Focus On
出光宗一郎
株式会社スペースエージェント  
代表取締役社長
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or信じる限り、人はなりたい自分になれる。
「人の心をゆたかにするつながり」を理念に、従来の不動産業界では縦割りだった売買・仲介・賃貸・管理など分断された人と領域をつなげ、今より顧客本位な新しい不動産業の在り方を創造していく一心エステート株式会社。「不動産×IT×ファイナンス」領域における専門的知見を強みに顧客と寄り添う同社は、都心エリアを中心として着実に実績を積み上げている。
代表取締役の高田一洋は、新卒で入社した大手コンサルティング会社にて、新規事業立ち上げや不動産会社のコンサルティング業務に従事。のち国内外に展開する総合不動産会社リストグループへと移籍し、不動産仲介営業から営業管理職、支店長を経て独立。2021年に一心エステート株式会社を創業した。アルヒ住み替えコンシェルジュのメインパートナーとしてセミナー講師等も担当する同氏が語る「ゆたかな人生」とは。
目次
人生の中でも比較的大きな意思決定を伴う「住まい」という商品を扱う不動産業。コンサルティング会社時代のメインクライアント業界として4年、総合不動産会社の中で約12年。計約16年近い年月を不動産業界と向き合ってきた高田は、この仕事の醍醐味について語る。
「僕は『住むところが変われば人生が変わる』と思っているので、(住まいの取引をされたあと)その人がどう変わっていったかというところまで見届けないと、この仕事の面白さって本当の意味では分からないと思っているんです」
ライフステージが変わっても、常に不動産にまつわる相談ができる人がいる。暮らしや人生の質を大きく左右する住環境を、今よりもっと最適化できる。それこそがお客様にとっての幸せではないかと高田は考える。
不動産といえば一生に一度の買い物。そうではなく、もっと気軽に住み替えられる社会をつくりたい。その思いが、一心エステートを創業するきっかけにもなっている。
「引越しのときにお世話になった不動産会社とかってそれっきりですよね。本当は次の引越しもそこに頼めたら楽じゃないですか。買うとき売るとき住み替えやリフォームも。それができないのは不動産業界に構造悪があるからだと考えていて、その構造悪を解決していけるような会社にしていきたいと思っています」
売買、賃貸、ほかにもリフォームや建築など、不動産業と一括りにされるものは実際多くの領域に分けられる。人も組織も、そのうちどこかに特化することが生産性の観点などから善とされてきた。しかし、それが本当にカスタマーファーストかと問われれば疑問が残る。
顧客の人生を深く知り、ともに歩んでいく。長いお付き合いを前提としたサービスを提供していく。それができる人や組織をつくる。
そのために同社では手厚い教育体制を敷いている。毎週2回、勤務時間内に2時間ずつ高田自らが研修を行っているという。そこにはビジネスマンとして、超一流を目指す営業マンとして、そして1人の人間として夢をつかみ取れるようになってほしいという思いが込められている。
「僕はよく『インサイド・アウト』という表現をするんですが、自分が満たされていないと人の心を満たすことはできないと思っているんです。まず自分を幸せにするからこそ、周りに分け与えていける。だから、まずは心ゆたかな人を社員からつくっていきたいと思っています。社員が心満たされているからこそ、お客様の心を満たすサービスを提供できる」
仕事ができないことは不幸につながる。だから何よりもまず自身が成長し、心ゆたかであることを目指す。そこから真の顧客志向を実現できる、自立した人や組織がつくられていくと信じている。
「心のゆたかさを扱う会社にしていきたいと思っていて。そもそも僕は不動産が得意だから不動産をやっているだけなんですよ。本当にやりたいこととしては、『人の心のゆたかさ』をつくっていきたいと思っているんですね」
ゆたかな人生を歩む人を増やす。それが究極、組織として挑戦する意味でもある。
「ゆたかな人生を歩みたければ、ゆたかな人になる必要があると思うんですが、ゆたかな人って僕の中の定義では、やっぱり頑張って生きてきたと言える人かなと思っていて。人の喜びを自分の喜びにできたりだとか、苦しいことでもやり遂げていった先の達成感を知っている人だったりとか、人生辛いことも悲しいことも苦しいことも生きていればいろいろあると思うんですが、その上でそれを人生の糧にしてきた人って、やっぱりすごい人が多いじゃないですか」
