父の代になってからポートフォリオを大きく変更したようだ。いまや自社でSI機能も持っていて、そのほか太陽光・ドローン・AI・ロボットという多彩な領域にまで事業を拡大できたのは、父の手腕によるところが大きい。
入社後、総務人事や経理財務などコーポレート系の業務に従事することになった。一社員として真剣に働きたい。まだまだ会社のことが分かっていないから、先輩社員の方の力を借りながら、一から積み重ね、少しでも早く会社に還元できるようになりたかった。
ある日、上司に呼び出される。「社長室に来い」という父からの伝言だった。
何の用件かは分からない。とにかく向かうと、自分の今の業務とは違った経営に関する議論が待っていた。問題はない。会社のためにできるだけ力になりたいと思っている。しかしそのとき、かすかに違和感を覚えた。私だけ、ほかの従業員とは別枠でとらえられ過ぎていやしないかと。
それからも、何かあるとすぐ社長室に呼び出されるようになった。「息子だから」という特別扱い。そんなことする必要はない。フラットに一社員として見てもらえればいいと、父にも相談してみるが、聞く耳を持ってはもらえなかった。違和感は徐々に大きくなっていく。
この気持ちは何だろうか。形容できぬその気持ちの正体について考えさせられていた。
「途中からオーナー企業というものに疑問が湧いてきて。ビジネススクールに行くと、自分なりに会社の理想ができてくるんです。それが父の会社に入ったとき、自分の理想とオーナー企業という現実のあいだにギャップがあったんです。やっぱり創業一族が既得権益を持ちすぎていると」
入社試験はなく、給料もよく、早くに昇格もする。アンフェア感を生むような既得権益の存在は、会社のためにも従業員のためにもならないと思った。会社とは社会の公器として向かうべき未来のために、もっとも合理的な方法を選択するべきだと。そこには家族であることも親族であることも関係ないはずだ。
会社の進む道を決めていく。その大切な経営者という役割に、最も適任なのは誰なのか。誰が会社を未来へ導いていけるのか。きちんとリスクを取って、会社にとって正しいと思える判断ができる人は誰なのか。それをバイアスなく判断すべきである。
フラットな競争があり、人格面や能力面含めて最も適任である人材が息子であったのならばそれでいい。しかし、はじめから息子の継承以外の選択肢がないとしたら、それは会社のエゴではないだろうか。
会社は何のためにあるのか。少なくとも個人のためではない。もっと会社と個人を分離すべきではないかと考えていた。
経営陣に向かって考えを伝えると、「(息子以外に)そんな人材はいない」と父が言う。育ててこなかっただけなのだから、これから育てていけばいいのだと私は考える。そのための組織構成も考えればいい。それが結果として、従業員や社会のためになっていくはずだ。
会社とは、社会のためにあるはずだ。
社会のためにサービスを提供し、対価をもらう。従業員の労働環境を整え、給与を支払う。会社は自分の息子が安定するためのものじゃない。もっと社会的なものであるし、そうなっていかなければならないはずだと信じていた。
父や経営陣との議論は平行線が続いていく。いつまでも、まとまらない。正直、彼らの価値観の外にある意見を主張する私は、まるで宇宙人のような存在に見えていただろう。息子なのだから経営者の座を継ぐのが当然だろう、と。
結局、意思が交わることはなかった。
それならここで自分の理想を追求するのは難しい。
気持ちが急速に冷えていくのを感じた。信じるもの、納得できるものしか自分は突き詰められない。ここにいても自分が信じる会社を創り出すことはできないだろう。ただ、お互い不幸になるだけだろう。
継承はやめよう。答えが出るのは早かった。
自分が信じて誇れる道を行くならば、それ以外はない。
父と
経営者として生きる。
継承をやめようと考え出してから、その後の生き方について繰り返し心に問いかけていた。結局、切望するものは変わっていなかった。
幼いころ、父と祖父の姿を見て育った私はその仕事の魅力を二人から十分教えられてきた。起業する。でも、まずはどこかの会社で修行をするでもいい。いずれの選択肢を取るにせよ、将来どこかで経営者という仕事をすることは絶対に外せない条件だった。だからといって、ここで経営者になるのも違う。
それなら自分で会社をつくるべきか?もしもゼロから自分で起業するならば、どんな会社をつくるだろう。どうせなら良い会社をつくる以外ありえない。じゃあ、良い会社って何だろう。自分の理想の会社とは、どんなものになるだろう。
