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保育園のICT化は今 ―「困っている人」を助けられるか

誰かを助けるのに特別な理由はいらない。自分がそうしたいと思い、行動する。ただ、それだけのことだ。


保育士や保護者が、本来子どもと触れ合うはずの時間を取れるように。株式会社APProgの保育園向け業務支援システム「kids plus(キッズプラス)」は、ITに抵抗のある保育園職員や、各園それぞれの方針にも柔軟に対応できる設計で、全国の保育所に導入されている。(厚生労働省による「保育所等における業務効率化推進事業に係る補助金交付」に対応している。)東京、大阪、福岡に拠点をもつ同社にて、創業以来、誰よりも保育園に寄り添い、現場をサポートしつづけてきた取締役COOの松岡弘樹が、自らを犠牲にしてでも助けたいものについて語る。




1章 子どもたちの未来


1-1.  保育園のトータルサポート企業


目の前の人を助けるため、迷わず自分を犠牲にして手を差し伸べることができる人が、どれだけいるだろうか。


待機児童問題、保育士不足、保育所設置の規制緩和――保育の現場にはさまざまな課題が山積みである。なかでもICT化の推進は、人手不足が深刻な保育士の労働環境を改善するためにも、喫緊の課題であるといわれる。平成26年、国は「待機児童解消加速化プラン」を策定し、保育士の確保を進めるため、平成27年度補正予算にてICT化の推進について14億円の予算を立てた。ITの力によって保育士の業務負担を軽減し、継続的な雇用を生み出していく。


そんな「保育×IT」領域で事業を展開する株式会社APProgは、保育士が子どもたちと向き合う時間をより多く確保できるよう、日々の煩雑な業務負担を軽減し効率化したいという思いからスタートした。同社が企画・開発する保育園向け業務支援システム「kids plus(キッズプラス)」は、国や地方自治体が認定するICT化推進事業として各種補助金の対象となっている。仙台から沖縄まで100施設以上で利用されており、ICT化支援や保育家具の販売先を含めると全国で400施設を越える。


同社取締役COOの松岡氏は、創業前から保育士の声を自ら集め、保育現場の不安や要望と向き合いつづけてきた。同社の業務範囲がICTシステムの企画・開発にとどまらず、保育家具やICTサポートなど多岐に渡るのは、そんな真摯な姿勢に由来する。


「目の前の人が困っていたら助けたいとは思いますよ、本能的にすぐに」


ただ目の前の人を助けたいと純粋に願う、松岡氏の思いに迫る。


1-2.  待機児童問題


社会の変化に合わせ、保育という仕事もまた変化する。だからこそ、保育の現場に寄り添い、柔軟に変化していくサービスが求められている。


現在、共働き世帯が増加する一方で、三世代世帯は減少の一途をたどり、待機児童の問題が叫ばれて久しい。2008年には福田康夫元首相が「新待機児童ゼロ作戦」を掲げ、現・安倍晋三首相にまで続く問題となっている。しかし、その先に訪れるのは、待機児童問題対策で急増した保育園が供給過剰になる未来だと、松岡氏は語る。


「少子化少子化っていわれてますけど、保育園はどんどん増えていってるんですよね。待機児童も減ってますし。今後考えられるのは、保育園が余る日が来ることだと思うんですよ」


少子化により保育園に預けられる子どもの数が減少していった際、保育園にとっては、顧客である園児をいかに獲得するかが問題となる。そんなとき、職員が働きやすい環境や、園児の安全面を保障する「kids plus」のような独自サービスの導入が、ほかにはない保育園の特色となる。


「そういったものを保育園側がどんどんやっていかないと、何もしていないただの保育園は、経営が厳しくなっていくんじゃないかと思うんです。いまどんどん保育園がつくられているなかで、保育園と保護者の売り手市場・買い手市場が逆になってしまったとき、そういう現象が起きるんじゃないかなと」


保育園のトータルサポートを掲げるAPProgは、創業以来一貫して保育の現場に寄り添ってきた。現場から吸い上げたリアルな要望と向き合うことによって、保育園にとって真に付加価値の高いサービスを生み出すことを可能にしてきたのだ。