一人ひとりの内面から湧き上がる情熱を大切に、夢をつかむ人を育てる。死ぬとき悔いなく「ゆたかな人生だった」と笑えるように。互いの夢を尊重し合う仲間が組織として一つになり、大きな影響力の輪を社会に対して発揮していく。
一心エステートは、誰の幸福にも不可欠な「心のゆたかさ」を社会に広める起点となっていく。
創業からともに働いてくれているメンバーと
無謀に思える夢を語りながらも、その情熱で人の心を動かし成し遂げてしまう人がいる。
もしかしたら、福井の田舎から東京に飛び出した父もそうだったのかもしれない。周囲の反対を押し切って苦学生として過ごした大学、そして就職を経て地元に戻り、今では市役所で重責を担う立場まで立身出世した。そんな父の背中を見て育った幼少期、自身はどちらかといえば姉のあとをついていく、おとなしい普通の少年だったと高田は振り返る。
「(家庭の教育方針は)自由だったと思います。基本的には何も言われなかったんですが、友達と楽しく遊びなさいとか仲良くしなさいという話はよく聞いていたなという印象を持っていますね。うちの母親は心を大切にする人で、仕事とは別にお茶やお花の先生もやっていて。相手の気持ちを考えろとか相手はどう思ったかという話は、よくしていた気がします」
平日は医療機関で忙しく働きながら、休みの日は茶道・華道の稽古に通う。そんな生活を続けること約20年。今では保育園などで教えるほど、母はその道を究める努力をする人だった。
「だから、子どもの頃に習い事もやったんですが、母親の影響で簡単には辞められないんですよね。余程やりたくないなと思わないと、ちょっと面倒くさいくらいじゃ絶対に辞められない。ある程度まで上手くならないと、面白くならないだろうという話は母からよく言われていました」
友達から誘われたり、好奇心が湧いたり。習い事を始めるきっかけは、いつも何気ないものだった。習字にスイミング、少年野球、ピアノ、英会話。ピアノだけはすぐに辞めてしまったが、それ以外はきちんと通い続けた。
たいてい始めたばかりの頃は楽しくやるものの、徐々に一筋縄ではいかない壁がいくつもあると分かってくる。何事も上達していくのは簡単じゃない。好きで始めたはずが、いつしか「やらなければいけないもの」に変わっていく。そこで踏ん張って突き詰める過程の価値を、母は教えたかったのかもしれない。
「やっぱりできないことができるようになると楽しかったんですよね。あとは、勝つということもそうですし、能力が上がっていって、その先にスタメンやレギュラーが待っているとか選ばれていくこともすごくいいなと思いました」
小学校時代
運動会ではリレーの選手に選ばれたり、テストで良い成績を収めたり。成果が増えるほど、生徒会長や学級委員などの役割に推されるようになった。純粋に頼られれば嬉しい。それが自然と癖づいて「次も頑張りたい」「勝ちたい」という熱意に変わっていった。
「いったん良い成績を出してしまうと、やっぱり落ちることが怖くなるので継続したくなりますよね。そうしていないとカッコ悪いという気持ちもあった気がします。あとは、良い成績を出しておくと文句を言われずに済むので、自由を獲得するためにも勉強をきちんとやっておくことはとても大事な考え方なんじゃないかと思っていましたね」
勉強は好きではないが、順位が出されるからには負けられない。一方で放課後は友だちと遊んでいたい。だから、宿題は休み時間に集中し終わらせた。授業中はノートを取らないので聞いていないようで、話はよく聞いている。教科書を読みこむよりは、一問でも多く問題を解いていく。
周囲からは要領がいいと言われたりもする。ポイントを押さえていくことがうまかったのかもしれない。自分に合ったやり方を考えたら、あとは途中で投げ出さずにやるだけだった。
「やると決めたら徹底的にやるので、中学時代テスト期間中は朝まで勉強したり、結果を出すというところに対しては、すごくこだわりを持ってやっていた気がしますね」
できないことができるようになる。その過程は決して楽ではないが、中途半端に投げ出さないことで得られるものは大きいと経験から思えるようになっていた。
結果を残す達成感、成長していく喜び。それらを純粋に追い求めるうちに、できることが増えていく。子どもの頃からの積み重ねが、人としての当たり前になる。両親の背中を見てもそうだった。いつも心には、結果にこだわる熱意があった。