理想の会社、会社のあるべき姿、社会にもたらすもの。未来に思いを馳せてみると、自分の中に眠っていたものがあふれ出していた。
「やるなら10年20年先まで残っているビジネスがいいなとずっと思っていて。父と祖父の会社が堅かったからそうなのかもしれないですけど、やるなら何かしら未来に大きなものを残すビジネスがいいなと。それからやっぱり、自分個人の懐を潤すとか、自分の息子が金持ちになって安定するとかじゃなくて、一歩でも社会の公器に近づいていける会社。それってやっぱりスタートアップだなと思ったんですよ」
自分たちだけで株式を保有し、100%オーナー企業として中小ビジネスをやっていく。そうではなく、しっかりリスクを取り、外部の株主も入れ、社会に対し最短で最大のインパクトを与えていく。そんな使命を抱える組織。自分が欲するものはそこにある。
起業したい。スタートアップを生み出し成長させる。そのとき初めて明確な意志が芽生えていた。
そのころ父の会社では、東京の電力系メーカーを買収するという話が持ち上がっていた。東京進出をかけた、会社として過去最大のM&Aとなる。私は幸運にもそのM&A案件にアサインしてもらっていた。
気持ちもそぞろに仕事で東京に出張することになる。
思っていると引き寄せるものなのか、タイミングを同じく、懐かしい級友からの連絡が舞い込んできた。
「話聞いたよ」
志賀卓弥。KBS(慶應大学ビジネス・スクール)時代の同期だ。現役の麻酔科医として、国立大学の病院で働いていた志賀は、授業にもスーツでやって来る。かちっとした印象を与える人物で、どちらかと言えば無口で近寄りがたい。当時のクラスでも、異色のオーラを放っていた。
私は変わらず気にしない性質である。一度話してみれば、外から見えている印象と、内に秘められた魅力的な人柄のギャップに驚いた。
以来、親交が深まるまでに時間はかからない。気が合うから一緒にビジネスコンテストにも参加した。朝から晩までの授業、日常的に課せられる宿題、それに加えてビジネスコンテストの準備を進めなければならなかった。チーム4人、日吉キャンパスで朝方まで頭を絞ったのは良い思い出となっていた。
志賀は、KBS同期の中でも最も仲が良く、信頼できる人物だ。
志賀から連絡があったとき、直感で起業の話だと理解した。共通の友人に「起業したい」と悩みを相談したことが、どこかで彼の耳に入ったのだろう。彼もまた起業を考えていることを、友人経由で聞いていた。
数か月ぶりの東京。父の会社に入る前とは、なんだか少し景色が違って見えた。変わったのは、もしかすると自分の方なのかもしれなかった。
夜。会社の飲み会が終わり、私だけは別れて電車に乗った。行き先は水天宮前。ロイヤルパークホテルの地下にあるバーで待ち合わせ。
志賀と会って飲む。何も起業の言葉は交わしていないが、なんだか心は分かっていた気もする。駅の出口から出て肌寒い夜の東京を目に映しながら、心にはあたたかな炎の種があるのが分かった。
はじめて感じる気持ち。恋人とのそれとも違うドキドキとした気持ち。久しぶりの再会をした。直接話すのは卒業以来だった。
「久しぶりだね」
「聞いたよ、色々人生悩んでるみたいだね」
話は自然と仕事の話題に及んでいく。父の会社は継承しないとして、転職するか、はたまた起業をするか。いくつかの選択肢が目の前にある。それらを前にして、私はまだ向かうべき目的地を決めきれずにいた。
対して、志賀には進むべき道が見えているようだった。医師として抱えていた病院経営に対する課題感、手術室のマネジメントにおける非効率。それら社会課題を解決するために、会社を起こしたい。しかし、志賀自身は現役の医師として勤務先があり、CEOにはなれない。志をともにするCEOが必要になるということだった。
「一緒にやらないか」
真っ直ぐそう言われたとき、正直もう答えは決まりかけていた。やれると思ったし、志賀のことは信頼している。でも、即答しなかった。ほかにも誘ってもらっているあてもある。「やりたいね」と好意的な反応は返しつつ、その場で決断を下すことはしなかった。
困ったように笑う志賀からは、早く返事がほしいと急かされる。もっともだ。でも、なんだかそう簡単に答えを出していいものか躊躇われた。それくらい、真摯に心で受け止めるべき問題だと思っていた。
固く握手を交わして、その日は別れた。帰りのタクシーに乗り込み、帰路に着く。窓の外を流れる夜の街並みは、こちらの心を見透かすように光を放っている。それを目に映しながら、ゆっくり目を閉じる。答えはそこにある。心の中で覚悟を決めた。