APProgはその業務範囲に制限をもうけないことによって、保育家具の導入コンサルティングやネットワークインフラ支援など、事業を多角化させてきた。それによって、保育士の労働環境改善のみならず、保護者の利便性向上など、保育環境全体を刷新していく。一つ一つのニーズに真摯に応えていくAPProgの精神が、日本の保育の質を高め、子どもたちの未来を創っていく。


同社が取り扱う保育家具「CoFa(コッファ)」は、「子どもたちが楽しみながら発達できる製品・空間」をデザインする。


2章 選択の意志


2-1.  目の前の困っている人


典型的なサラリーマン家庭で育った松岡氏。大手証券会社で50年働きつづけてきた父の姿は、苦しそうにも見えた。生まれてすぐに香川から東京へ移り暮らしはじめたのも、父の単身赴任がきっかけだった。


小中は地元の公立校に通い、派手なグループにいた。仲間と一緒に塾に通いながら勉強し、高校は私立を受験、大学まで内部進学できる中央大学附属高校に入学した。校則のない自由な校風で知られ、「自由をわきまえること」を学ばせてくれる学校だったという。


「本当に自由でしたね。なかでも僕は自由をわきまえない自由でしたね。僕、学年ビリで。大学も行けなくなりそうだったんですよ」


自由とは、誰かが決めた基準に従うのではなく、自分の心で判断し、行動することだ。自由だからこそ、従うべきは自分の信念である。自由だからこそ、選択できるし行動できるが、そこには結果への責任が伴う。大学に進学するための重要な試験の当日も、松岡氏は自分の意思に従った。


「高3の学力試験の当日に、立川から武蔵小金井に行く途中で、痴漢をつかまえたんですよ。そしたらそのまま小金井警察署に連れていかれて、6時間調書で付き合わされて。警視庁から感謝状もらったんですけど、大学に行く試験受けられなかったので完全に終わったと思ったんです」


本能的な、とっさの行動。それは松岡氏の心が選択した正義だった。結果、大切な試験は逃してしまった。大学にはもう絶対に行けない。パトカーで高校まで送ってもらう道すがら、絶望にかられていた。しかし、松岡氏を出迎えたのは、意外にも先生たちの暖かい称賛だった。


「職員室そーっと入っていったら、『松岡、よくやった』みたいな感じで、先生たちにすごく褒められ、当時の担任が推薦状を書いてくれて、僕は大学に行けたんです。その次の日くらいには、助けたお姉さんが改札で待っててくれて、ハンカチか何かもらった記憶があります」


自分の意思に従って行動したことで、称賛され、感謝された。自分の損を考えず自らを度外視した行動により、逆に自分に良いことが返ってくる。自分の心に従ったからこそ、誰かを救うことができた。松岡氏は、身をもってそれを体感したのだった。


目の前で困っている人がいれば、当然助けたいと思う気持ちが湧く。人を助けることは、人間の本性である。しかし、会社や学校、その他さまざまな自分の都合と天秤にかけ、人はそれを選択しない。困っている人がいても、正義の道があったとしても見て見ぬふりをしてしまう。


困っている人がいるのであれば助けなくてはならない。正しい道がそこにあるのであれば、選択することは当然のことである。どのような状況だったとしても、心が導く正しい道を選択するのが、松岡氏の常だった。



2-2.  タイの魅力


無事に大学に進学すると、はじめての海外、タイの首都・バンコクを訪れることになる。タイに行った先輩からの「すごくいい、行ってこいよ」という言葉に心動かされ、飛行機のチケットとパスポートと現金だけを握りしめ、その地を踏んだ。


「ほんと衝撃的だったんです。ご飯食べてても、夜中に盲目のおじいさんおばあさんがカラオケをしながら、物乞いをしてきたり。タクシー乗ってて大通りで信号待ちのときに、道路のど真ん中に腕のない子どもを抱えた母親がいて、花を売ってきたり。クラブとかで遊んでて朝4時に外に出ると、子どもがたばこを売ってたりとか、そういう国だったんですよね」