スポーツも勉強も、できないことを1つずつできるに変えていく。その過程では自信がついた。しかし、中学生活も半ばを過ぎた頃からは、勝ちにこだわる精神が悪い方に振れてしまった時期だったという。
「中学2年生ぐらいから友人と遊ぶことを優先するようになり、毎週末友人の家に集まって朝まで遊んでいましたね。勝ち負けのある遊びなんかをすると、効率と確率の計算が得意で勝つから楽しくて。部活や勉強はそこそこ今までの努力の蓄積でなんとかなっていたんですが、高校に入ったら全然勉強しなくなってしまって」
気持ちもそぞろなまま入学した高校は進学校で、周囲は真面目に勉強する人が多かった。入学時、成績は上から10番以内に入っていたが、高校3年の4月には下から3番目まで落ちていた。
「これはやばいと。でも、当時大学に行く気もなかったので別にいいような気持ちにもなっていて。そこからなんで大学に行こうと思ったのかは自分でも不思議なんですが、やっぱりこのままでいいのかとは少し考えていたんだと思います」
大学に行っても、特に楽しい未来が待っているようには思えない。今思えば浅はかな発想だが、このままなんとなく遊んでいても生活していけるのではないかと考えていた時期もある。将来のイメージはあいまいなまま、気楽な毎日がそのまま続いていくように感じていた。
ちょうどその頃、いとこが隣県にある金沢大学に通っており、キャンパスの様子を見たり聞いたりする機会があった。はたまた一人暮らしへの憧れか、母から「大学には行ってほしい」という話を聞いた影響か。最終的には大学受験を決意した。どうせやるなら、自分がどこまで行けるのか試してみたくなっていた。
「それが高校3年の9月くらいです。模試はどこもE判定。そこから1日16時間とか20時間とか尋常じゃないくらい勉強するようになりました。いきなりスイッチ入ってしまって(笑)。やっぱり成績が上がっていくことが楽しかったですしね。高校3年で中学2年の因数分解も解けなくなっていたので、当時の教科書を引っ張り出してきて問題を解くんですが、昔できたことってやっぱりやればすぐできるようになってくるんです」
高校時代
分からなかった問題が分かるようになる、解けるようになる。前進していくことに楽しみを見出しながら必死で勉強した半年間を経て、奇跡的にも金沢大学へと入学する切符を手にした。
大学では、偶然入ったバレーボールサークルで2人の先輩と出会う。それがのちに人生をすっかり変えてしまうほどのインパクトとなっていく。
「それまでの僕って、どちらかというと実は嫌なやつなんですよ。高校までは親に授かった基本スペックで生きてきて、斜に構えながら世の中を曲がった風に見ていたんです。(自分について語るときも、)ふざけて『友だちいっぱいいますわ』みたいに話していたら、その先輩たちは『でもお前、本当の友だちいるのか』と言ってきて」
昔からいつも多くの人に囲まれてきた。携帯には数百という単位で連絡先が登録されている。しかし、その中に本当に心通じ合う「仲間」と呼べる人がどれだけいるのかと先輩は聞いてきた。お前が困ったとき理由などなくても手を差し伸べて、助けてくれる人がどれだけいるのかと。
「真の仲間はお互いに夢を持って、『お前がそこまで頑張るんだったら俺もやってやるぜ』と思えるような存在、そういう高め合いのようなものの中に生まれてくるものなんだと言われて。『あぁ、たしかにな』と思ったことを覚えているんです」
どうすればそんな人との縁に恵まれるのか。どうして自分にはそんな関係性の仲間がいないのか。
「夢がない」からだと先輩は言う。夢を持たない人の周りには、人が集まらない。
それなら夢を持つにはどうすればいいのだろう。はじめは反発する気も芽生えたが、気づけば夢中で語り合っていた。
「夢がないなら、目の前のことを一生懸命やってみろと。そうしたらお前にできることが増える。できることが増えてきたら、お前に役割が与えられる。そして、その役割がお前の夢をつくってくれるんだと言われたんです。心の底からその話を聞いて、すごいなぁと思って。男の友情というか、やっぱりその人がすごくかっこいいと思ったんですよ。俺もこういう人になりたいなと思ったことがそれ以降のきっかけになりました」