父の会社を辞め、志賀とともに起業する。そこに、人生をかけよう。
父に思いを伝えたのは数か月後、鋭い寒さに覆われた真冬のことだった。緊急で経営会議が招集される。予想通り、父とは過去最大の大喧嘩になった。
もともと父は将来会社を2つに分けて、四国を兄が、東京と海外を弟の私が継ぐ未来を描いていたらしい。でも、自分はその未来を継承することはできない。自分は納得したことしかやれない。何があっても意思は変わらない。これまでの人生で分かっていたことだった。
議論は、兄が会社を継ぐということで終結を見た。
個人のためではない、社会のための会社をつくりたい。経営者として、心から信じられる価値を世の中に生み出したい。自分にできうる最大の努力をもって、多くの人の人生を豊かにしたい。そうすることが、何より自分の誇れる生き方だから。
2018年1月、エピグノシステムズ株式会社は走り出した。
今、この地点からはまだ想像もつかない未来。そこにあるはずの自分のロマンに思いを馳せている。
出資を受けたインキュベイトファンドのオフィスにて。共同創業者の志賀と
日本には、世界に誇る医療システムがある。
すべての国民が等しく医療を受けられる。国民皆保険制度と呼ばれるシステムがそれにあたる。2000年には、世界保健機関(WHO)が世界で最も成熟している医療システムとして日本を評価したほか、その充実度は経済協力開発機構(OECD)加盟国中でもトップレベルと称賛されている。
私たちの暮らしを支え、なくてはならないものとして機能する国民皆保険。しかし、1961年の創設から半世紀以上が経った今、避けることのできない時代の波がすぐ目前にまで迫っている。
超少子高齢化の進行による医療費の増大、圧倒的な売り手市場が続く医療従事者の人材不足。2019年、厚生労働省により発表された日本の社会保障費は総額42兆6000億円といわれる。今、その数字はかつてないほどに増えつづけている。
不足する医療費と医療従事者。どちらか一つでも欠けた途端、日本の医療システムは崩壊するといわれる。新たな時代に向けて、持続可能な医療システムを再構築することは大きな社会課題となっている。
「特に2025年は大きな節目の年で、すべての団塊の世代が75歳を超えて後期高齢者になるんです。その年に医療の需要がピークになると言われていて。そこに向けて医療従事者は足りないし、国民の医療費負担もやっていけなくなる。今、私たちは何でも自己負担3割で医療を受けられているけど、このまま子どもや孫の世代になったとき、果たしてそれが維持できているのかは疑問なんです」
エピグノシステムズは、国の根幹を揺るがす医療の社会課題を解決するために設立された。現役の麻酔科医であり取締役最高医療責任者(CMO)に就く志賀と、CEOを務める乾によって共同創業された同社は、テクノロジーの力で日本の医療を変えるべく事業を描く。
「医療従事者の人たちは量として足りない。でも、量は一民間企業が何とかできる問題じゃないと思っています。A病院からB病院へ人材を紹介したとしても、日本全国の医療従事者の分布を変えているだけで、あまり本質的解決にはつながらない。これは国に任せるしかないとして、病院の生産性とか効率性とか、もう少し医療従事者の人たちが快適に過ごせる労働環境は、今のマンパワーでも実現できると思っていて。そこに対して、テクノロジーを通じてサポートしていきたいと思っています」
まず、日本の医療システムを支える医療従事者の働き方を変えること。それにより、人手不足によってますます過酷になる医療従事者の労働環境を改善する。さらにエピグノシステムズでは、病院経営そのものにもアプローチしていきたいと考える。現状75%が赤字経営といわれる病院は、未来、その数自体が減少しかねない状況に立たされているのだ。
「私たちはまず個別の病院を良くしていかないといけないと思っています。経営的に投資がしやすくなるとか、きちんと人が雇えるとか、一つでも病院経営が自立できるようにしたい。そういう病院を一個でも多くつくっていかなきゃいけない。そうすることで、将来的にもその病院は医療を提供できるようになります」
思いは創業時から変わらない。全ては未来の患者と家族のために。未来を生きる人々が、現在と同じように保障された医療を受けられる社会を創る。
きっと変革は、一つの病院から始まっていく。そこから波紋のように広がって、やがて社会全体を大きく動かすものとなる。医療従事者の働き方を改革し、病院経営を健全化する。それにより、日本の医療を持続可能なものに変えていく。