それまで日本の日常しか知らなかった松岡氏。タイの日常は言いようのないほどの衝撃を与えてくれると同時に、新しい世界を見せてくれた。松岡氏はタイに魅了されていった。お金を貯めては、タイを中心にアジア諸国へ赴く。3週間から一か月間滞在しては帰国する。そんな生活を繰り返した。大学の単位はあまり取れなかったが、かけがえのない経験に恵まれ、充実した大学生活だった。


「タイはほんとに魅力的なんですよ。自然も、人も、町も、食事も」


考えたこともないような世界に身を置くことで、自分の世界を広げ、人として成長することができた。そんな経験を、学生のうちからもっとしたほうが絶対にいいと、松岡氏は考えるのであった。


「まず社会人になったら、海外なんてほとんど行けないですよね。『とにかく学生のうちは借金してでも海外行け』って、全員に言ってました。『とにかく行けと、行ったらわかるから』と(笑)」


世界が広がったからこそ、自分の価値観も広がった。これまで見たことがない世界を見て、発想は豊かに、思考は柔軟になっていく。ものの見方が変わり、選択肢が広がる。そんな学びを伝えていきたいと考えるようになっていた。


タイの首都・バンコクの街並み


2-3.  思考を柔軟に


日本にはない、もっと広い景色が世界にはある。日本にはない日常が、そこにはある。それを純粋に広めたい。就職活動の時期になると、当時学生旅行で一番強かったHISに入社した。アジアの専門店に配属された松岡氏は、タイを中心とするアジアのビーチを売り、実績を残しつづけた。それでも、世界を見て柔軟な発想を得ていた松岡氏は、当初会社は3年で辞め、独立するつもりだったという。


「一般的に3年っていうじゃないですか。あと、できる限り社会人勤めをそんなに長くしたくなかったんです。なんか頭も凝り固まっちゃうし、まだ柔軟な脳があるうちに独立するつもりでした。3年は修行して、その経験を活かせる頭でいられるのが3年くらいだと思っていました」


思考を柔軟にしておくためにも、そこで見てきたものを広い世界に広げるためにも、3年と決めていた。思えば、周囲の人も同じ環境を選択している。高校のころの知人は自営業が多く、家庭では二人の弟も(父の背中を見ていた反面教師からか)、会社勤めではない道を志向し、行動していた。


「一つの企業にずっと勤め上げた人って、もともといた会社では仕事ができても、ほかの会社に行くと何もできなかったりとか、よく言うじゃないですか。サラリーマンやって長ければ長いほど、一般的に自分で事業をやることに向いてないと思っているんです」


自分を「柔軟」にしつづけるためにも、会社にいつづけてはいけない。そんな思いを抱きつつも、実績を残しつづけていたからこそ、上司からは「辞められると困る」と引き留められていた。会社を取るか自分を取るか、悩みながら6年の時が経過しようとしていたとき、声をかけてくれたのが、当時のお客さんであり、のちにAPProg創業をともにすることになる現在APProg代表取締役の橋本氏だった。



2-4.  起業


世界を見て、新しい世界の価値を純粋に楽しみ、それを人に伝えてきた。人々に新たな価値を提供しつづけてきた松岡氏にとっては、新しい会社をつくることは必然だったのかもしれない。


「新人のときに、当時橋本がバリに行きたいってことで、僕が接客をしたんですね。そこから僕が提案したバリをすごく気に入ってくれて、リピーターになったんですよ。5年6年のあいだ何度も接客をするなかで、橋本がある日、知り合いに保育園の運営をしている人がいて、その人がちょっと困ってるという話をしたんです」


横浜で保育園の理事長を務めるその人によると、保育園の現場の仕事は、紙ばかりで本当に大変であるという。それをどうにかコンピュータやシステムを使って効率化したい、そんな相談を受けたという話だった。


まったく知らない業界・マーケットである保育の世界に対し、自分に何ができるのか、まずは調べる必要がある。FacebookやTwitterなど使える手段のすべてを使って「保育士」というキーワードで検索し、出てきた人に片っ端からメッセージを送っていった。