出会いはときに、大きな転換点をもたらしてくれる。遊びに連れて行ってもらったり、ご飯をおごってもらったり。先輩たちには特別目をかけてもらっただけでなく、人とのかかわり方や信頼関係、ほかにも人生で大切ないくつものことを教えてもらった。
普段はフランクながら、いざという時は頼れる兄貴。憧れであり、恩人でもある。この人のようになりたい。そのためには先輩の言う通り、自分自身の夢を探す必要があった。
まずは目の前のことを一生懸命にやる。大学2年からはサークル代表を引き継ぎ、運営に力を注ぐことにした。
「目の前のことを一生懸命やっていくと、やっぱり人が応援してくれて。『ついていきたい』『一緒にやりたい』と言ってくれる仲間もどんどん増えていったんです」
当初全体で2、30人規模だったサークルも、1人で地道に勧誘をつづけた結果、下の代には30人ものメンバーが入ってくれた。「高田さんについていきたいです」と慕ってくれる彼ら彼女らが、今度は次の年に60人を連れてくる。そうして最終的には、150人規模にまで組織は成長した。
もちろんただ人を集めるだけでは終わらない。日々一人ひとりに目を配り、誰より率先して面倒を見ることを心掛けていた。
「金沢大学が山の上にあったので、誰かが足をねんざしたとなれば車で送り迎えしてあげたり。コンビニとか食事に行って1回も後輩に出させたことはなかったですし、ひたすらそのためにバイトをしていましたね。そうやって先輩が僕に熱を伝えてくれたように、僕が下の代に熱を伝えていったら組織が広がっていったことは感動した経験です」
理想として思い描いていたのは、ただバレーボールをするための集まりではない。自分自身がそうであったように、人としての道を教えてもらったり、夢を追うかっこいい人たちが集まる場として育ってほしいという思いがあった。
少しずつ理想に近づいていくサークルを見守るうちに、将来に対する意識も変わりつつあった。
「やればできるし、人は変われると気づきはじめたんです。自分ももう少しやってみるかという気持ちになって、将来何をするかなと考えはじめた時期だったと思います。サークルの代表をやりながら、やっぱり自分の夢を探すこともテーマだったので。そう考えると人の夢に生きる人生よりも、夢を描いて何かをつくっていくような仕事がしたいなと、自分で事業をやりたいと漠然と思うようになって」
大学時代、代表を務めたサークルのメンバーと
その頃、将来はコンサルタントになりたいと言い出した友人がいて、偶然にも株式会社船井総合研究所の創設者である船井幸雄氏の存在を教えてくれた。
「船井先生の本を読むと、ビジネスの仕組みやお金の稼ぎ方、売上の上げ方、マーケティングの仕方などがたくさん書いてあって。それから、社会でビジネスをして成功している人たちや、会社を起こして世の中を変えようと頑張っている人たちの話を読んで、非常に感銘を受けたことを覚えています」
まだ当時の学生の就職先としてコンサルタントという職業が一般的ではなかった時代、貴重な情報源として船井氏の著書やビジネス本を読みあさるようになる。起業家や経営者、ビジネスの最前線で突き詰めてきた先駆者たちの綴る言葉からは大いに刺激を受けた。
「これは僕の運命の出会いの1つなんですが、ナポレオン・ヒル博士が書いた『成功哲学』と出会うんですよ。結論から言うと、思考は現実化するという話で。人はなりたい自分になれるということが書いてあるんですが、おそらく僕が今までで1番読み返した本だと思います」
イメージすることと、それを実行していくことの大切さを語るその本は、特別心に響くものがある。自分も心に浮かぶアイデアやイメージを現実にできるだろうか。本を信じるならばできるということになる。
「(本の内容が響いたのは、)やっぱり人生が変わったからじゃないですかね。中学の途中まではそこそこ頑張っていたのに高1、2くらいは全然で、『俺なんてダメだ』とずっと思っていたんです。それが大学のサークルでは上も下もみんなが僕を立ててついてきてくれて、尊敬される自分になれた。嫌なやつからいいやつに生まれ変わることができたから」
人はなりたい自分になれる。思考は現実化する。
やはり挑戦へと駆り立てられる。ならば今やるべきことは、大学の勉強ではない。大学生という時間を有効活用し、広く社会に目を向け実績をつくっていくことなのではないかと考えるようになっていった。
そこから日本を知りたいと思い立ち、日本一周の旅に出た。はるばる各地を巡ったあとは、「やり遂げた」という自信が身についたようにも思えた。ほかにも自分の人生が変わった金沢の地をもっと多くの人に知ってもらいたくなって、町おこしのフリーペーパーを創刊することにした。