エピグノシステムズは、まだ見ぬ未来を思い、社会に意義ある事業を生み出していく。
お客様である川崎幸病院の医師・看護師たちと
創業当初は、「手術室のAIマネジメントサービス」からスタートしたエピグノシステムズ。属人的でアナログな管理によって機会損失が生まれていた手術室のスケジューリングを、AIにより自動化するというサービスは、共同創業者であり現役医師でもある志賀の課題感から生まれたものだった。
しかし、事業を展開すべく多数の病院を回るうち、現場の声の中からもっと必要とされているソリューションがあることが浮き彫りになってきた。
海外では「Nurse Rostering Problem(ナース・ロスタリング・プロブレム)」とも呼ばれるその問題は、医療業界においては広く認知されている。それは、病院経営のなかでも「人」にまつわる問題だった。
「看護配置っていう、すごく難しい問題があって。たとえば、看護師のシフトや手術へのアサイン、誰がどの病棟を受け持つか、夜勤に誰が入るとかって、それぞれ看護師のスキルや経験を踏まえながら決めていかないといけない。しかも、ただ人数を揃えるだけじゃなく、看護師にもいろいろ種類があるし、遅刻欠勤があったら減算しないといけないとか、計算の仕方もすごく複雑になるんです」
たとえば、手術を扱う急性期病院では、術後の容態急変の可能性があるため7人の患者に1人の看護師がつかなければならない。一方で、リハビリテーションなどを提供する回復期病院では、10人の患者に1人の看護師でよい。
単なる労務管理のようにも見えて、看護配置が変わるだけで、売上400億円規模の病院の売上が10億も変わることもあるなど、病院経営へのインパクトは大きい。また、ある程度規模のある病院では必ず監査が入る。違反していた場合は多額の罰金を支払わなければならないので、人為的ミスも許されない。
そのルールを決める厚生労働省の基準は数百ページにも及ぶ。この複雑なルールを遵守しながら、看護師が成長できる体制づくりや労務管理を行うことが、病院経営にとっては重要な関心事となっているのだ。
エピグノシステムズでは、この看護師マネジメントをAIによって最適化するシステムを提供していく。
在籍している看護師のスキルや経験を全て見える化するスキルマップ。多大な時間がかかっていたシフトの自動作成、労務管理。そして、国の監査で提出しなければならない「様式9」と呼ばれる重要な届け出書類を自動で作成できるようにする。
厳格な基準に耐えうる提出書類を作成するためにかかっていた人的コストの約9割をAIが担い、残りの部分を、属人でしか測れない看護師の状態認知など調整にあてる。看護師の業務負担を軽減し、スキルを可視化することにより看護師の成長を促進する。それにより、病院経営の健全化に貢献していくサービスだ。
社会にとって、病院は欠かすことのできない存在である。あまりに当たり前になり過ぎて、意識されること少ないものかもしれない。しかし、その裏には医療従事者のひたむきで献身的な努力がある。命に触れる重要な職務を担い、私たちの人生を支えてくれている。
仕事を担う人が幸せに働けること。仕事を通じて人生が豊かになること。その大切さは、病院経営においても変わらない。
現状を変えていきたい。新しい未来を創りたい。それが社会のためになるはずだから。エピグノシステムズは信じる道を、誇りをもって歩んでいく。
良い会社をつくりたい。起業の発端には、純粋なその思いがあった。
会社として、社会のために事業を成すのは当然だ。しかし、「良い会社」とは何かを考えるとするならば、メンバーが幸せに働いてもらえる会社が一番だと乾は考える。
看護師にエンジニア、ビジネスサイド。同社には現在、全く異なるバックグラウンドを持ったメンバーが集まっている。各々の思いや人生があるなかで、「テクノロジーで医療をよくしたい」という、ただその思いだけは共通して持っている。
「ベンチャーって確かにリソースが限られているからできることにも限界はあるけど、結局その人がリスク取ってベンチャーに来てくれるということは、何かを変えたいと思ってくれている、解決したいと思ってくれているんだと思っていて。(上から目線ですけど、)それを優先したいと思っています」
それぞれの意思に従い集ってくれたメンバー。彼らが幸せに働ける会社であるために、できるだけメンバーには裁量権を渡すほか、挑戦したいことには挑戦しやすい環境を整える。そうして各々が考える方法で、医療にまつわる社会的な課題を解決していけるようにする。