「『困ってることないですか』とか、どういう風に業務をやっているのとか、基本的には困ってることですよね。直接調査しました」


自分なりに保育業界や保育士のコネクションを広め、ヒアリングした結果、まだまだ未開拓のマーケットであり進出する余地があること。なにより、現場で困っている人のニーズがあることが分かった。心に従い「目の前で困っている人を助けること」を当然としてやってきた松岡氏に、やらない理由はなかった。


「橋本と、じゃあそれをやりましょうという話をしたときに、システムを売るときの営業の責任者は松岡、社長は橋本という形にして、創業したんです」


カウンター越しの松岡氏の姿を、5年6年という長いあいだずっと橋本氏は見ていた。そこでの営業としての信頼から、すべて一任するという話になった。


松岡氏にとって、まったく未知の世界への転身。分からないことだらけだったが、保育業界で悩める人たちのため、何かしたいと思った。目の前に困ってる人がいる。それは自分の正義だった。そして、自分の世界も広げてくれる。そんな世界を見てみたいと、松岡氏はAPProg創業に参画することを決意した。



3章 APProgの精神


3-1.  無給の創業期


最初の3年は無給で働いた。二人で資金を調達し、資本金を切り崩しながら、少しずつお客さんを増やす。とにかく日銭稼ぎの日々だったと、松岡氏は語る。生活していくために、横浜のクラブで酒を売っていたこともある。


「もともと同級生のなかに、海外のエナジードリンクを仕入れている人間がいたんです。毎月2、3回、金曜と土曜の夜のイベントで、合計で2年半近くやっていました。ドン・キホーテとか酒屋とか行って、カップや酒を仕入れて、車でクラブまで運んで。クラブがオープンする22時くらいまで準備して、朝の5時まで酒を売って、片づけて帰って寝るのが大体11時半とか12時くらいですね」


保育園で困っている人がいる以上、自分がどんなに苦しくても辞めるという選択肢は松岡氏にはなかった。バーの売上からクラブにテナント料を支払い、残りが売上になる。それを日々の生活にあてていた。APProgを続けるためにも時間とお金が必要だった。


「バイトもできたんですけど、バイトは時間売りじゃないですか。一日どんなに頑張っても1万円から1万5千円ですよね。その仕事の場合は、月2、3回のイベントを知人3人でやって、1ヶ月生活できる給料があるわけですよ」


生活に必要なお金を、時間をかけずに手にする。自分がやるべき保育事業ではない仕事も、泥臭い仕事も、保育園で困っている人のためにやらなくてはならない。どんなにつらい仕事であったとしても、それはAPProgの事業に集中する時間を与えてくれたから続けることができた。


「自分たちが犠牲になってでも、続けていかなきゃいけない。今もそうですね。従業員が増えたので、売上上げないといけないし、そういうことはすごく学びましたね」


事業を進めるためには、事業へ、働く人の生活のためのお金がいる。創業から2年目の終わりから3年目の頭にかけては、これ以上きついことはないと思うほどきつい時期であった。地獄と呼べるほどの苦しみのなか、それでも歩みを前に進めるため信じられる正義がそこにはあった。


「最初の3年間、僕ら本当に長いあいだ地獄を味わって、ほんとに底辺だったので。逆に上がるしかないのかなって、すごくポジティブに考えました。最初から成功する企業って、中にはあると思うんですけど、落ちた事業にはそのぶんの反動ってやっぱりあると思うんですよね」


落ちれば落ちるほど上がるスピードも速い。ポジティブに考えることで、反動を利用して強く前に進むことができる。松岡氏の目には「困っている人」が見えていたからこそ、その人たちのために強い反動をもつことができた。


自分の利益がどうであれ、進むべき正しい道を選択するべきだ。自分の損を顧みずに痴漢から女性を救った、高校時代の松岡氏の姿がそこにはあった。



3-2.  町の電気屋


地獄のような創業期を耐え忍んだAPProgに光が差しはじめる。保育業界のICT化は遅れている。それは純然たる事実だったが、いくつかの問題を抱えていた。その問題を解決するためにも松岡氏ができることは、一つ一つのお困りごとを解決しつづけ「寄り添う」ことだった。それがAPProgの光となっていった。