創刊と言っても、実際にやったことは主にリクルートだ。近くにある他の大学(金沢美術大学)の前で出待ちして、片っ端から声をかけ「一緒にやろう」と口説いていった。取材編集もデザインも1人ずつ仲間を集める。協賛を求めて新聞社や飲食店などを飛び回ったが、そううまくはいかない。最終的には県庁に飛び込んで、なんとか紙と印刷機だけ貸してもらうことができたので、自分たちで刷り上げた。
「大学時代は新聞に4回載りましたし、テレビにも1回出て。やろうと思ったら意外にできるんだなとすごく感じましたね。結果、卒業式の日には僕の周りに人だかりができて、抱えきれないくらいの花束をもらって。その経験がやっぱり自分の達成体験というか記憶に残るシーンとしてあるので、こういう風に生きていきたいと思ったタイミングでした」
心の赴くままに挑戦し、多くの人を巻き込んできた大学4年間。私利私欲がなかったわけではないが、みんなのためになると信じていたからこそ熱量を注いできたし、周りもついてきてくれたのだろう。卒業式、後輩たちは抱えきれないほどの花とともに「高田さんが圧倒的なナンバーワンでした」という言葉を送ってくれた。
自分が行動したことで、みんなの笑顔が見られたのだと思うと感慨深いものがある。やはり人はなりたい自分になれる。
なりたい自分をイメージし、燃え上がる情熱がそのまま行動するかのように生きる。そうすれば、自ずと人生が変わっていくと信じてきた。
いつか起業したいとは思っていた。経営者たちの本を読みふけるようになって以来、その道についての好奇心はとどまることを知らず、実際会って話を聞いてみたいという思いは抑えきれなくなっていた。
「大学2、3年のうちから商工会議所とかのセミナーや講演会をホームページでチェックしたりして、著名な起業家の方がいらっしゃるタイミングだったら、福井や富山まで足を伸ばして行ったりしていました。田舎なので車で片道2時間とかかかるんですが、やっぱり会ってみたいという気持ちはすごく強かったです」
どんな経歴を辿った人なのか、どんなことを思いそのビジネスを立ち上げたのか。当時はYouTubeのような便利なサービスもない。気になったことを深めるためには、足を動かし情報を取りに行くしかない。おかげで卒業前には「自分も世の中をよくしていきたい」、「人の生活の質を上げられる人になりたい」と、すっかり確信をもって言えるほど思いは固まっていた。
「就職に関してはそういう気持ちだったので、船井総研に入るか経営コンサルタントになるかと考えつつ、総合商社とかいろいろ内定はしたんですよ。でも、品川の新高輪プリンスホテルで開催される『船井幸雄オープンワールド』に行った時に、偶然五反田で近かったので予約して行ったセミナーがアチーブメントのもので。創業者の青木社長の講演を聞いて、衝撃を受けたんですよね。『うわぁぁぁ、20年後の俺がいる』と思ったんです」
教育で日本をよくするという信念。大きな志を掲げ、着実に有言実行し、世のため人のために仕事をしていくことの大切さ。当時教育には全く興味がなかったが、社会をよくしていきたいという熱量の大きさに圧倒された。
すごい人がいる。将来なりたい自分の見本が目の前にいると思った。
すぐに選考を受け、内定を得る。憧れていた船井総研に入ろうと考えていたが、尊敬する船井氏自身はその頃実質的には経営に携わっていないようだったので選考過程で選択肢から消えてしまった。
ほかにも名だたる有名企業から内定をもらっていたが、辞退してアチーブメントへと入社することにした。
将来起業したいが、どんな領域でしたいかは分からない。だからひとまず能力をつけるために徹底的に自分を鍛えられるよう働く。大学時代の先輩の教えの通り、目の前のことを徹底的にやってみることにした。そうしなければ目の前にあることが好きか嫌いかも分からないし、できることも増えない。できることが増えなければ、結局何をやっても難しいだろうと考えていた。
「(入社後は)猛烈に働きましたね。朝7時半ぐらいから、深夜1時2時ぐらいまで。入社して3か月間の休みは2日しか取らなかったです(自主的に、強制されてません)。でも、僕は激しく働ける環境を求めてコンサルタントになろうと思っていたので、19時に帰れとか言われても『いや、暇じゃん』という話で(笑)。徹底的に働ける環境を求めていましたね」