全社的にリモートワークを導入する同社では、毎週水曜の定例会議に集まりさえすれば、働く場所に制限はない。自分たちのパフォーマンスの最大化を考えて、働きやすい環境を選択してもらえればよいと考える。副業も禁止しない。管理や束縛よりも、やりたいことをやれること。メンバーが自発的に仕事に取り組める土壌をつくることを重視する。
「基本、私は従業員を信じていて。あんまりサボってないと思ってるんです。サボってるかもしれないけど(笑)、あまり『会社に来い』とか『あれやれ』とかそこまで強く指示してなくて。直近3カ月でこのプロダクトローンチするとか、会社として目指す方向は決めるけど、それに対するアプローチは結構自発性に任せています」
自分が信じる仕事をやる。まだ見ぬ未来の社会に向けて、情熱をもち最大限努力する。そうやって働くからこそ、自分の会社や仕事に誇りを持てる。
純粋に、子どもや親族に誇れる仕事をしてほしい。働く人に誇りをもってもらえる会社にしていきたい。乾の願いは、エピグノシステムズの根幹に流れている。
仙台出張にて。
現在26歳で執行役員 最高製品責任者(CPO)を務める第一号社員、オリヴィエ(中央)の歓迎会を開いた
大企業を経験し、スタートアップの世界へ足を踏み入れた乾。自身で苦悩を経たからこそスタートアップの「悪いところ」も知っている。
転職者には当然、大きな環境変化が予想される。社会に対し思いや情熱を持っていたとしても、なかなかアクセルを踏みこめないという人もいるかもしれない。そのアクセルは踏むべきかどうか。
「まず一つ悪いことから言うと、ベンチャーってそんなに良いところじゃないと思っています。今、日本全体的にベンチャーが流行っていますけど、それだけでいいとは私は思ってなくて。スタートアップに入ればすごく成長できてハッピーみたいなことはない」
スタートアップに行けば成長できる。現実はそう単純ではない。
表から見れば華やかに見える会社でも、投資家から資金を調達し、毎日資金がショートする不安と恐怖と闘っている。不安定な足場の上をなんとか渡っているに過ぎないかもしれない。
たとえば、数人しかいないメンバーのうち1人が辞める。それだけで、100人のうちの1人が辞めるのとは比べ物にならないくらいのインパクトがある。経営が傾く要因もあちこちに転がっている。不確実、不安定が当たり前の毎日のなか、それでも前へ進むため行動し、意思決定を重ねていかなければならない。
「それでも行きたい、絶対に成長できるという自信があるのなら、スキルセットが合わないことはまずどうでもいい。絶対にキャッチアップできると思うんです。ただ、マインドセットが大事かなと。スタートアップって、その場ですぐ方針が切り替わる。『やめよ』『これやろう』とか、『やって』っていうことも『(明日じゃなく、今)やって』だったりする世界なので。スピード感と柔軟性さえ意識して自分が変わっていってもらえたら、たくさん重宝されるんじゃないかなと思います」
一日の8、9割を不安が占めている。しかし、残り1、2割の希望、その小さな可能性に向かって進む。人生をかける。情熱を燃やす小さな集団が、やがて社会をも塗り替える。結果、目的を達成したときは、これまでとは全く違った景色が見えている。その感動は、おそらく成熟した企業では決して経験できないものであることもきっとそうである。
経験もなくたっていい。大きな企業で得た経験はいつか生きる。そこには、スタートアップ企業には決して真似できない仕組みがある。多くの人が働いて、経費が支払われ、滞りなく企業が回る。それだけで、毎日何兆円という売り上げが積み上がる。その仕組みに関する知見は、拡大成長していくスタートアップでは、どこかのフェーズで必ず必要になるものでもある。
経験がない。だからといって、自分を卑下する必要はない。ただ、スピード感と柔軟性を胸にして、信じるもののために進めばいい。
自分にとって、信じる道は何なのか。何のために、その道を進むのか。
はじまりは何も見えない暗闇のなかでも、苦悩を乗り越え努力を続けるならば、いつか新しい世界が見える場所にいる。乾はそれを、人生をかけて証明しつづける。
2019.10.25
文・引田有佳/Focus On編集部
ロマンとは何であるか。ロマンは夢とは違うのか。甘美な響きを同居させる夢のことをいうのか。あるいはそれは、追いつづけることを前提とする空虚な物語なのか。いずれにしても「掴むことのできない何かに思いを馳せる」という意味をその基盤にもつのだろう。