「僕らは大手家電量販店じゃなくて、町の電気屋なんですよ。大手家電量販店では何でも揃っているし、何でも購入できると思うんですけど、購入後のサポートが弱かったりするんですよね。町の電気屋って購入できる製品は限られてるけれども、ほんとにかゆいところに手が届くサービスがしっかりしている。そういう心がけでした」


競合も何社かいたマーケットだった。いずれもNTTや日立など、大手有名企業がバックについている。彼らはあらゆるテクノロジーを揃えている。そうであるならば、自分たちがやらなくてはならないことは、保育の現場の人たちに寄り添いサポートしていくことであると考えた。


「つくったシステムをそこに取り付けていくところが、一番の障壁になって。保育士の方がもともと持ってるITリテラシーの低さであったりとか、やっぱりそこを打破していくのが非常に大変だったんですね」


ICTにより確実に便利になり保育園の不都合を解決できるが、現場には馴染みづらい。どんなに高度なICT技術を導入したとしても、それでは無用の長物になってしまう。ICT化の進んでいない保育園の現場では、システムのサポート面が一番の心配の種になっていた。だからこそ、現場の人たちが安心して使いつづけられるような体制が必要であった。


町の電気屋のように、かゆいところにひとつひとつ手を伸ばして解決していく。そうして地道に解決していくうちに、それは保育士の方からの信頼に変わっていた。


「保育士の方に一度信頼してもらえると、何でも頼んでくれるんです。僕らも業務内容に境界線を置いてないものですから、やっぱり何でもやるんですよね」


目の前の人が困っていれば、助ける。旅行代理店での営業時代から、お客さんを満足させるようなコンサルティングを一つ一つ行ってきたからこそ、自然と現場に寄り添うことができた。それは、「目の前で困っている人を助ける」という松岡氏の原点があるからこそ、なしうることでもあった。


保育園のお困りごとはシステム面にとどまらない。町の電気屋のように寄り添い、それを一つ一つ解決していく。そんなとき出会ったのが保育家具『CoFa(コッファ)』だった。APProgと同様に、保育園に寄り添う家具メーカーだった。小さなきっかけで保育園から要望をもらうようになり、それが積み重なって一冊の保育園向けカタログが生まれた歴史がある。比較的高単価でブランディングもしっかりしており、ただ店頭に揃えるだけでは売れない。コンサルティングが必要な「深い」ブランドだった。それは、一層深く「寄り添う」松岡氏の姿勢を加速させることとなる。


「おもしろいなと思ったし、それを売ることによって保育園が困っていることを解決していくスキルが上がったのも、たぶん事実です。あの出会いはすごく大きかったですね」


「町の電気屋」として保育園のお困りごとの解決を地道につづけ約3年。その年の春から、事業は拡大しはじめる。積み重ねてきた信頼と、真摯な姿勢が評判となり、口コミや紹介での評判が日本全国へと一気に広まった。



3-3.  日本式保育、海外へ


保育園向け業務支援システム「kids plus」のその先の未来について、松岡氏は語る。


「まずは、いまの『kids plus』を業界No.1のサービスにすることですよね。そのあとはBtoBtoC、保護者向けのサービス拡充、これは並行してやっていくと思います。あとは、海外に提供していくことですね」


いわゆる保育の精神が根付いているのは、日本や北欧が中心といわれる。日本の保育は幼児の生活やしつけのみならず精神面のケアに至るまできめ細かく、季節に応じた行事もたくさんある。日本式の保育はもちろんのこと、日本式保育に倣ったサービスが、海外で提供されていることもあるという。


「たとえば、日本の登降園のシステムとか、自動で請求書が出せるシステムとか、そういう情報を海外の人々も知っていて、そういう風にシステム化してきたいっていう要望のある施設も増えているみたいなんです」