入社後配属されたのは、新卒採用の部署だった。右も左も分からないまま、採用市場は4~6月にかけ繁忙期となる。忙しい毎日を必死に駆け抜けた末、7月からは新規事業の立ち上げに携わることとなり、メンタルヘルスケアの研修プログラムを企画開発。そのまま商品を自分で売ることになり、9月からは新設の法人営業部で営業活動に従事した。
上司にも恵まれ、幅広く仕事の基礎を叩き込んでもらえた貴重な経験だった。
アチーブメント社の仲間が開いてくれた送別会にて
商談と商談の合間や、会社から駅までの移動時間。肌身離さず持ち歩くPHSには事前にその日アタックする企業の番号を入れておき、歩きながらテレアポする。数分も無駄にせず開拓するうちに、日に5件もアポが入ることが普通になってくる。月間では80件近くにも及ぶ。
それらをひたむきにこなすうち、得られるものは日々営業力が磨かれていく実感だ。気づけば数年が経っていた。
「当時儲かっている業界が不動産と生命保険、製薬だったので、その業界の開拓をずっとやっていたらクライアントが集まっていって。結局コンサルあるあるですが、支援している業界に転職するというまさに典型的な例で。そのまま当時の取引先だったリストという会社に引き抜かれ、不動産の営業マンとしてのキャリアがスタートしていきました」
起業に向けていち早くステップを上がりたいという思いがあり、4年ほど働いたのち退職。いわゆるビッグクライアントで、役員や管理職のほとんどが顔見知りだったリストグループへと転職することにした。
「僕にとってコンサルって実はあまりやりがいがなくて、喜んでいるお客様の顔は見えないんですよ。喜んでいるお客さんの顔がもっと見える仕事がしたいと思ったので、不動産はクライアントがお客さんでダイレクトなのでいいなと思いましたね。人に密着して、目に見えないものじゃなく目に見えるものを売った方が実感が湧くので」
コンサルタントとして経営改善の提案や研修などを売る。それに対しどんなに企業経営者が喜んでくれたとしても、その後現場がどう変わったのか実感を伴い知ることはできない。
当時を振り返れば、そこにあったのは「売れる喜び」だった。しかし、本来仕事とは「顧客を幸せにする喜び」があるべきではないだろうかとも思える。
不動産営業の仕事は楽しく稼ぎもいい。不動産という商品を通じて、顧客の幸せに寄与している実感もある。けれど一方で、業界特有の課題も見えてきた。
「不動産業ってすごく縦割りなんですよね。賃貸もあれば売買もある。リフォームもありますし、建設、建築もあるし、仕入れも建売もありますし、『不動産業』と一言で言ってもいろいろある。でも、全部まとめて不動産業と言うじゃないですか。そういった一つひとつの業界が分断されすぎていて、お客さんに本当の意味でワンストップでサービスを届けられないことに不自由さを感じるようになって」
1つの戦略だとはいえ、それを誰も解決しようとしないのか。ソリューションを生み出す発想自体もないのか。純粋に疑問だった。
思考は現実化する。だから、信念に従い行動すればできるはずだと思った。
「今となってはたしかにそれが難しいことだと分かるんですが、みんなそこから思考を止めてしまっていて、本当はできるはずなのにやっていないというのが僕の見解なんですよ。じゃあ、そういう縦割りの不動産業をきちんと統合していくような動き方が僕だったらできると思い、そういう組織をつくろうと思ったんです」
リストグループでは約12年働いたのち独立。2021年1月、理想の不動産業を体現すべく一心エステート株式会社を立ち上げた。
世のため人のためになる仕事がしたい。広く社会の人の心をゆたかにしたいという思いは一貫して心にある。だから、トップ1%の富裕層だけを相手にするビジネスではなく、より多くの人の生活の質を向上させるようなビジネスをつくりたかった。
2021年5月には、国内最大手の住宅ローン専門金融機関であるアルヒ株式会社と提携。住み替えコンシェルジュ事業を展開し、住宅と密接にかかわる住宅ローンなど金融領域のソリューションを提供できる体制とした。
「不動産って実は家を売っているようで、金融商材を売っているんですよ。住み替えができない大きな要因って住宅ローンの制約のせいだったりするんですね。なので、そこに関するソリューションは今後どんどん展開していきたい。直近5年くらいで会社としては、不動産と金融とIT、この3つの領域の掛け合わさったところのトップランナーになっていきたいと思っています」