今手にしていない、という意味においては「未来を見る」ということともロマンは重なるのだろう。しかし、ロマンという言葉に翻弄されずとも、私たちは未来を描き、創り上げてきている。ロマンという言葉を掲げずとも、社会の進歩は導かれてきたようにも思える。
私たちが未来を描くときにはパターンがある。未来をどこから考えるかに着目すると、「現時点での実現可能性を無視せずに計算し、描く未来」と「現時点での実現可能性を無視した状態での未来」に大きく分けることができる。前者は過去のデータから積み上げ紡いで実現を目指すものであり。後者はSF映画のように(着想は現実的なラインからの想像であることもあるだろうが)未来の状態から逆算して、実現可能性の論理を導き出そうとするものである。
どう未来を描くかによって、描いた未来に対する取り組みの過程は異なっている。過程が異なれば、結果導き出される未来も変わってくる。私たちがどのように未来を思うかによって、引き寄せる未来は変わってくるのだろう。
では、乾がたどり着いた「ロマン」とは何なのか?その到達点に敬意を表しながら、ある学会誌の巻頭コメントを参照してみたい。
辞書によれば,「ロマン」とは「強いあこがれを持つこと」だそうで,そうなると「美」を求めることは「ロマン」に繋がることになろう.「あこがれ」というのは「まだ見ないもの,会えないもの」を探し求めるということになろうが,「まだ見ぬもの」にも,存在は知っているけれどまだ見たことはないものもあれば,存在すら知らないが見てみたいものもあろう.後者の場合,ロマンを作ること自体がロマンと言えよう.昔はこのような「まだ見ぬもの」へのあこがれはごく普通だったと思う.ところが最近は何でもンタ―ネットで探せるので,「まだ見ぬもの」がないかのような錯覚に陥ってしまう.ロマンは欠如していないかしら.
―早稲田大学名誉教授 村岡 洋一
存在すら知らないが見てみたいものがロマン。ロマンを作ることがロマンであるのだ。
ロマンとは絵空事を描くことなのか。何かの欲にふけることなのか。もしくは、それ自体に何かの狂信的な気持ちをもって誰かが没頭する理由なのか。ロマンはロマンで終わるだけのものなのか。そうではない。ロマンとは、この世に存在すらしないものを生み出すための出発点であり、エネルギーなのである。
なんとも文学的のようにも映るかもしれないが、それは真実であるように思える。
ロマンには意味がある。ロマンなくして、私たちの未来は現在の延長線上から逸したり、既知の出来事の焼き増しとなることを免れることはない。反対に、ロマンがあれば現在の様相にとらわれず、誰かが願う未だ見ぬ未来の形を創り出せるのだ。それこそが真のイノベーションではないだろうか。
過去からの未来予測の精度が加速度的に進歩しつつある今。容易く想像し計算しやすい未来もある。ロマンをもたずとも明日を生きるには困らないかもしれない。それでもそこで得られるものは、今見えている世界と一脈通じるところにあるのだろう。
だから、私たちは見たこともない未来が救う未来のためにロマンを描きたい。その時に、ロマンを語り、ロマンを創り、信じる者がそこにいれば。そのロマンチストの一歩は、誰しもが未だ見ぬ未来を創り出す。
ワインが醸し出す響きは、その味わいと深淵な景色を知り、味わいに自己を没入させる者にしか手に取ることができぬものであると思えるように、私たちが手にすべき本当の未来はロマンを語る者の言葉の響きの中にあるのかもしれない。
文・石川翔太/Focus On編集部
※参考
村岡洋一(2013)「『美』と『ロマン』」,『情報処理』54(6),情報処理学会,< https://ipsj.ixsq.nii.ac.jp/ej/?action=repository_uri&item_id=91959&file_id=1&file_no=1 >(参照2019-10-24).
エピグノシステムズ株式会社 乾文良
代表取締役社長CEO
1986年生まれ。香川県出身。大学卒業後、富士通へ入社。メガバンク担当アカウントセールスとして、銀行システムのセールスに3年間従事。その間にマーケティングワーキンググループにも最年少メンバーとしてアサイン。また、大型商談の担当セールスとして社内表彰受賞。退職後、慶應ビジネススクールにてMBAを取得。専門は経営戦略。また、在学中にドイツマンハイム大学ビジネススクールへ約6ヶ月間留学。卒業後は家業である商社にて経営企画業務、経理・財務業務、M&Aを担当。継承を考えていたが、ビジネススクールの学友である志賀と出会い、エピグノシステムズを共同創業。