海外のマーケットにはニーズがあり、何よりも規模が大きい。それは「お困りごと」の数の多さの裏返しでもある。


保育の問題は世界共通である。海外の保育現場のお困りごとは、日本で起きていることと変わらない問題もある。保育の仕組みが整備しきれていない土地であれば、今後ますます問題が増えてくることは確実だ。


APProgは、ICT化が進まず非効率だった保育の現場に寄り添うことで、外から新しく柔軟な発想を取り入れ、浸透させていく。目の前で困っている保育士の人々に寄り添うのみならず、保育環境全体を変革し、子どもたちが健やかに育つ未来をつくる。その精神は、世界へと広がっていくのである。



2017.09.04

文・引田有佳/Focus On編集部



編集後記


私たちの人への親切な行動は何から生まれているのだろうか。家族、仕事で出会う人、はたまた道ですれ違う見知らぬ人。私たちは日々、身近な人、見知らぬ人のそれぞれの生活が複雑に重なりあうなかで生きている。そして、そのなかで日々多くの選択をしている。「あの人を助けるかどうか」もそのうちの一つである。


数十年前まで、日本人は互いに依存し干渉しあい生活をしていた。昭和の街並みをイメージさせる「近所の厳しいおじさん」は、その様子を代表するよき風景ともいえる。人々は他人だとしても支えあい、干渉しあい生活を成り立たせていた。干渉し、心を配り合うことで、社会をより良く、潤滑にしていくことを可能にしていたのだ。


しかし、高度経済成長とともに生まれた核家族化などの煽りをうけ、時とともに私たちの生活する社会は、人々への干渉を前提としなくなってきている。「近所の厳しいおじさん」の存在は、今では漫画の中の想像上の登場人物であるように思えるほどだ。現代社会に生きる私たちにとっては、見知らぬ人であれば、たとえ近くにいたとしても、お隣に住んでいたとしても、関与することのない他人となっている。だからこそ、ふとした「お困りごと」があったとしても助けを求めず、それを表現せずに隠すことも多いという。


「他人への思いやり」という言葉で語られる行為の対象である「他人」は、時代とともに変化してきてしまったのだ。「他人」の範囲を狭くし、限定的なものにとどめている。本来、心を配り、手助けしたはずの「他人」の存在に感度を持たず、忘れてしまっているのかもしれない。


親切なひとには、いくらでもなれる。万人が、親切のための余裕・暇はもっている。親切は、ささやかであり、ほんの一瞬の暇・余裕があるだけでも、その気持ちがあれば、これを実行できる。―広島大学教授 近藤 良樹


他人に心を配れるか、親切にできるか。それを決めるのはその心の持ちようであるという。ちょっとした、余裕や暇、親切にするという気持ちがあるだけで成しうることであるようだ。そして、本来それは誰もががもちうるものなのだ。


通勤や通学の途中に出会う見知らぬ困っている人へ手を差し伸べることは、私たち皆ができることなのである。少しの心の余裕をもつことでそれは叶えられる。その心が導くものは、私たちの身の回りを、社会をよりよくしていくことでもある。松岡氏は自らの心に従うことで、身近な人助けを現実のものとしている。その心が、社会をも良くしていくことを私たちに証明してくれる。



文・石川翔太/Focus On編集部



※参考

近藤良樹(2007)「親切(論文集)」,< http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00020347 >(参照2017-9-3).

深田博己(2015)「親切の哲学と心理学」,『対人コミュニケーション研究』(3),pp.33-83.,対人コミュニケーション研究会,< http://harp.lib.hiroshima-u.ac.jp/h-bunkyo/metadata/12212 >(参照2017-9-3).




株式会社APProg 松岡弘樹

取締役COO

香川県出身。中央大学文学部卒業。在学中から長期に渡りアジア諸国(タイ、シンガポール、ベトナム、中国など)に滞在した経験から、株式会社HISに入社。アジア専門の所長代理として、旅のコンサルティングに数多く従事。担当旅行客であった(現・株式会社APProg代表取締役である)橋本氏と出会い、保育の現場を助けたいという思いをともにする。2011年12月、株式会社APProgの創業から参画し、取締役兼営業統括責任者として同社サービスの全国展開に貢献。

http://www.approg.com/


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