これまで業界の慣習とされてきたさまざまな文化には、良い面もあれば悪い面もある。もちろんそれら全てを否定するつもりもないが、時代や暮らしの変化に合わせて最適化すべきことはあるはずだ。
一心エステートはその先陣を切り、未来の不動産業の礎をつくりあげていく。
創業の地にて
インセンティブがつき、実力次第で大いに稼ぐこともできる不動産業界。お金をモチベーションに働くことも1つの生き方ではあるが、そんな業界でスタートアップ企業としてゼロからつくりあげ、社会に新しい常識や文化を打ち立てていく面白さが一心エステートにはあるという。
「完成されたものもいいと思うんですが、自分で作っていく方が楽しかったりするじゃないですか。先日子どもたちと沖縄に行ったのですが、自分で琉球ガラスのグラスを作ってみるとか、自分でフォトフレームを手づくりしてみるとか、そういうものってやっぱり宝物になっていく。それって完成されたものを買うのとは全然違っていて。自分で作るからこそ、思い出に残るものができてくると思うんですよ」
自分の手で作ったものだからこそ思い入れが生まれ、好きになる。企業であれば、仲間とともにつくる喜びを共有できる。それは、1人では決して味わえないほど大きな喜びだ。
「不動産業界で働いていて、『なんのための仕事かよく分からない』『このままでいいのか』と感じている人がいたら、自分たちで組織を立ち上げていくということに対してモチベーションを沸かせて、一緒にこの会社を創っていくメンバーの1人になってもらえたらすごく嬉しいですね」
もちろん全てが順風満帆に行くわけではない。苦しいときもあれば、いいときもある。むしろ課題ばかりが山積みになっているように感じるときだってある。それでもやり遂げ、前へと進んでいく体験は何より自身を成長させてくれる。
結局、自分を助けてくれるのは自分である。人生も同様だと高田は考える。
「僕は今までの人生を、自分で切り拓いてきたという感覚が強いんですよ。自分で意図して創ってきたものだったりするので、そういう風に自分の人生は切り拓いていけますし、会社も同じだと思っていて、誰かが良くしてくれるということはきっとないんですよね。自分自身で築き上げて創っていかないといけないものなので。そう思う人たちが集まって、大きなパワーを持っていけるような会社にしていきたいと思っています」
懸命に働き稼いで、ほしい車や家を買う。それもいいが、どうせ見るなら大きな夢がいい。
自分たちの手で、世の中の常識を変えていくような大きな仕事をしよう。そんな情熱や原動力に共感する人は、一心エステートの門を叩いてみるべきかもしれない。
2022.11.30
文・引田有佳/Focus On編集部
夢がある人の周りに、人は集まる。そんな先輩の言葉に従い、夢を探すべく目の前のことに愚直に取り組んできた大学時代。自分が思うかっこいい人間であるために、イメージを現実にすべく行動する。その過程では、思い描いたことは意外にも実現できるのだという気づきもあったと高田氏は語る。
何かを始めても、充実し面白いと思えるようになるまでは、そこそこ助走期間のようなものが必要になるのが常である。思うような結果が出せるまで、簡単には投げ出さなかった人だけが得られる「できるようになった」という達成感。苦しくてもやり遂げたという自信こそが、ゆたかな心をつくると高田氏は経験から信じるようになった。
自身の心がゆたかであるからこそ、周りの人の心をゆたかにできる。お客様の心を満たすためには、まずはそのサービスを提供する社員の心を満たすこと。
シンプルかつ根源的な価値基準が、一心エステートにはある。だからこそ、心のゆたかさの価値を体現し、ブレない信念を社会に示していくのだろう。
文・Focus On編集部
一心エステート株式会社 高田一洋
代表取締役
1983年生まれ。福井県出身。金沢大学工学部を卒業後、大手コンサルティング会社に入社、4年間新規事業の立ち上げや不動産会社のコンサルティング業務に従事する。その後、当時取引先のリストグループの理念に惹かれ入社、不動産仲介営業・営業管理職・支店長を経て、さらなる理想を追求するために一心エステートを創業。豊富な不動産知識+20代で身についたコンサルティング技術+ファイナンス(お金・投資の知識)を基に東京都心の不動産仲介実績を積み上げている。2021年1月、一心エステート株式会社を設立。